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「花といのちとアフターグロウ 夏の章」 亜流

  • ritspen
  • 2020年7月30日
  • 読了時間: 62分

アフターグロウ/

一九九五年の夏は、生死の二重する季節。

逃れたい母と、縋りつく小鳥と。

朝比奈春香は、不思議な少女だった。

/――残照

蝉が騒ぐ、木の肌に身体をあわせて。蝉が死ぬ、街路樹の下で。

彼らの死骸を、蟻や風や日の光と熱が解体し、僕の目から見えなくした。それでも、蝉の鳴き声を聞く度に、僕は死んだもの達を何度も思い出す。

事務所までの道のりは暑かった。汗がじっとりと滲んで、身体を覆う膜になる。足を機械的に運び、到着を急いだ。日は光輝き、蒼い葉に、固い地面に、ことごとく注いだ。盛夏だった。

事務所には所長と春香しかいなかった。他の社員はきっと取引に向かったか、無断欠勤しているのだろう。室内は冷房が効いており、するどく冷えた空気が火照った身体を刺激する。所長は新聞を広げている。その横で春香も記事を覗きこんでいる。

「おはようございます」

「おはよう、沢端。これ見てみろ、凄いぞ」

 所長はこちらに手を振り、僕を呼びつける。

「なにを見てるんですか?」

「東京駅でな、五月のサリンの真似した奴がいたらしい」

 興奮した顔で新聞の字面をひらいて見せてきた。下らないな、と思ったが僕は軽く相槌を打った。春香が僕に挨拶をしたので、軽く会釈を返した。すこし雰囲気が変わったな、と思った。夏用の淡く白いワンピースに袖を通しているからかと考えたが、どうにもそれだけではないとも思う。だが、結局理由は分からない。

「それで、サリンがどうしたんですか」

「おう、擬きだがな。バカがいるもんだ、アレの被害者達の逆鱗を買うぞ、こいつ」

「それが本望なのではないでしょうか」

「真性のマゾか、イカレ野郎だな」

所長はひとしきり笑った後、すまん、不謹慎だった、と言って新聞を閉じた。それでも顔はまだニヤついている。僕に今日の取引に関する名簿をよこし、早く作業にかかれと言いたげに手を払うと、シェーバーを持ってトイレに引っ込んだ。

「春香、今日は早いんだな」

 突っ立ったまま、所長が閉じていった新聞に目を落とす春香に、僕は声をかける。春香の細く、柔らかそうな二の腕には鳥肌が張っている。冷房が効きすぎだと思った。こちらを向いた彼女は、えへへといつもの笑顔をつくった。

「早起きしちゃったので」

「夏休みなのに、殊勝なことだな。取引は一四時からだから、まだ休んでて大丈夫だ。それと、寒そうだが温度上げようか」

「そうしてくださると嬉しいです」

「じゃ、上げるぞ」

クーラーのリモコンを取り、温度を三度上げた。ありがとうございます、と頭を下げる春香を横目で確認した僕は、自分の作業に取りかかった。今日の担当の客は、鷺川ただ一人だった。彼はこの会社のいわゆる特別な客にあたる。上層部のヤクザの組と関係があると言われてる奴だ。取引量は通常よりも多い。記録によると、利用間隔がすこしずつ短くなっている。確か前回は三週間前だった。そろそろ警察に目を付けられているかもしれない。

鷺川は僕が初めてクスリを売った客だった。あの日、浅草に建てられたホテルの一六階で、彼はクスリの到着を待っていた。現場に向かう間、僕は故郷(あの町)で年の末にひらかれる祭事の、その参道に並ぶ縁日の屋台を照らす提灯を、騒々しい東京の灯群(ほむら)に重ねてみた。朦朧とした光、硬く奔る光、それぞれが混成してできた輝く波濤が夜の街を襲うような、あの眩しさ。東京とあの町とでは、何かが違った。

三月の空気はまだ肌寒かったので、僕はよく温かい缶コーヒーを飲んでいた。

あの日は所長と一緒に現場に向かった。僕は車の助手席で資料に目を通していた。

搭載されているラジオからは、昨年話題になったドラマの主題歌が流れていた。トゥモローネバーノウズ。隣で運転している所長はセブンスターを吸おうと手を伸ばしては、躊躇うという行為を何度も繰り返す。到着するまで、所長はしきりに膝を揺すり続けた。

ホテルのエントランスを抜けて、ワインカラーの絨毯が敷いてある通路を歩いた。靴底から感じる生地の質感を敏感に感じた。年上の女の人の吐息みたいにくすぐったい。鷺川の待つ客室に着いた時、とうとう自分は今日、一線を越えるのだ、という感覚がしたのを憶えている。

いよいよ部屋に入ったら、そこには老齢の男が立っていた。東洋系とも西洋系とも区別のつかない、不思議な容貌だった。五十代ぐらいだろうが、銀に染められた髪がむしろ彼を若々しく見せ、その朽葉色の瞳はガラスの破片のように硬く鋭い。この後、直ぐに取引をしたが、緊張と恐怖で彼らが話していたことは殆ど耳に入らなかった。代金の入っている鮮やかな紺色の絹布の包みを持つとき、思わず手が震えてしまった。まともに鷺川の顔を見ることはできなかった。取引を終えてから、帰りの車の中で、僕はずっと震えを堪えていた……。

「春香、少し散歩でもしないか」

「でも沢端さん、外は暑いですよ。蝉はうるさいし、休憩室の方がいいと思います。それに、仕事中に無断外出はマズくないですか?」

「いいから、行こう。気分転換のひとつさ」

 僕は自分が初めて取引をした相手のことを思い出した。すると、どうしようもなくあの怯えが蘇り、身体が足の底から冷えていくようだった。もう一度あの男に会わなければならないと思うと憂鬱になる。蝉の声を聞いて、小鳥を思い出したかった。空に架かる黒い電線を見て、小鳥を想いたかった。一刻も早く、鷺川を僕の思考から追い出したい。

「分かりました。じゃあ、早く行きましょうか」

「ありがとう、責任は僕が持とう」

 一三時までに戻ります、と書き置きを残し、僕は席を立った。

 事務所の外に出ると、むっとした熱気が身体を包んだ。気持ちいい。目を閉じると、瞼の裏側に、光る闇が見える。事務所に戻るまでの間だけは、この真夏の熱に浸っていたいと思った。

大通りは選ばなかった。小道を二人で並び、ゆっくりと歩く。もちろん、僕は春香の歩調に自分の歩調を重ねていた。時々、別の人間にも合わせる。自分の存在を街に溶かし、夏の空気に緩やかに押し流される様子を想像した。蝉が鳴く、この夏の大気の下で僕という存在は限りなく無へと近づく。

春香は途中で買ったサイダーを美味しそうに飲んでいる。額に伝う汗を拭い、喉を鳴らし、甘い露を身体に染みわたらせる。それは健康そのものといった様子で、病弱な小鳥とはあまりにも違う。小鳥が閑冬だとしたら、まさに春香は盛夏といった具合にだ。だが、ふとした仕草さや、言葉遣いは、息を呑む程小鳥と似ている。その些細な矛盾が、いつも僕を戸惑わせた。

僕らは歩きながら他愛もない話をした。春香にとってどうかは知らないが、それは僕にとっては小鳥がいたあの病室を想わせる。消毒液の臭いや、リノリウムの床、小鳥の声音。

歩くたび、東京の街並みは色を変える。だが、蝉の声は変わらずに、必ず響いている。

 近くにある公園のベンチに腰掛けた僕らは、会話を続けていた。

「春香はどうして、この事務所に入ったんだ」以前からずっと気になっていたことを、僕はきいた。「何か理由でも?」

「どうして、ですか。お金が欲しかったから、という理由じゃダメですか?」

「ダメって訳じゃないが、こんな仕事、普通は選ばないだろう、クスリの売人なんて、ハイリスク過ぎる仕事を。しかも、君はまだ高校生だ。何か目的があるにしても、突飛すぎやしないか」

「大金が必要っていう、在りがちな理由です。それにこの仕事、たまたま知り合いの紹介で、給料も良かったし」

 淡々と話す春香を見て、やはり何か特別な事情があるのだろうと思った。もっと条件の良い仕事は、他にいくらでもあるはずだ。お金のためでも、ここまで無茶なことを普通はしない。もしかしたら親の借金かもしれない。

「じゃあ幸太さんだって、なんでこの仕事選んだんですか、ハイリスクなんでしょ、この仕事」

「さあ、なんでだろう。気がついたら始めてたよ」

「ほら、大した理由なんて、本当は無いんですよ。私と幸太さんも、似たもの同士です」

「そうかな」

「そうですよ、前にも言ったじゃないですか……幸太さんとは話していて、とっても落ち着きますから。なんだか、波長が合って、不思議なんです。いままで、こんなに気を許して話せる人、いなかったんですよ」

 白く細い足を伸ばして、ぶらぶらと振る春香は遠くの人通りを眺めながら言った。飲み干した空っぽのペットボトルを両手でクルクルと遊ばせている。

「落ち着くとか、そういうのは解らないけど。僕達はパートナーだからな、それはきっといい関係と言えるんだろう」

「その、パートナーっていうのは、ちょっと複雑ですが」伏し目がちに春香は声をこぼす。「幸太さん、遠慮無く私を頼ってくれていいですからね、仕事でも、なんでも」

「ああ、そのうちな」

「きっといつか、私も幸太さんを頼る日が来るかもしれないですね、そしたら――」

 その後につづく言葉を春香は口にせず、黙った。どうした、と訊いても彼女は返事をしない。それどころか、反応がまるで無かった。

 妙だと思い、彼女の顔を確認してみると、春香はただ一点を見据え、固まっていた。今まで見たどの春香の表情とも違う、まるで小鳥が発作を起こした後に見せていたような、怒りや虚しさが抑えようもなく顕れた顔で。

 彼女の視線の先には、線の細い淡泊な顔つきの女が、公園の目の前の通りに立っていた。切れ長の目が春香を睨みつけている。

 そのまま女が僕らに近づいてきた。目の前に立ち、春香を見下ろす。

「アンタ、そんなところで何をしているの」

 高くて、気色の悪い声だった。

「戻るわよ」

 その言葉に春香はゆっくりと頷いて、力無く立ち上がった。女と一緒に歩いて行こうとする。僕はあわてて引き留めようと、彼女の手を取った。瞬間、春香は僕に縋るような顔で振り向いた。無実を乞い願う冤罪者のような、悲壮な顔で。このまま手を引っ張って、走り出してくれ、と。

「戻るわよ」

 女のきつい声とともに、春香は諦念を込めた表情で僕の手を弱々しく振り払った。そのまま公園を漫然と歩き去って行く後ろ姿を、僕は立ち尽くして眺めた。

「分かりました、おかあさん」

去り際にこぼされた春香の掠れ声が、蝉のけたたましい声に被さって聞こえた。

結局、鷺川はその日の取引に来なかった。

あの後、散歩を途中で切り上げて取引現場のホテルに向かったが、目的の部屋には誰もチェックインしていなかった。僕達はエントランスで五時間は待ってみた。まるで不審者だな、と自嘲してみた。だが、何も変化は起きない。鷺川が来るまでもう少し待とうと思ったが、機嫌を悪くした所長は帰ると言って聞かなかった。僕らはホテルを出た。

帰りの車の運転は僕がしていた。

「くそっ、気分悪いぜ。どいつもこいつも、サボりやがって」

「鷺川さん、きっと何かあったんですよ、だから連絡も無しで」

「鷺川はもういい、放っておいてもいずれクスリを強請ってくる。それより、朝比奈が来ないのはどういうことだ、おい。なあ沢端、なにか言え」

「……すみません」

「ああくそっ、沢端、お前の給料、今回の取引分はペナルティーで無しだからな」

 所長は荒れた。窓も開けずに、飲み干すような勢いでセブンスターを吸っている。車の中は煙で白く曇っている。夜景が灰まだらに濁って見えた。僕は丁寧にハンドルを捌いた。

その内、春香はいま何処にいるのだろうか、と僕は考えた。昼間のあの女が、そのまま彼女を家に連れて帰ったのかもしれない。たしか、春香の母だとか言っていた。神経質そうな、品の無い女だと思った。春香とは、きっと仲は良くないのだろう。

今さらどうして春香の居場所を考えたのか、僕には分からない。

ただ、今この時に、自分の隣に彼女がいないことは、少しだけ寂しかった。

事務所からの帰途。路地裏の平屋に掛かっている萎んだ朝顔の花暖簾の前で、春香は僕を待っていた。くすんだ色の花弁からは、濃い匂いが芬々と漂う。真っ暗な通りに立つ彼女は、いつものようにえへへ、と微笑んでいた。

「さっそく頼りたいんです」僕の目を覗きながら彼女は言った。「幸太さんの家に泊めてください」

「……何があったんだ、春香。あの母親らしい奴のことは、もういいのか?」

「あの人は、お母さんなんかじゃありませんよ」

 唇の端を固くつりあげて、春香は吐き捨てた。

 僕はなんと声をかけて良いのか分からず、そうか、としか言えなかった。

「家に着いたら話すので、だから、いまは何も」

 ひとまず僕は春香の頼みを汲んで、彼女を高田馬場の下宿に連れて行くことにした。あの女のことに関する話はそれからだ。地下鉄の中では、春香はほとんど無言だった。訊いたことに対して、求めた事実、内容を必要最低限に返答するだけで、それ以上は何も口にしない。分かったのは、春香は五月からの三ヶ月もの間、高校の知り合いの家やホテルを泊まり回って過ごしていたこと。それが母親にバレてできなくなったことだ。

 駅を出ると、早稲田大学の学生らしい人間が演説をしていた。オウム真理教の支援団体だ。ヒステリック気味に声を張る彼らは、麻原を救いの御仁だとか、我々はいま新たな修行の段階に入っているのだとか、ひたすら主張を繰り返す。

 春香はまるで何も目に入れたくないといった様子で、彼らの横を素通りした。だから、僕もオウムの団体を無視して家へと歩いて行った。二人並んで歩いていたが、状況は昼間とはまったく違う。夜燈により照らされた道を、無言のまま並んで歩く。人通りも僅かで、蝉の鳴き声はしない。風が少し涼しい。湿気が肌をなでた。

 家の施錠を解いて、中に入ると春香は背負っていたリュックを直ぐ床の上に置いた。それから、僕は冷蔵庫にしまってある缶コーヒーを取りだし、彼女に向かって放り投げる。

「いつもこのコーヒーなんですね」

「苦手か、それ」

「やっぱりコーヒーは。でも微糖にしてくれているのは、嬉しいですけど」

ブラックコーヒーをやめてから、もう随分と経った。甘いのだが、それが嫌だとは思わなくなった。一口すすり、喉を通るまろやかな苦みを感じる。春香も慣れた手つきでプルタブを上げて、缶の縁に柔らかく口を付けた。

「そろそろ話せるか、春香」

 できるだけ穏やかにきいた。

「大丈夫です、話せます」

 息を一つ置き、春香は頷いた。

 春香は少しずつ話し始めた。

「あの人は、私の母さんの、お姉さんなんです。私の母さんはいま患っているから、かわりにあの人が私を引き取ったんです。仕方がないんです、お父さんは生まれたときから顔も知らないし、祖父母はもういないので、私にとって親戚と言えるのは、あの人しかいなかったんですから」

春香はリュックから一枚の写真を取りだし、僕に見せてきた。そこには白い作務衣を着ている、妙齢の女が写っている。母です、そう言った春香を見て、僕はふたたび写真の女に視線を戻す。たしかに公園で会ったあの女よりも、目鼻立ちが春香に似ていると思った。しかし、女はひどくやつれた顔をしていた。クスリを打って発狂した後の、消耗して青ざめた人間を想起させる。

ふと菱田の顔を思い出した。あの雨の日、あの女と交わって途方もない自己嫌悪に陥った後で見た顔だ。ベッドの上で神々しいと言うべき様子だった母の、ホテルを出るときの表情。怯えきった、死刑を宣告された後の被告人みたいに……今も僕の中で母の問題は消化し切れていない。

僕は春香に写真を返した。春香は写真を丁寧に和紙でくるみ、封筒に差し込むとリュックの底のほうに仕舞った。

「母さんは、オウムに入っていたんです」

 苦笑しながら春香が呟いたその言葉で、途端に合点がいった。彼女が通路で見せた、あの態度の理由がはっきりした。何もかもが鮮明に色を帯びる。

 話し続ける春香を見て、僕は何故だか、また寂しくなった。彼女が口に出す内容が、自分の想像したものと寸分の狂いなく重なり合っていくのを、ただ聞いているだけの作業になるからだ。出家、修行、薬物、血(イニ)の(シエ)儀式(ーション)、売春(ダーキニー)。

 聞いていて、うんざりした。

「私財もなにもかも、あの団体に寄与して、母さんは私を捨てたんです。一度、麻原の愛人にされそうになったこともあります。母さん、実の娘を他人に売ったんですよ、神聖なことなんだって言って。それでも、信じてたんです。母さんは私にとってただ一人の家族だったので。

 それが精神病になって見つかったあの時、私には頼れる人がいまのお義母さんしか残されていなかった。だから、わたしは……あの人は、本当は私の母でもなんでもない、押しつけられたんです、伯母さんも、私を。それに母さんがオウムに入っていたことは、あの人にとっては恥そのものでしたから……私があの家に居たら、ダメなんです」

「君を捨てた、というのはいつなんだ?」

「二年ぐらい前です、それっきりです。母さん、出ていったときも普段と変わりなくて。あの時私、何にも思わなかったんです、ああ居なくなっちゃったってぐらいにしか。再会したときも、病院のベッドで、あなた誰って言われて、それで――」

「分かった」

堪らず僕は遮った。ところが、なおも春香は喋る。刃物のような現実を言葉に乗せて、せっつかれるように春香は声を出しつづける。

「もういいから。しばらく、ここに居ていい」

今の僕には、それしか言えなかった。春香はなかなか口を閉じなかった。

長い時間、春香は話し続けていた。

ようやく口を閉ざした春香の固い笑顔が、ゆっくりと無表情になった。疲れたのか、それとも話すことが無くなったのか、分からない。

凍った瞳をした彼女に、僕は何もできなかった。励まそうとすれば、その行動すべてが陳腐なものになることを僕は知っていて、僕はただ黙って春香を見る以外になかった。やはりお前は無力だなと、誰かが耳もとで囁いた気がした。結局、僕は行き場をなくした彼女が下宿に泊まることを許した。

春香のことは、所長には伝えないでおくことに決めた。一度仕事を放棄した人間を、所長は許したりしないと知っていたからだ。

それから、僕ら二人の生活が始まった。

一緒に暮らし始めてしばらく経った。春香は以前の笑顔を取り戻しつつある。それが僕はなんとなく嬉しかった。

菱田実世子が今日の取引相手だった。ホテルのある一室で、つつがなく取り仕切られるクスリと金のやり取りの間、僕はじっと息を潜め、女の行動を観察していた。

菱田はまるでこの間の出来事は夢だったかのように、平然とした態度で笑っている。いつも持ち歩いているエルメスのバッグを肩にかけて、ベッドに腰かける。艶めかしさを見せつけようとするその姿には、あの雨の路上での惨めさが微塵も感じられない。まさしく欲望を勝ち得てきた者だ。豪華に飾り立て、自身を誇示する。

取引に連れ添った社員は、早くもその妖艶なしぐさに当てられていた。じろじろと視線を女に流す。ところが、菱田は素っ気ない態度なので取引以上のことは起こりそうにない。取引を終えた僕らは部屋を出ようとし、菱田に背を向けたとき、

「沢端くん、少しのあいだ待ってもらえるかな。ちょっと話したい事があるのよ」

 そう後ろから呼び止められた。息が止まるかというぐらい僕は動揺し、思わず「どうしてです、取引は完了しています」と言ってしまった。

「安心して、あなたの仕事に関係する話だから」

「クスリの注文ですか、それとも、代金の減額ですか。無理ですよ、僕に決められるような事じゃない、所長に当たってください」

「そんなんじゃないわ、いいから少し待って。ねえちょっと、そこの君、沢端くんしばらくお借りするから、所長さんにその旨伝えておいてくれる?」

 そう言って横目を流す菱田に、社員は笑顔で了承し、部屋を後にした。僕と女だけが室内に取り残された。早く話を終わらせて、この女から離れたいと思った。

「ねえ沢端くん、今からあの雨の日の続き、したくない?」

「お断りさせていただきます」

 くっくっ、と菱田は噛み殺すように笑う。冗談よ、と。

 僕は無性に腹が立ったが、そのまま口をつぐんでいた。自分の動悸が早くなるのを感じた。菱田はバッグの中から、一枚の紙切れを取りだし、僕に見せる。そこには雇用契約書と書かれてある。会社の名前が載っており、代表取締役の欄には、菱田彰という、いまの母にとっての夫の名前が記してある。一瞥し、考えられない、と僕は女に突き返した。

「どうして? いまの会社よりずっとマトモだし、給料も良いわ。あなたの能力を見込んでの事よ、何が不満なの」

「非常識ではないですか、こんな場所で、引き抜きだなんて」

「私たちに常識を当てはめるの、そんなこと無意味だわ。クスリの売人なんて仕事してて、第一あなた、客である私と寝てるのよ、これは君にとっての常識的な行為なのかしら?」

 意地悪く菱田は微笑む。僕は渾身の力を振り絞って、にらみ返した。

「……まあいいわ、あれは事故みたいなものだし。断られたのは残念だけど、わたし、あなたみたいな人好きよ、寡黙で職務に忠実な人。だからこれからも注文してあげる」

「……ありがとうございます、これからも贔屓にして頂けますと嬉しいです」

 とりあえず精一杯自分を取り繕って感謝を述べた。

 事故、という母の言葉に自分が傷つけられたのを自覚した。それだけのことだった。女の口ぶりに怒りも湧かず、この感情をどう処理しようか戸惑った。後の言葉などどうでもいい。立っていられない。僕は急いで帰りの支度を済ませた。

「それでは、もう僕はこれで」

「沢端くん」菱田が僕を再度呼びつける。辟易しながら、僕は女の方を向いた。

「この間の、見えないものばかり追いかけていた沢端くんに。それから考えは変わった?」

「なんの話……ああ過去、ですか」僕は答えを考えた。「今の僕にとっては、それだけが全てみたいですね」

「そう、そうなの。ふうん、可哀想な人ね。それじゃあ死んだも同然だわ、あなた」

「菱田さんと僕は、違いますから」僕は背を向けて言った。

「あなたはただ見ているだけ。それじゃあ目の前の真実を掴めはしないわ」

 菱田が退屈そうに呟く。

「あなたは、自分の見たいことしか見ていないのよ」

 部屋を出ていく時、閉まる扉のすき間から見えた菱田の姿は、まるで女神だった。己の力を遺憾なく振るう、欲望のすべてを肯定する。母の古影に囚われる僕と違い、過去という轍に足を取られない、今生を謳歌することのみに意味を見いだしている。その姿に、僕は不覚にも感動してしまった。

完全なる敗北だと思った。あの女、母にはどう足掻いても勝てない。僕は都合のいい、おままごとに使われる人形のような存在だ。役を与えて貰い、その通りにしか動けない。子ども、売人、男。ところが、それはいつも、僕の望んだ形では与えられない。

母の目に、本当の僕は映っていない。

事務所へは歩いて戻った。残っていたのは所長だけで、他の社員達はみんな帰ってしまっていた。疲労困憊だった。すぐに下宿に帰りたかった。

「戻りました」

 帰るなり、所長が僕の方に駆け寄ってきた。

「沢端、おい、お前何してたんだ、大変だ」

「どうかしました?」

「菱田さん、さっき車に轢かれたそうだ。頭を強く打ったらしい、いま意識不明で病院に担ぎ込まれたって連絡が入った。お前、さっきまで一緒にいたんだろ、なあ」

 狼狽える所長の言葉に、僕はどう返事したのだろうか。

 あの強大な女が、強欲の女神である母が倒れた。さっきまでホテルで神々しく振る舞っていた菱田の影が、ふと脳裏に鮮明に甦った。その女が、こうも、あっさりと。

 伝えられた現実に、僕はただただ、限りない空虚さを覚えた。

 何かが崩落してしまった。僕の意識の中にある、重く、固く、周到に、長い年月をかけて拵えられていた何かが……。

事務所を出ると、熱気はさほど感じられなかった。八月の晦日は、厚い曇が重苦しく横に広がる、濁った黒灰色の空だ。降りる月光は弱々しい。

その日から僕は、母さんの影を見なくなった。

下宿に戻ると、いつものように春香が笑顔で出迎えてくれた。部屋の奥からは、味噌汁だと思う、いいにおいがする。

「お帰りなさい、幸太さん」

「ただいま、春香」

入り口までパタパタと駆け寄ってきた春香に、僕も笑顔で応える。春香はエプロンの裾で手を拭きながら、もう出来てますから、と奥の方に下がっていった。僕はリュックを下ろして、食器に料理をよそって運んできた春香と二人で一緒に食卓に着いた。ツヤツヤと立っている白米と湯気の上がる味噌汁、肉じゃがが並べられていた。

「いただきます」

 二人で手を合わせ、同時に言った。食事をするときに、いただきますなんて言うのは、春香と暮らしはじめてからだった。いつも春香が口にするので、僕もいつの間にか言うようになったみたいだ。

 食事に手をつけ始める。春香が作ってくれた肉じゃがを頬張った。すると、牛肉のうま味が甘塩っぱい煮汁と絡んで口の中をジワァ、と広がっていく。濃い味付けのためか、喉の奥にまで味が染みた。次に白米を食べると、ちょうど良い米の甘みが感じられた。

「おいしいよ、今日も」

「えへへ、ありがとうございます」

 二人で同じ卓を囲んでする食事にも、もう慣れた。同じ部屋で同じものを食べている。それが不思議と嫌じゃなかった。

 仕事を終えた後に誰かと話すようなことは、今までなかった。何を話したらいいか初めの内は戸惑ったりもしたけれど、いまは自然と会話できている。

 最近はよく絵を描いていた。春香がこの下宿に泊まるようになってから、本当に久しぶりに絵を描いて、それからだった。たしか小鳥が初めて発作を起こして、その時から絵を描くのをやめていた……。

 僕はどうして絵を描くのをやめたのだろう。思い出せない。

 久しぶりだったから、まずは道具から揃えた。買ってきた安物のスケッチブックに、上手くはないが鉛筆でかたちを写していくという作業が面白かった。改めて目の前のものを見て、何かを掴みたいと思っているのかもしれない。新しい気づきも多い。春香は描いているのを見ている方が良いようで、僕が絵を描くのを横から眺めているようだった。そうして、二人で静かに過ごす日が続いていた。

 春香も随分あかるくなっていた。僕らの間で母親の話はあれから一度もしていない。僕はまた以前の春香に戻りつつあることを感じて、少し安心した。

「幸太さん、おかわりは?」

「ああ、もらおうかな」

「分かりました!」

空っぽになった茶碗を春香にわたす。春香は炊飯器のふたを開けて、まっしろな米をしゃもじで掬い取る。僕はその様子を黙って見ていた。

「はい、どうぞ」

差し出された、ご飯をよそいでくれた茶碗が温かい。

僕は礼を言い、丁寧にその碗を受け取った。

夏のひどい暑さも、その勢いが弱くなり始めていた。クスリの取引はいつものように続いている。事務所に春香のいない光景が、当たり前になり始めた。

鷺川が行方不明になったという突然の報せに、所長は暴れた。

「くそっ、菱田は轢かれるし朝比奈も消えてよお。そのうえ鷺川まで逃げて、なんなんだ、まったく」

 所長は置いてあった新聞を取り上げ、床に叩きつけて、そう言った。

「所長、すこし外に出てきます」

「はやく帰ってこいよ、お前までいなくなられると、かなわない」

「ええ、分かりました」

「早くな」

 念を押す社長にお辞儀をして、僕は事務所から出た。僕はあそこから離れたかった。どこに行きたいわけでもないので、とりあえず小道を歩いた。しばらく歩くと、いつかの公園にまで来ていた。暑かったので、あの日の春香のように自販機でサイダーを買ってベンチで休んだ。

 春香はいま、何をしているのだろう。

 僕はサイダーを口に含んだ。甘さと冷たさに舌が痺れた。

「あ、あんたは……」

 ふと声をかけられた。見たところ、トイレの清掃員だと思った。だが、妙な既視感を覚えるその男の顔をよく見てみると、以前取引で春香を強姦しようとしたサラリーマンだった。男の鼻は曲がっている。僕はすぐに身構えた。拳を振り上げる。

それから、男の制止を聞かず、脇腹に拳を入れる。男は呻いて腹をおさえた。だが、動かずに黙って僕の方を見た。それでもニヤリと笑う男に、違和感を覚える。

「どういうつもりなんだ」

「久しぶりに見知った人間に会ったんでな、つい話しかけちまったんだぁ」

「……そんなに親しくもないだろ」

「まあ、そうなんだが」

男は恥ずかしそうに、捻れた鼻がしらを指でこすった。

「俺さ、この前の神戸の地震で嫁と娘……家族なくしちまったんだよ。だからさ、あんたみたいな面識のある人もういないんだわぁ」

「他に家族は?」

「いないよぉ、単身赴任で俺だけ生き残っちまった。それからはもう無茶苦茶さぁ」

「あいつを襲ったのも、それが理由か?」

「ああ」

 事もなげに男はそう言った。自暴自棄のために強姦されかけた春香が、ひどく惨めなことをされたようで、何があってもこの男を許せない。そう思った。

「もう嫁も娘もいないし、会社もクビになっちまった。今は食いつなぐだけだぁ」

男はどこか変だった。酔っているみたいに目が濁っている。

腹を抱えながら、力なく浅い息を吐いている男を見ていると無性に腹が立った。

理由が分からない。けれどこの男の生気のない目を見て、弱音ばかりを聞いていると、自分自身もそんな人間のように感じられてくるのだ。

「あんた、これからどこ行くんだい?」

「もう今後は僕に寄ってくるな」

 僕は無視して、事務所へと歩きだしていた。後ろの方で、まだ男が何か言っている。

 もうダメだなあ、あの頃に帰りたいよ。

僕は振り向いて、その男をもう一度見てから、また歩いた。

どこにも行きたくない……。

僕はどこに行くことが出来るんだろうか。小鳥のいなくなったあの日から僕は、どこに向かって生きてきたのだろう。小鳥への誓いだけをよすがとして僕は、一体どこへ行こうとしているのだろう。歩きだしても、そんな思いが残り続けた。

労働を終えて帰途につき、夕食を終えた僕は、いつものように部屋で静かにしていた。春香は鼻歌をうたいながら洗い物を片付けているようだ。食器の擦れ合う音が水音に混じっている。僕は窓の向こうに浮かんでいる闇と、そこに写る建物をスケッチブックに描いていた。

暗い影を追うように線をなぞる。固い棟があやふやに見えるのは不思議に思えた。鉛黒色は濃薄のちがいで、いくつにも描き方を変える。思い通りいくこともあれば、いかないときもある。

見たものを、感じたままに。それが心地良い。

「幸太さん。今日の残ったお味噌汁、明日の朝ご飯にしますね」

「ああ」

流し場からの春香の声に、僕は鉛筆を紙面に走らせながら応えた。

心地良い集中。僕は線で作られた世界の、僕自身が見た世界の有り様に浸っていた。

描いてる物は闇とコンクリートの塊のはずだ。だが僕の目には、ただ透明な膜が幾重にも連なっているように見えて、実際に紙の上には闇はなかった。スケッチブックには僕が見たものがそのまま写される。その先に何か、僕の見たいもの以外の存在を掴み取りたいと思った。

最後に幾筋かの線を引いた。これで終わり。

僕は描く手を止めて、しばらくその絵を眺めた。これ以上は無理だなと思った。

「描けたんですか?」

「うん、もうこれ以上は蛇足だから……見る?」

「見たいです」

洗い物を終えて手を拭いている春香に見えるよう、僕はスケッチブックを向けた。春香はしげしげと見つめた後、街ですか? と聞いた。僕はそうだよ、と頷いた。

人に描いた絵を見られるのは気恥ずかしい。自分を覗き見られているような感覚がする。そんな時、僕は室内の蛍光管の明かりでさえひどく熱いと感じてしまうぐらい過敏になる。春香の細い指先が紙面を滑っていく。僕はその様子をドキドキしながら見ている。

「暗くないんですね」

「ああ、僕にはそう見えたから」

「……空気みたいな絵。とても綺麗で、なんだか泣きそうになる」

春香はさびしげに声を出した。僕は何も言わなかった。

「ねえ、幸太さん。私を描いてみて下さい」

顔を上げてスケッチブックを僕に差し出す春香は、そう言って僕を見た。

一瞬、僕は躊躇った。いままで彼女を描いたことが一度も無かったのだ。心のどこか奥底で「できない」と小さな悲鳴が上がっていたのだ。しかし今なら、できる気がする。

僕は鉛筆の先をカッターで削る。細い木の屑をゴミ箱に捨てて、スケッチブックのページをめくる。春香に壁の方へ座ってくれと頼んだ。すると春香は嬉しそうに頬を緩めて、壁を背景に体育座りをした。僕は春香の全体を見つめた。

春香の身体は細く、線を取るのに戸惑った。人の身体を描くのは初めてではなかったが、それでも女の子特有の柔らかな質感を捉えるのは難しい。

白紙の上に黒い粒子が連なって線をつくる。線は重なり合って影をつくる。繰り返す作業からしか、絵は完成されない。春香を見ることでしか、春香を知り、春香を写し出すことはできない。春香を写してゆくたび、小鳥の影もつくられる。心地よい集中だった。黒と白のあいだで、二人の姿は重なり合っていく。

あれ、僕は誰を描いていたんだろう? ああ、春香だった。

何度も鉛筆を紙面に走らせて目の前の君を描いていくことは、そのまま君を知るようだと思った。君に近づいていくイメージが懐かしい。出会ったときもそうだった。あの夕空の下で輝きを一身に浴びたその姿が、本当に嬉しかった。だから僕は線を引く。

君をもっと知りたい……。

「幸太さん、笑ってる。どうかしたんですか?」

春香は小首をかしげる。そして、自分がモデルということを思い出したようにあわてて元のポージングを取った。

僕はその様子を見て、少しだけ吹き出してしまった。

「あぁ! 幸太さん、いま私をバカにしたでしょう……」

「ごめんごめん」

 むぅ、と春香はむくれて僕を見る。

「ごめん。えっと、春香はそっくりなんだ。亡くなった、僕の幼馴染みに」

「幼馴染み、ですか」

「小鳥って言うんだ」

「……幸太さんは、その人が好きだったんですか」

「うん、好きだ」

僕の答えを聞いて、春香は伏し目がちになった。

僕はあの町を出る日、小鳥を愛し続けると誓った。昔も今も、これからも。だから、僕にとって春香は小鳥の代わりでしかない。しかし、最近は目の前の春香自身とたしかに喋っている気もしていた。小鳥の影が彼女と重なり合わない瞬間が確実に増えた。いつからそうなったのか分からない。

僕は違和感を振り払うように線を引いた。春香を僕自身が見たままに紙に落とし込んでいく。小鳥ではなく春香の姿を。

途切れた会話を埋め合わせるように僕は絵を描き続ける。春香はモデルでいることに徹している。

この部屋で二人いっしょに過ごした二週間ほどの期間、それが僕の描く線に何かしらの影響を与えているのかもしれない。この下宿で、春香はよく笑った。僕もつられて、下手な笑顔をした。その時間、僕にも目にする全てが鮮明に見えていた。

僕は思った。もしかしたら、あの時間こそがいま僕に絵を描かせているのだろう。

菱田との過ちも忘れられた。それは小鳥への罪悪感を消してくれた。小鳥に似た目の前の少女は、僕を癒やしてくれるのだ。春香の肉体、表情、瞳……描き出すそれらが、僕の捉えた真実ではないのだろうか。あの誓いに関わる全てが脳裏で点滅している。

「ずっと小鳥を愛すると誓う。それだけが、僕にとっての生きる意味なんだ」

「もう誰も愛さないんですか」

「うん、誓いだからね。僕にとって小鳥はすべてだ」

 一瞬、菱田の顔がよぎった。それを無視する。

「そんなの、おかしいです」

「……どうして?」

 ふと、語気が強くなる。春香を睨む。

「死んだ人を思い続けるなんてできないです、だって幸太さんは、生きてるんだから」

「それは春香もだろう。君も自分の母親のことを引きずっているじゃないか。親を捨てたって言っても、君はまだその写真を大事そうに持っている。誰かを思い続けている君に、僕が誰かを思い続けることを否定できはしないだろ、違うのか?」

「それは……!」

「いや、すまない。その、言い過ぎた」

「いえ。私も言い過ぎました。ごめんなさい」

 ぎこちない返事を交わす。僕は絵を描く作業に戻ろうと思った。

 そういえば以前、似たようなことを、菱田にも言われた……。

春香の姿が紙の一点を埋め尽くす。黙ってただ描いていた。描かれた彼女は、もうほとんど目の前に座る姿と同じだった。

これ以上は余分となってしまう、と感じる瞬間に鉛筆を紙から離した。消しゴムで修正を加え、同時に光を捉える。最後の僅かな微調整を終えて、僕は絵を完成させた。

僕は春香に絵を見せた。春香はじっくりと絵を見ていた。口もとを弛めている。だが、すぐに引き締める。僕は流し場に水を飲みに行った。ハンドルをひねり、蛇口から透明な水をコップに注ぐ。飲み干したら、少し落ち着いた。

戻ると、春香はスケッチブックを机の上に閉じて置いていた。曖昧に微笑むと「上手ですね」と言った。その後、これは小鳥さんですか、と僕に聞いた。

「春香だよ」

「本当に?」

 僕はすぐに肯いた。でも、違和感は拭えない。

 春香は身じろいだ。そうして、僕を正面から見て、息を長く吐いた。春香はスケッチブックを指でつついている。もう一度笑って、そうですよね、と呟いた。それから、目を伏せた。

 ふと、思った。その顔は僕の言葉を信じていないのだろうと。

「どうして、春香、君は僕に、こんなに優しいんだ?」

 長い間抱えていた疑問を、僕は春香……君にぶつけてみた。

「優しいのは、幸太さんです」

「いや、それでも君は僕にもっと言って良いことがあるはずで。それに、僕は君に優しくされる理由が、よく分からないよ」

「理由なら、ちゃんとあります」

 毅然とした君の声に、僕は驚いてしまった。

「私は幸太さんが、ここにいて良いって、言ってくれたから。あなたがいつも側にいてくれたから。私は……」

 君は苦しげに僕を見る。胸の前できつく両手を握っている。まるで祈るように。

 幸太さんのことが……好き、なんですよ

 言葉に僕自身が追いついてない。君が言ってくれたその意味を、僕は分かっているのに。

 君に僕は、なんて……。

 僕の鼓動は早鐘を打つ。ふつふつと温かいものが胸に沸き立つ。

「幸太さんのことが……好き、なんですよ」

 君は消え入りそうな声で言った。瞬間、僕はどうしてだか、これまでになく満たされた気がした。懐かしい歓喜と、安らぎを得たみたいに。いままで懇願して希求して、欲したものを、ようやく与えられたように。まさに、君に言って欲しかった言葉だと。

 君から聞きたかったその言葉が、ようやく今僕に届けられた。

 僕は無意識に手を君の頬に伸ばす。

だが同時に、気付いてしまった。

気付きたくない現実に。

目を逸らしてきた現実に。春香……君からの想いを受け入れることは、もう、ただの慰めではなくなるという現実に。その行為は、小鳥への誓いを否定するという現実に。小鳥への想いが薄れ、春香への想いが強くなっていくかもしれない現実に。

――いや、告白をされて嬉しかったのだ。すでに、僕は春香を。

小鳥はここにはいない、目の前にいるのは春香だ、それに、小鳥(・・)を(・)愛し続ける(・・・・・)と(・)誓った(・・・)僕(・)自身(・・)が(・)いない(・・・)。その重く錆び付いた現実だけを、春香の告白は僕に強く突きつけた。

目に映る顔は、小鳥じゃない。春香だ。小鳥には、青い瞳は無かったじゃないか。

「……僕は君のこと、好きじゃないよ」驚くほど、平らな声音が出た。「僕は君を保護していただけだからね」

直前で動きを止めた僕は、春香の頬に伸ばしていた手を下ろす。

「君とは、仕事上の関係に過ぎない」

 僕の答えに、春香が泣きそうな顔でこちらを見た。

「でも、もう今は仕事もしてません」

「なら、もう一切関係ないよな」壊すための言葉だった。「君と僕とは、もう一緒にいる意味はないな」関係を終わらせるのだ。

 春香の青い目に、透明な雫が滲んでゆく。それを見て、僕はまた突きつけられる。その顔は、春香であって、小鳥ではないのだと。

 それなのに、春香を想ってしまう。小鳥への想いより、春香への想いが、いま、僕の中では強くなっている。いつから? なぜ? それが分からない。

恐ろしくなった僕は春香に背を向け、ビクついた赤子のように這って玄関に駆け寄った。

「幸太さん、待って!」

「来るな、もうやめてくれ、君は、春香は違うんだ、小鳥じゃないんだ、僕は誓ったのに、どうして。あいつの、母さんの時もそうだった、また僕は、僕はただ傷つきたくなくて!」

「逃げないでください、お願いだから、話を聞いて」

「消えてくれ!」

僕は春香を置き去りにして、転げ落ちるように部屋から飛び出した。夜の路道へと身を投げた。闇夜の底で、僕はしがみついてくるもの全てから逃げ出す。哭きながら昔の欠片を探し求め、必死に駆けずり回りたかった。その欠片が、ここにはもう無いと僕自身知っているのに。

僕は日が昇るまで、あてどなく街を彷徨い続けた。

帰って来たとき、一人っきりの下宿は、いつもより広く感じられた。

夜は明けていた。だが、陽はこの部屋まで届いていない。暗いままだ。

蛇口から垂れる水滴の音が、鈍くはじけて、いつまでも聞こえていた。

あの時、無我夢中で走っていた。行きたい所も、帰りたい所もなかった。夜の街は森閑とし、早朝は光輝き、そのはざまで、僕の足音と息切れだけが耳もとに響いていた。

春香は僕にきっと幻滅したはずだ。僕が春香を傷つけた。だから、僕が下宿に帰って来た朝には、その姿を消していたのだろう。

昨夜、僕の意識を春香が強烈に満たした。僕の中で春香への想いはいっそう深く、黒い水面に白色の液を落としたように広がっていた。生々しく攪拌された。自分を突き動かす春香への想いに動揺した。春香は、小鳥の代わりでしかなかったはずなのに。

 ――小鳥を、ずっと、こころから、愛している。

あの町であの日、僕の誓った想いは、確かに本物だったはずなのに。また都合良く、僕は破ろうとした。僕は小鳥よりも、春香のことを見ていた。彼女の告白を、無意識でも受け入れてしまっていた。その現実に気付いた途端、小鳥を裏切ることが怖くなった。

綺麗なままでいたかった。自分は傷つけられず、傷つけもせず。事実に気付いてしまうことも、気付かされるのも怖くて。僕にとって都合の悪いことから、僕はただ目を反らし続けていた。

春香は僕の小鳥への想いをどう受け取ったのだろう。泣きながら僕に取り縋って、声を発した彼女は。

――死んだ人を思い続けるなんてできないです、だって幸太さんは、生きてるんだから。

僕は生きている。それこそが僕の抱える想いに、強い矛盾と堂々巡りをもたらしている。小鳥(過去)に焦がれているのに、それを超えるぐらい春香(いま)に愛着を持ってしまっている。彷徨いながら、僕はその自覚を強めた。

走り回っている中で、夜明けの境界に沈む街の、幾本も並ぶ街路樹で蝉が羽化していたのを偶然見た。古い衣を脱ぎ捨て、空気の揺らぎまで透けて見えそうな体を、命がけで絞り出す姿を。それは一輪の、透明に咲き誇ったガラスの朝顔に見えた。

闇も、光も、相反する二つが溶けあう光景を見たら、自分の心臓を伝って、血液が夏の時化を思わせるように暴流するのを想像した。

きっと僕の心は無意識に、自分の時間の流れを生きていて、それは小鳥のものとは違っているのだ。僕は生きているものに感化されていた。しかし、今の僕自身は意識して、脱ぎ捨てられた殻(過)衣(去)を求めている。

――可哀想な人ね。それじゃあ死んだも同然だわ、あなた。

菱田の言葉の意味に、僕はようやく触れられた気がした。それはきっと、春香の言っていることと同じなのだと思った。

短い眠りから覚めると、目の前を蚊が飛んでいた。その羽音が煩わしくて、布団を持ちあげて滅茶苦茶に振り回した。だが、不思議に埃はたたない。いつも春香が掃除をしてくれていたのだと気付いた。蚊はどこかに行った。部屋の中が荒れただけだった。

動くのをやめると、悲しいほどの静けさが、部屋を満たした。顔を洗いに流し場へと向かった。冷水を肌に当てると、殴られたように痛かった。ガスコンロの上には、昨夜、春香が作ってくれた味噌汁が、鍋の中に冷めて残っていた。温め直して、朝ご飯にした。お椀から立ちのぼる味噌汁のにおいに堪えきれず、たまらず一口すする。すると、優しい塩味と熱さが強烈に舌の表面を撫でた。丁寧に切られた玉葱やにんじんは甘い。

不意に、涙が溢れた。目許を腕で拭うけれど、温かい水が目の端に絶えず溜まる。

揺れている視界の隅に、置き時計が入りこんだ。針はまったく動いていない、だが、今が何時だろうと、僕にはどうでもよかった。

今日の仕事を、僕は休むことにした。入社してから、初めての経験だった。

事務所へ連絡を入れたとき、所長から菱田の入院先を教えてもらった。

「休むのであれば、見舞いにでも行ってくれ。常連客だからな、菱田さんは。沢端にとっても大事な客だろ、あの人」

「分かりました」

それから僕は、いつもの仕事用ワイシャツに袖を通し、訪問の準備を始めた。菱田の入院先は、千代田区の総合病院らしい。地下鉄を乗り継げば、すぐに行ける場所だ。

物が散乱した室内の状態をそのままに、下宿を出る。

玄関の前で危うく鍵をかけるのを忘れそうになり、あわてて部屋に取りに戻った。だが、なかなか見つからず、ようやく布団の下に転がっていたのを発見したとき、どうしようもない徒労感に疲れた。緩慢な動きで拾いあげ、僕は鍵を握りしめる。

八月の終わりでも、まだ気温は高かった。日が昇る空を見上げるいつもの行為をしようとして、ふと思いとどまった。

僕は病院に向かった。ポロシャツの下は蒸し暑くて、肌がベタついた。行く先々の風景は、高層ビル群や機械ばかりで埋め尽くされ、極めて人工的なものだった。あの町とは、全く違う。山も、土も、川も無い。あの町で育った自分がこの東京の街で、いままでよく生きて来られたな、と思った。

息苦しいくらい迫ってくる人の群れに、終始怯えた。周りを歩く人間の歩調に合わせる習慣もうまくいかない。誰とも重なり合わない。バラバラだった。いつも、僕はどうやってこの人達と一緒の歩幅、速度で歩いていたのか、分からなかった。

いままで当たり前だった現実は、こんなにも難しくて、怖いものだったのだろうか? 病院に着くまでの間、僕はその変化に戸惑う自分に苛立った。

「こんにちは」受付で女の事務員に声をかけた。「あの、菱田実世子さんの見舞いに来た者ですが、病室はどちらでしょうか」

「菱田実世子様でございますね、少々お待ち下さい、ええと……三〇二五室です」

「分かりました、ありがとうございます」

「あと、この見舞い者リストに、あなたの氏名をご記入下さいませ」

「この欄でいいですか」僕はペンで指し示す。

「大丈夫です」

 僕は、名前を沢端幸太ではなく「菱田幸太」と書いた。書きながら、変な気分になった。自分はいったい何がしたいのだろう。

「ご家族の方でしょうか?」

 事務員が抑揚の少ない声できいてくる。まあそんなところです、僕は肯く。彼女から見舞い証を手渡され、紐を首にぶらさげた。教えられた病室に向けて、僕は歩いた。病院の長く清潔な廊下を行くのは、随分久しぶりで、懐かしい感じがした。

母がいる病室の前に来たとき、自分の動悸が驚くほど早くなった。

深く息を吸いこみ、心を凍らせた僕は、一気に扉を開けた。

個室用の病室には、薬剤のにおいが充満していた。部屋の左奥で、あの女がベッドに横になっている姿を確認した。その周りを囲むように壮齢の男と、小学生ぐらいの男の子がいる。彼らは談笑を止めて、こちらを見る。凝視とも言える。男の子が咄嗟に菱田の腕に取り縋る。男が半歩、こちらに躙り寄る。それを見て、ああそうか、と一人納得した。

――あれは、家族だ。

現実感がからだの後ろ側へ引っ張られたように、軽く抜けていった。僕の身体が深く会釈をすると、まるで親しい友人に会ったかのように女に向けて、声をかけていた。ああ、こんにちは、菱田さん。ご家族と一緒の所すみません。その声を聞いた男が警戒して僕の前に立つ。君は誰だい? 申し遅れました、わたくし、実世子様の仕事相手の沢端と申します、初めまして。ああ、そうか君が。男が相好を崩す。女の肩が少し跳ねたのが見えた。いつも妻がお世話になっております、夫の彰です、こっちは息子の幸一です、ほら挨拶なさい。男の子は恥ずかしげに、僕の正面に手を伸ばす。自分の身体は腰を落とし、目線を合わせて、その手を取った。この世でこれ以上に無垢なものは無いと思えるほど、男の子の手は柔らかい。こんにちは。その拙い意思表示に、僕の顔には親愛の情の仮面が被せられる。こんにちは、幸一くん。僕らの握手に、男は微笑みを向ける。女は僕をじっと見ている。こちら、所長から預かってきた物です。僕は手に持っていた銀座三越の紙袋に入れられた、果物の詰め合わせを男に渡した。男はにこやかに謝辞を述べる。それを聞いた僕は病室を後にした。

扉を閉めようとしたとき、男から声をかけられて、給湯室で立ち話をすることになった。男は真剣な表情になると、突然、僕に頭を下げた。

「妻は、実世子は、記憶障害を再発したみたいでして。その、私のことも、息子のことも、忘れているようなんです。だから、申し上げにくいのですが、沢端さんの事も、憶えていないかと。すみません、もしかしたら、あなた方の仕事にも支障が……」

 男は訥々と、しかしはっきりとした声で喋った。しかしながら僕は、男の話を聞いていて、すこし引っかかることがあった。

「あの、では菱田さんは、あなたの事も息子さんのことも忘れていると? でも、先ほどの姿は、わたくしには普通の家族のように映りました。とても記憶を無くしているとは」

「ええ、そのことなのですが、申し上げた通り、妻はもともと記憶障害者でして。東京に来るより前の記憶が無いんです、原因不明で。だから私と出会ったときには、もう昔の記憶を無くしてしまっていたんですよ。それが今回、甦ったみたいで……代わりに私たちと出会ってからこれまでの思い出は一切、ありませんが」

 男は苦虫を噛み潰したように、声を絞り出す。

「それは、初耳ですね」

「ええ、妻自身、過去の記憶がないことは、口にしたがらなかったので。

 それで今は、ズレが生じているんですよ、記憶の中で今と昔とが。私のことを「剛康」、息子を「幸太」と呼ぶんですよ、姓は菱田ではなく旧姓の沢端ですし、私たちも妻の言葉に合わせてはいるのですが。そういえば、あなた、名前、沢端幸太と……ああ、そうですか。あなたは、妻の」

 喋りながら男は悟ったような、諦めたような顔をした。僕自身、身体を電撃が貫いた気がした。身体を前へと引っ張られるような感覚。剛康は、僕の、父の名前だ……まさか、母がいままで記憶を無くしている状態だったとは。それでは、母は本当に僕のことを忘れていた、と。そして今ちょうど失われていたその記憶が再生(フラッシュバック)している、と。

 母の人格には、菱(東)田実(京で)世子(の女)と沢端(あの)実(町)世子(の女)の二人がいて、いままで異なる時間の流れを生きていた、と。

「どうして君は、今更こんなところに来たんだ。はっきり言って、迷惑だ」

 淡々とそう言った男の方を向くと、視線が重なった。

「……母に、二人きりで会わせて下さい。そうしたいから、ここに来ました」

 僕は思わず、そう言っていた。

「それは、また、なぜ」

「これが最後だからです」語尾が少し震えた。

 数秒見つめ合った後、男は溜め息を吐いて、首肯した。そのまま僕らは病室に戻った。菱田彰は幸一を連れて、病室を出た。通り過ぎるとき、憐憫と侮蔑とを込めたような眼差しで僕を見た男は、ピシャリと扉を閉めていった。

 女と二人きりになった。ここはホテルの一室ではない。そこにいるのは、菱田実世子と僕ではない。沢端実世子と、僕だ。母と、その子どもだ。

「久しぶり、母さん」一度、肉体関係を持った人間。だが、この人はそれを憶えていない。奇妙な感覚だ。「沢端幸太です」あの時、母と初めての取引をした際に発した言葉だ。

「幸くん、なの」

「そうだよ、母さん」

「そう、そうなの、やっぱり……大きく、なったのね」

「うん、随分、前だからね、最後に会ったのは」

 女はひどく動揺したように目を彷徨わせる。もう、女神の面影は失せている。真実のみを告げるような、菱田実世子の神々しさをその言葉には感じない。

 僕の目の前で、女はゆっくりと寝ていた身体を起こす。その顔を引き攣らせる。

「わたし、あなたを捨てて、家を出たわ」

「もう、そのことはいいよ」

 目の前の母は、僕を捨てた過去をさらりと言った。捨てたこと自体は忘れてないのだと、その事実が母の口から出てきた。やはり母は自らの意志で、僕を捨てたのだ。

「私、それから先のことを忘れているみたいで、もう、何がどうしてこうなったか分からなくて……私のこと、何か知っている?」

 純然とした母の態度は、僕の身体の芯から郷愁に抵抗する力を抜いていく。僕は母に会ったら、きっと自分は激昂するだろうと思っていたが、いま体中を満たしているのは、ぬるい感傷と、気味の悪い穏やかさだった。

「知らない」僕は嘘をついた。

「そう」

 母に捨てられた過去にこれほど傷ついたのは、それ以上に愛されていた記憶が、僕の中にあるからだろう。暗い影を濃くしていたのは、母に対する愛ゆえだと思った。では今、母を許せるのか? 許せるはずはない。だが、今更どうしようもなかった。僕は眼前に佇むひとりの女を、ただ受け入れるしかない。不思議と沸き出している、この凪いだ想いに身を任せて。

 それしか出来ないのだ。

「あの人は、小鳥ちゃんは、あ、それに、太一くんやみんなは?」母は思い出したように、声を出す。「元気?」

「親父も、小鳥も、死んだよ」

 母の喉元を、空気の抜ける音がした。

「いろんな人が死んだ。それで、太一やひかりも、生きてる人もいっぱいいるよ」

僕の言葉を聞いて、母は無言のまま、顔を手のひらで覆うと肩を震わせた。

僕は或る詩の題名を思い出していた。母はきっと、父を愛していたのだろうと、僕は思った。およそ九年間に亘る記憶の欠落、その途方もない喪失感を、この一瞬に濃縮し、母は味わっているはずだ。

僕は気になった。この女の精神構造はどうなっているのだろう。自分が腹を痛めて産んだ息子を前に、父の逝去をただ嘆いている。自分で捨てた男のはずなのに、この女は泣いている。母にとって父と僕との間には明確な違いがあるのか。あの後、僕を散々ぶちのめした父のほうが母にとっては……。

しばらく泣いた母は、やがて声を震わせながら僕の頭に手を伸ばそうとした。しかし、その手は僕に届かない。僕はもう側にはいない。所在なげに、手のひらは空を切った。

「……会いに来てくれたの」

「うん」僕は母さんに頭を撫でてもらった感触を、ずっと思い出したかった。「ずっと会いたかったんだ」それでも、僕はもう母さんに撫でてもらわなくていいと思った。

「母さん、僕はあなたに、さよならを伝えに来たんだよ」

 女を前にして、夕暮れ時の温かい町のように長閑(のどか)な、落ち着いた声が出た。窓から差し込んでくる光は、病室の白のカーテンに包みこまれる。眩しさも、いまは静寂(しじま)だ。くすぐったい情感など、今の自分には一切無かった。不思議なほど理性的であり、現実を自然視していた。

 あの時、交わったのは他人(菱田)であり、やはり母さん(沢端)だった。それだけが真実だと思った。

 目の前にいるのは――

母さんはたまらないといった様子で、バツの悪そうな顔をした。その姿はひどく小さく見えて、枯れかけた花のようだった。あの鮮やかな深紅の花も、今は色が落ち、萎れている。いまの母には、菱田の家族という場所がある。そこに僕が根を張る余地はない。いや、必要ない。母と僕とは血の縁で、離れることはできない。あとは、何処で生きていくのかという選択の違いだ。

「さよなら」

僕は病室を出た。振り返らずに。

帰り際、菱田彰に礼を伝えた。男は無表情で、静かにその場を去って行った。幸一が最後まで、僕の方を振り向きながら、男に手を引かれて歩いて行った。その様子を見ながら、さよなら、ともう一度呟いた。

僕は受付に戻ると、リストに書いてある菱田幸太という名前を「沢端幸太」に書き変えた。見舞い証に載っている日付をもう一度よく見て、僕は受付の回収箱に戻した。

病院の外に出たとき、空がいつもより澄んで見えた。見上げていると、そのブルーは濃く乱彩していて、泣きたいぐらいに美しかった。

家に帰る途中、僕は事務所へと報告に向かった。菱田実世子が、もう客としては望めない存在になってしまったことを、売人として所長にどう伝えようかと悩んだ。きっと、あのお見舞い品も、経費では落としてくれないだろう。

大通りを選んだ。夥しい人の行き先はまばらだ。僕はもう周りの人の歩調に、自分の歩調を合わせることはなかった。自分自身の足で、自分の速度で、前に歩いた。

日の傾きは、以前よりも早くなっている。夏の暑さは、じきに消えるだろう。街灯の明かりは、どこを見ても同じ色で、同じように温かい。『家路』のメロディーが耳に届く。この街の家路は、あの町とは違う。同じ曲だけど、違う。

この角を曲がれば事務所だ。事務所での報告を終えたら、僕は急いで春香を探しに行きたかった。彼女に会って何を伝えればいいのか分からないけれど、僕自身がただ春香に会いたい。それだけだった。

事務所までもうすぐだ。後はこの路をまっすぐに進めば、左手に事務所が入っているビルが見えるはずだ。曲がり角に足を一歩、僕は踏み出す。

目的地は変わり果てていた。ビル棟全体は炎に包まれ、焦げた臭いと針のように痛い熱が充満していた。朦々と立ち籠める黒煤色の煙に、真っ赤な火がまだらに浮かんでいた。

辺りに消防車が何台も止まっている。放水作業は追いついていない。勝ち誇ったような猛りで炎は窓ガラスを突き破り上へと立ちのぼる、舞いあがる火の粉が光に近い赤色をしている。その色は、夕景とは最もかけ離れた、血しぶきの赫を想わせる。あくせくと立ち回る消防隊に占拠された事務所にある、何段にも積み重ねられた段ボールに詰めてあった商品(クスリ)はぜんぶ燃え尽きるだろうな……。

僕は一瞬呆然として、それから立ち直り、急いでその場から離れた。

次の日、朝刊の一面には事務所の全焼を書いた記事があった。死亡者についての言及もそこで行われていた。損傷が激しく身元不明の遺体が一名、三十代の男の遺体が二名、そして所長の遺体があった。僕は葬儀に参列しなかった。

働き口がなくなった。労働から離れた。そのためか、家から殆ど出なくなった。

その間、僕は続報を待った。その時が来るのを焦がれて待った。もし、春香があの日、事務所に戻っていたとしたら……そう思うと、気は休まらなかった。

――音信不通となっていた鷺川からの突然の招集がかかったのは、事務所が燃えてから二ヶ月を過ぎた頃、十一月の半ば(なかば)であった。

郵便受けに入っていた封筒からは、非常に闊達な字で書かれた便箋が出てきた。重要な話がある、指定の場所に来い、と記されている。それを読み僕はすぐさま、事務所のあったビルに程近い待ち合わ(喫茶)せ場所(店)へと鷺川を訪ねた。鷺川の座る奥のテーブルに、僕もついた。

「君はコーヒーをよく飲んでいるそうだね」ブレンドを二人とも頼んだ。

「ええ、まあ」

にこやかな笑顔を向けてくる若男(ボ)の(ー)店員(イ)は、静かに湯気の立つブレンドカップを僕らの前に置く。注文の品はこちらで以上です、と言って、店の隅へと下がっていった。

砂糖を溶かし、フレッシュを注ぐ。黒は白と混じる、底から澱が湧き上がるように。それが好ましく見える。スプーンで液を攪拌してから僕はカップを手に取り、一口啜った。

「ブラックじゃないのかい?」

「最近はそうですね。それより鷺川さん、いままでどこに居たんですか」

アンティークで固められた内装に、辺りに漂うタバコの煙が被さっている。対面に座る鷺川もハイライトを取りだし、吸い始めた。濃い臭いだ。白い靄に沈む店内の景色は、正常であり、狂気的にも見える。まるで映画に出てくるドラッグパーティーのワンシーンみたいだと思った。

「本部だ」鷺川の朽葉色の目は濃く濁っている。「オヤジからの指令でだ、しばらく身を隠して、事務所のことを監視するように言われていた」

「どうしてそんなことを」

「所長の黒沢……あいつが、シノギの一部を横領している疑いがあった。オヤジからは、速やかにブツと黒沢の処分を言い渡されたよ」

鷺川の言葉に、僕は絶句した。見境がないのだ、この男達には。あの火災は放火によるものだと、いま鷺川は言ったのだ。もし自分や、春香があの場にいたら、そう思うと背筋が凍る気がした。

「さあ、これで話はおわりだ。何か訊きたいことはあるかね?」

表情を一切崩しもせず、鷺川はいつものことだ、という感じで話を終わらせる。

僕は初めてこの男との取引をした日のことを思い出していた。ホテルの一室、刺すような視線を向ける風格漂う男と、怯えていた自分を。あの日の直感は正しかった。きっと本能的に理解したのだろう。

この男には、敵わないと。

そう思うと、不思議と恐怖よりも興味が湧いてきた。目の前にいる鷺川という男はどうして、これ程の圧倒的な男になったのか。

「鷺川さん、あなたは一体どんな生き方をしてきたのでしょうか」

 鷺川の意外そうな眼差しを正面から見据え、僕はつぎの言葉を続けた。

「教えてください」

 鷺川は面白い奴だ、と僕に怒気を込めた視線をぶつけた。震え上がる自分の気持ちを押し隠して、僕はただジッと見つめた。視線は絡まり合った。鷺川がコーヒーカップに手を着ける。その一所作でさえ緊張の糸をはりつめさせた。僕は目線を逸らしたいのを我慢して、ひたすら鷺川の答えを待った。コーヒーを啜った鷺川はカップを置くと、机に手をかけた。僕は身じろぐこともできない。浅くなる呼吸を整えようと必死だった。

「俺の母親はな、パンパンで日銭を稼いでいた」

 唐突な言葉に、はあ、としか言えない。

「知ってるか? パンパン、売春婦のことだよ、俺はあるGIが母親に射精してたまたま受精して出来たガキだった。すぐ捨てられたから、両親の顔は知らない、一八まで孤児院で暮らしてた。それから今の組のオヤジに拾われて、以来働いてる」

ハイライトの煙を深く吸いこんで、鷺川は吐き出した。

僕は自分の想像を超えてゆく鷺川の話に追いついていない。この男のアジアとも西洋とも区別のつかない独特な顔の作りがどこに由来しているのかを知った。だが、それは知っただけで、鷺川の内情も体験も僕には分からないままだ。ひっきりなしにタバコを吸って、鷺川は話し続ける。僕は黙って聞いていた。

「俺は組に入るときにこう考えた。子供は決してつくらない、と。自分がどうしようもない人間の身体から排泄されたものと思えば、俺ってのはマトモな生き方が不可能な人間だと思えた。だから、困ったんだよ、あの娘がいることを聞いたときはな」

「子供、いたんですか」

「……その気はなかった。行きずりの女と一緒に寝た。それが妊娠してな。俺は迷ったよ、女には堕ろせと言える勇気も無い、でも子供もまっぴらだった。だがな、女はその後二度と俺の前に現れなかったんだ。それから姿を消した女のことを放って、俺はまたいつもの組の世界での仕事に戻った。十数年で俺は頭になった。それなりのこともしてきた」

 鷺川は淡々と話す。自身の何もかもを取り繕うことなく話しているようだった。僕には「それなりのこと」が分からなかった。ただ、自分の想像するものよりも遥かに過酷なことだろうと、いままでの鷺川の話しぶりから思った。

「そんな時にだ。つい最近、俺の目の前にあの女の娘が顔を見せに来たよ。追い返すつもりだったんだが、母親の状況を聞いて気が変わったんだ。働かせてくれ、と馬鹿なこと言っている自分の娘に、俺は一応の居場所だけを作った」

店内に立ち籠める紫煙。灰色の空気に混じる苦みと気怠さを感じつつ、僕は鷺川が人間の親としての表情を見せることに困惑していた。様々な部分が色彩を放ち、鷺川という男をより不明瞭な輪郭にしていくのだ。捉えどころの無いこの煙のように。

この男は残酷な行為を平然とやってのける。しかし、女を、実の子を案じている。矛盾した姿が、鷺川の在り方を「謎」の一文字で鮮明に表す。

この男の、娘はきっと……

「といっても、君は既に会っているな。事務所に入らせている間、状況はだいたい知っていたのでな。家を出てきたというから、身辺を調べさせてみたらロクなことがない、女は頭がおかしくなっていた。俺はこんな人間だからな、金は出せてもそれ以外は娘に何もできん、そんな時にあの子は君に出会った。感謝しているんだよ、君には」

「その娘というのは、春香ですか?」

 鷺川が肯く。

鷺川がいままで言い放った言葉に、僕は予感していた。

やはり鷺川の娘は、朝比奈春香だった。

鷺川はすべてを話し終えたという風に咳払いをすると、勘定を済ませるために若男を呼んだ。ポケットから使い込まれた革財布を取り出して、代金を支払った。

「沢端くん、君は勝負強いな」ふと、鷺川が僕に言った。

「そうでしょうか?」

「ああ、強いよ……君のコーヒーにはある毒が入っていてね、糖類と反応して無毒化するという一般では流通してない特注品さ、生のまま飲んだ後、砂糖を一匙加えれば毒は検出されない。便利だろう? 私は君がブラックでよく飲むと聞いたから、上手くいくかと思ったんだが……忍び込ませた私の部下は、よくやったんだがね」

 鷺川が笑う。

 僕は慌ててカップをのぞき見た。それから店内をぐるりと見た。先ほどの店員は、唇を横にきつく結んだまま、突き刺すような目線をこちらに向けた。

「オヤジから頼まれたのさ、後(・)に(・)は(・)何(・)も(・)残す(・・)な(・)、と。だが、どうやら君の勝ちのようだ」

 鷺川は席を立った。

「はじめてオヤジからの仕事に嘘をつくになるな……ああ、もう君に関わることは無いよ」

「見逃してくれるんですか?」

「これでも私は、君を気に入っているんだ」

「鷺川さん、あなたは」

「娘を頼むよ。あの子は今、本当の母親のところにいる」

鷺川は一通の封筒を僕に渡して、ぼそぼそとその用途について話した。それじゃあ、と言い残すと、お店を出て行った。灰皿に残った煙草のフィルターが濡れていた。

僕はコーヒーを飲む気分でなくなった。席を立って春香がいるという病院へと向かおうと思った。

喫茶店を出てから、僕は走っていた。街には秋の風が吹いている。あんなにもうるさかった蝉の鳴き声は、もう聞こえてこない。響きわたるあの真夏の騒声が幻だったように、その死骸は跡形もない。道の上には木の葉が落ちはじめていた。

この辺りに在る中学校で体育祭が行われているのか、応援団の声と太鼓の律動が辺りにしている。活気づいたその音に乗せられるように、病院へ向かう僕の足は速まった。

鷺川に教えられた病院に着いた時、息が上がって苦しかった。精神科の病棟は、関係者でも容易に立ち入りはできない。僕は入り口で、鷺川に教えられたとおり、

「こちらに入院している朝比奈さんと面会をさせてください。これ、鷺川さんからです。院長に宜しくと」と言った。その時に、鷺川からもらった封筒を受付で渡した。受付の四十代ぐらいの女は無愛想に、先生をお呼びしますのでお待ちください、と言うと、席を立った。衣服に肉を詰め込んだような太い身体を、女は面倒そうに動かし、奥に入って行った。

聞いたところ、春香の実母との面会には通常よりも厳しい制限が設けられているようだった。かなり状態は悪いらしい。そこで、鷺川に渡された封筒が必要になった。鷺川はこの病院の経営に絡んでいる。この病院に対し、組のオヤジの名代として莫大な出資を行っているそうだ。だから、その鷺川からの許可状に院長は逆らえない。要は、脅しだった。

「院長の須田です。君が沢端幸太さんかな?」

受付のすぐ横にあるエレベーターから、白衣を羽織った男が出てきた。男は、僕に尋ねながら、嫌なものを見る目つきで封筒を取り出した。

「こういう手荒な真似は今後止してくれるように、君から鷺川さんに言っといてくれ」

そう言って、着いてきなさいと僕を呼んだ院長は先に歩いて行ってしまった。置いて行かれないように、僕も後ろにひっついた。院長の歩様は流れるようで、足音が少なく、背筋が伸びていた。その姿にこちらまで緊張してしまう。

四回までエレベーターで上がり、降りてすぐ右の廊下を突き当たりまで歩く。そこにはこれまでとは違う、透明で巨大な、二つ鍵穴の付いたドアがあった。院長はリングで繋がれている十本ほどの鍵の中から、二つを穴に差し込んで回す。物々しい音がして、ゆっくりと開いた。

「強化ガラスなんだよ」平淡な声で院長は言う。「あと二つ、この先にある」

僕は何も答えず、院長の後を歩いた。

春香の実母は、個室の奥にあるベッドに座っている。入り口から、女の無表情な横顔が見える。院長は春香の義母に挨拶をしている。

「どうして部外者をここに?」

「いや、どうやら娘さんの知人と……」

「はあ、まったく。いらないことばかりして」

院長は頭を下げて、病室を出た。部屋の中に僕と、春香の義母と実母が残された。

部屋には小さな天窓がひとつ。クーラーが作動している。弱い冷風が吹いている。実母が僕に気付いたみたいで、顔を向けた。ふと、横顔のために隠れていたもう片方の表情に違和感を覚える。左右非対称。白い顔写真で見たものと違う。さらに老けたように見える実母の表情。顔面麻痺だろうと思った。

「気が済んだでしょ」義母が、いやに高いあの声を出す。「いい加減にして欲しいわ」

 実母は僕に近づく。その顔の半分が笑っている。

「わたし、さよ、って言います。おにいさんは?」歪んだ声がする。

「僕は沢端幸太です。春香さんの同僚です」

「ああ、春香ちゃんの。春香ちゃんは、今いないんですよ」

「どこに?」

「わたし、さよ、って言います。おにいさんは?」

 実母は僕の服の袖をひっつかむ。ぼんやりと僕を見つめている。

「あの、自分は」

「わたし、この部屋にずっと住んでいるの。ときどき誰か来るんです。でも、それだけ。ここは私の部屋なんです」

「それは、親族の方に、春香に保護されてからですか?」

「わたしは、さよ、って言うの? うん。あれ、そうなの?」

義母が溜め息をこぼした。僕はそうなんだよ、と言った。全身から力が抜けていくように感じた。僕は目の前のこの女に、うん、とか、そうだね、とか言い続けた。実母は黄色くなった歯を覗かせ、顔の半分をニヤニヤさせている。

僕は義母から、実母の状態を聞きたいと尋ねた。義母は面倒だと、僕を無視した。仕方なく、僕は実母への相槌を繰り返した。

部屋の中は静かだ。空気に独特の臭いがした。薬品が混ざり合った、あの清潔で白々しい病院という建物に充満している臭い。小鳥を、母さんを、太一の母親を見舞った、病院という建物が放つ特有の……。

この春香の実母も、同じような、僕が東京中にばら撒いた『ハミングバード』と同じようなクスリを打ち続けて、こうなった。後に残ったのは、目の前の廃人となってしまった女だ。

母親を狂わせたクスリを、春香は売りながら何を考えたのだろうかと僕は思った。

部屋に戻ってきた春香は、僕を見て驚倒していた。手に持っていたコーヒーを溢しそうになって、慌てて体勢を戻す。その様子に事務所で再会した日のことを、僕は思い出した。

セーラー服から着替え、今も羽織っているパーカーをきて階段を上ってきたあの日の彼女を。それは彼女が初めて出社した日だった。僕らはあの事務所でお互いの名前を知ったのだ。春香の様子に、懐かしい姿を見たような気がした。

「どうして幸太さんがここに?」

「アンタが連れてきたんでしょうが、さっさと要件済ませて出て行ってもらいなさい」

 義母が僕の方を顎で示す。

「違うよ、春香。僕は鷺川さんに教えてもらって、君に会いに来たんだ」

鷺川という言葉に、春香は一瞬だけ目を反らした。僕はそれを見逃さなかった。

「さぎかわ……だれなんでしょうか」

 実母は布団に寝転んでいる。その細い声の内実は僕に重くのしかかる。きっと春香もだと思う。誰もかれも、屋根の上を飛ぶしゃぼん玉のように弾け、記憶からあまりにあっけなく消えてしまう、実母にとっての鷺川も、僕にとっての母さんと菱田……。

春香は病室の隅で突っ立っている。コーヒーの入った紙コップを伯母に手渡して、そのまま声を出さない。義母は礼を言わず受け取り、コーヒーを飲む。舌で唇に付着したコーヒーを舐め取り、溜め息を吐く。

実母も義母も、春香に一切話しかけない。興味が無いのだろう。底の暗い、茫々とした目だった。春香は十数年もの間この目に晒されていた。この病室にある、関係の冷え切った人間たちのつくった柵は透明に近い。

僕は三人を見て、それから春香をもう一度見た。春香の澄んだ青い瞳。僕は言いたいことを、隠す必要はもう無いと思った。受け入れられなくても良いから、言うべきだ。

「春香を僕といっしょに行かせてください」

 僕は自然とそう言っていた。春香のビックリしたような顔も、義母のこめかみに青筋が浮いた顔も見えた。でも、僕の本心だった。隠すことのできない、春香がいなくなってからずっと思っていたことだった。誰かが僕という人間にとって、何よりも大切な存在になってしまうこと。

 僕は頭を下げた。もう一度「お願いします」と言った。声尻がすこし嗄れた。

「バカ言ってんじゃないわよ。無関係の、急に出てきた奴が」

「お願いします」

僕の頼みに、義母は苛立ちが爆発するのを抑えるように、平淡な声を険しい言葉に重ねる。決して僕に目線を合わせようとはしない。柵の中に踏み入れることを許さない。

春香が黙っている。僕は彼女には何も言わず、また義母に頭を下げる。

「春香ちゃんは、どうしてここにいるの?」

実母が義母に訊いている。「佐世は、黙って」と義母は声を低くし、僕を睨み、壁を一度強く叩いた。実母はひどく怯えて、布団に包まった。喉の奥から高い声を出して、ヒンヒンと泣いている。

 おにいさんたち帰って! みんなこわい! でてってください! ここは、わたしの部屋なんだから! みんなきらいよ!

 実母の声を無視し、僕は頭をさらに深く下げた。

「消えなさいよ、あなた。……どいつもこいつも、私を巻き込んで、ホントうんざりするわ。厄介ごとばかり押しつけてきて、私の言うことも聞きなさいよ」

 義母の静かな怒声に、僕は動かずに頭を下げ続けた。

その時ふと、僕の左手を取る温かい手のひらを感じた。顔を上げると、春香だった。春香が僕と目を合わせる。それから、彼女は義母の方に目を向けた。

「私は……幸太さんといたい」

義母と春香が向き合っている姿を僕は初めて見た。春香の芯の強い声が室内に響いている。春香の言った言葉を僕は聞いて、腹の底が熱くなった。僕が春香と一緒にいたい、その想いが届いた気がした。いや、完全に届くことはない。分かっている。通じ合えるという思い込みは幻想に過ぎない。それでも春香は一緒にいたいと言ってくれた。それだけでいい。僕も、義母の方を見た。

「伯母さん(・・・・)、お世話になりました」

 義母であった伯母は、春香をにらみ続ける。けれど、春香は言葉を止めなかった。

「さよなら」

 伯母は押し黙って、肩をぶるぶると震わせていた。

春香は実母を淋しそうに見つめた。実母はまだ喚いている。春香は赤くなった目許を、きゅうっと歪める。数秒、無言だった。

僕はその時二人に、自分が母さんに感じたような、逃れようのない血脈を感じた。もう母と子の関係すら希薄になってしまったような二人に。

春香は、実母に「さよなら」を言わなかった。

そのまま何も言わず、伯母を残して、僕らは病室から去った。

病室の扉の前で立っていた院長に、僕らは一通りの礼を言った。院長はそれでは、と言って病室に入っていった。扉の向こう側から三人の声が聞こえた。

僕らは病棟の外に出た。

空気には暑さがあった。心地良い暑さが。

「よかったのか?」

「いいんです」

春香は後ろを振り向かなかった。

僕らは硬いアスファルトで舗装された真っ直ぐな道を歩いた。

この東京の道を春香と二人で歩くのは、本当に久しぶりだった。春香は前髪が少し伸びている。目にかかる前髪を手で払うと、あの乱彩したブルーの瞳が見える。

何を話せばいいのだろう? 無我夢中だったから、この後のことを考えていなかった。春香と一緒に過ごした時間、僕は君に何て言っていたんだろう。思い出してみると、いつも君がはじめに話しかけてくれていた。君が僕の中に踏み込んでくれたんだ。

言わなくてはならないことがあると思った。傷つくことから逃げた臆病で傲慢な自分を、認めなくてはならない。君からもらった言葉に対して僕は伝えるのだ、君に突きつけたあの言葉について僕は謝るのだ。

「春香、僕が前に『消えてくれ』って言ったこと、ごめん。許してくれるのか分からないけど、君が許してくれるまで、僕は」

「許さないです。絶対に」

 春香はそう言って、僕の方を向いた。青い瞳が僕の顔を直視する。

「許さないです。すっごく傷ついたんですよ、私はやっぱりいらないんだって」

「ごめん。でも春香が必要なんだ、春香の側にいたいんだ。僕は春香といっしょに生きたいんだよ」

「……小鳥さんのことは、もういいの?」

澄んだ声が空気に溶けた。生身のからだを音が包んでいく。君からの問いかけに対して、僕は嘘や誤魔化しで答えられないと分かっていた。小鳥のことを忘れる、という言葉を、僕は否定した。小鳥を想う気持ちはまだ在るからだった。

「アイツのこと、僕は一生忘れないと思う」

 春香は何も言わない。

「でも、僕は君が好きだ、好きなんだ。小鳥が好きだったことを嘘には出来ない、あの時間はすべて本当だった。それでも僕は君に出会って、惹かれていったんだ。嘘には出来ないよ、僕の中で大きくなった君への想いを」

自分の気持ちが、吐き出した言葉がひどく傲慢なものだと思う。もう誓いを果たせない。小鳥に伝えたあの言葉を裏切る行為だと分かってる。その裏切った自分自身の汚さを受け入れる。誰かを選ぶことは、選ばなかった他の誰かを傷つける覚悟をすることだと思った。……こんなもの、すべては自己防衛のための、言い訳だ。

「僕は、朝比奈春香を愛しています」

それが真実だった。理屈ではなかった。

言い終えた僕は春香を見つめた。途端、春香の右手が僕の頬に飛んできた。平手打ちだった。高い音が通りに短く響いた。頬がヒリヒリする。

春香はそのまま、僕の胸に顔をうずめた。

「謝らないから」

「うん。分かってる」

「一緒にいたいって、言ったんです。大切な人と離れるのは、もう嫌なんです、辛くて、苦しいんです。幸太さん、私と約束してください、私の前からいなくならないで下さい、離れないでください、消えないでください、一人にしないでよ……」

震えている春香の小さな肩を、僕は手のひらで包んだ。ポロシャツの胸もとが湿っていて熱い。君の涙で濡れているのだと、僕は気付いた。

「一緒にいよう」

風があった。ハンカチで涙を拭いている春香の髪がたなびいた。

僕の側にいる君を見た。何度だって見る。あのスケッチブック越しに見た君とはちがう、君自身を。春香は春香自身だ、誰も代わりはいない、僕に近づいてくれた春香は紛れもなくこの人だ。目の前の誰かをこれほど大切に思うのは、あの町を離れてから初めてだった。

立ち止まっていた僕たちは歩きだした。歩道を歩きながら、どこに行くのだろうか、と思った。僕はまだこの足の行き場を探している途中だ。

春香と二人で歩いていると、車道の向こう側に中学校が見えた。音楽と声援が聞こえる。もしかしたら、行きしなでの太鼓の律動は、あの場所からしていたのだろうか。

気になって近づくと、やはり体育祭をしているのがフェンス越しに見てとれた。ちょうど、女子の学年混合リレーをしていた。先頭を走る女の子のすぐ後ろには三人の女の子が一生懸命に走っている。

グラウンドの脇に固まっている生徒の大群は、声が嗄れんばかりに応援をしている。身体を揺らし、身を乗り出して、手を振っている。

カメラを向ける保護者の焚いたフラッシュが陽光と混じり、ひときわ明るい。目深な帽子から、興奮しきった表情が覗いている。熱気に満ちた、トラックを包む人だまり。ランナーはさらに熱く、ゴールへの意気を燃やす。

走るランナーから、またその次のランナーへ。バトンは繋がれる。脈々と、手から手へとそのバトンは渡って行く。

僕はその姿をフェンスのすき間から見ていて、離れて行くものと、受け継がれるものの二つを感じた。夕陽の後に続いたあの燦然と美しいオレンジの残照、それもやがて終わり、後に残る夜と、そこから始まる新しい朝をこの東京で知った。まるでバトンは太陽だった、生命だった。

僕の中で薄れていく、小鳥への想い。これが彼女との明確な訣別への一歩だと僕は知っていた。けれどもう僕はしがみついたりしない。

アンカーにバトンが渡る。最後の直線まで気を抜けない、緊迫した競争。その中で、背の低い女の子が直線でわずかに抜け出した。残り数メートル。腕を振って、足を動かす。ゴール目前だった。だがそのすぐ横を、三つ編みの女の子が颯爽と躱した。

入れ替わった。

そのまま女の子はゴールテープを切った。抜かれてしまった女の子も、そのすぐ後にゴールした。しかし、テープを切ることはなかった。うなだれて、二着のポールの前に立つ。

一方、校庭のトラックを一着で走り抜けた三つ編みの女の子は晴れ晴れとした顔で、一着のポールの前に立った。やがて全員が走り終え、整列してから、嬉々として仲間のもとに駆け寄った。

仲間に祝福されて迎えられているその女の子ではなく、二着に敗れた背の低い女の子を、春香は無言で見つめている。女の子は仲間達の慰めから逃げるように、自分の組の待機場所に戻った。肩を振るわせて、膝の上で両拳を握りしめた。目の端が引き攣って、小刻みに震えている。口をきつく横に結んで、顔を空に向けていた。

次の競技も見ず、春香はその女の子をずっと眺めている。

その女の子が一番に切ることのできなかったゴールテープが、次の男の子のリレーのために再び伸ばされる。ゴールラインの上で水平に位置する、その真っ白なゴールテープは、たった一人しか切ることができない。

僕はもう一度、あの二着に負けた女の子を見た。女の子は両手で瞼を押さえ、こすっている。目もとが潤んでいる。その瞳で、走り出した男の子のリレーを見ている。

アンカーにバトンが手渡された。彼らは汗を飛ばしながら、全力疾走を続けた。

その内、集団の中から一人が最後のコーナーで抜け出す。他の子達を突き放して、加速を続ける。そして、その男の子が一着でゴールした。ガッツポーズをし、白い歯を見せて、日の光を全身に浴びている。真っ赤な帽子に、溌剌と陽が跳ねている。男の子がはしゃぐ様子を、女の子は凝視していた。目を擦りながら。

僕は胸が熱くなった、あの女の子の姿に。

フェンスから離れて、すぐ目の前に広がっている東京の街を睨んでみた。二歩、三歩、歩く。その度に、まだ強い秋の日差しを浴びて真っ白を超えた、透明に反射しているあのビル群が延々と僕の視線の先には続いていた。

とてつもなく高い、僕を飲みこんでしまいそうなほど巨大な、透明な世界。それこそが僕の生きる世界だ。

超えてやる。

眼前に幾重にも重なっている透明な壁、その現実を僕が超えてやる……。

僕は春香を呼んだ。フェンスから顔を離した春香の表情は陽に輝いている。生き生きしている。泣き腫らした目もとを柔らかく細めた、素朴な微笑みだ。

春香は僕の側に走って来てくれた。

彼女の手を、僕に出来る優しさの限りを込めて握った。壊れてしまわぬよう、ゆっくりと指を重ね合わせる。

春香が躊躇いがちに握り返してくる。その手のひらが熱い。

「いつか、小鳥さんの所に行かせて」

 静かなその言葉に強く頷いた僕は、春香を見つめて、それから前を向いた。

「行こう」

 今ここにあるものこそが全てだ。

 この一歩の行き場所を決めるのは、僕自身の意志だ。

  ――――花といのちとアフターグロウ(完)

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