top of page

『水葬』 中島修吾

  • ritspen
  • 2021年3月20日
  • 読了時間: 17分

水葬     中島修吾

沈んでいた意識が一瞬で浮き上がった。好きなロックバンドの曲をアラーム音に設定してから前より目覚めがいい。不快な警告音より好きなバンドの曲で始まる一日のほうがいいにきまってる。

ベッドから跳ねるように起きると、今さら部屋の中の景色が違うことに気が付いた。一瞬で目覚めたと思っていたが、まだ僕の頭は寝ていたらしい。全くよくないじゃないか。十数秒前の自分自身にツッコミをいれながら、どこまでも真っ白な、これから僕の城になるこの部屋をぐるっと見渡すと、真新しい制服が目に飛び込んできた。

段ボールが残っているリビングにはまだ誰もいなかった。もし誰かいたとしてもそれは父親しかありえないんだけど。朝食を準備しようとテーブルの上に置いてあった食パンをトースターに入れて、冷蔵庫から牛乳を取り出す。牛乳をコップに注ぎ、透明と白の朝にふさわしい爽やかなコントラストを見ながら、みそ汁があった朝食をぼんやりと思い出しているうちに、それがなぜかずいぶんと昔のことのように感じられた。まだあの朝食からそれほど経ってないずなのに。

チン! とパンが焼けた音がして、今から食べる朝食のことに頭を切り替える。人で食卓につき、焼きたての香ばしい匂いのする食パンにかじりつくと、期待通りの音が聞こえた後に、ゆっくりとほのかな小麦の甘さが出てきて、その甘さを噛み締めた。

家を出るには早い時間だったが、学校に行く準備ができた後、すぐ玄関の扉を開けた。この家にいる理由はない。

今日は梅雨晴れらしく、最近は低かった空が高い。この辺りは自分と同じ中学校の生徒が多いはずだが、時間が早いせいで同じ制服の人はあまり見かけなかった。この時間に登校するのは朝練がある連中だろう。

まばらな人の流れに身を任せているうちに、今日から新しい学校で生活していくんだという実感が不安に変換されてじわじわと僕の頭の中に広がっていった。

町の中心から少し外れた、古い中学校が見える。広い運動場、掃除されたばかりのプール、昔ながらの靴箱、がやがやした話し声、木材の色が濃い廊下、大きな音を立てる戸。

「おはようございます。転校生の中島修吾です」

大きな声であいさつをする。

「鈴木せんせー、転校生の子来たって」

手前にいた女性教師が奥に声をかけた。すると、奥から優しそうな男が出てきて、

「君が中島君? 僕は担任の鈴木です。今日からよろしくね」

と僕に自己紹介をした。

僕は今鈴木の

「中島君はいってきていいぞー」

を教室の廊下で待っている。まさかこんなドラマでしか見たことがないシーンを僕が体験することになるとは。ここで作る第一印象が今後の学校生活に影響するのは目に見えている。めんどくさいけど、できるだけいいイメージを作った方がいいだろう。

鈴木が僕の名前を呼んだ。深呼吸をしてから教室の戸に手をかけて、勢いよくそれを引いた。その瞬間、数十個の眼が僕を捕らえる。捕らえられた僕は、動きが鈍くなるのを感じながら教壇の横まで進み、愛嬌のある表情で自己紹介をする。

「中島修吾です。これからよろしくお願いします」

頭を軽く下げると、前方から乾き気味の拍手が起こる。パチパチという音が聞こえて少し胸を撫で下ろした。

「じゃあ中島君には一番後ろの窓側から二番目の席に座ってもらおうかな」

一番後ろの席か。こんなところまでドラマみたいだ。

「はい」

僕は返事をして、一番後ろの空席に着いた。周りに悟られないよう静かに大きく息を吐き出す。ホームルームが再開され、鈴木の話を、頭を留守にして聞くふりをしていたときだった。

「中島君っていうの。緊張してたみたいだけど」

不意に、鈴を転がしたような声に名前を呼ばれて肩が跳ねた。

図星を突かれ動揺したが、それを悟られないように声がした窓側の席の方を見ると、長い艶やかな黒髪が目立つ、しかしそれ以外のこれといった特徴のない女子生徒が、好奇心が見え隠れする表情でこちらを見ていた。平静を装いながら無難な言葉を選び、彼女にかける。

「緊張していたように見えた? 中島です。改めてよろしく。」

「それを聞く時点で緊張していたって言ってるようなものじゃない。私は小林アンナ。こちらこそよろしく。君とは仲良くなれそう」

彼女は僕の顔を見ながらニヤニヤして楽しそうだった。僕にはどうして仲良くなれそうなのか、何がそんなに楽しいのかまったくもって理解不能だったけど。ドラマの真似事は、厄介そうな隣人のオプション付きでまだまだ続くようだ。これからの学校生活を案じて、僕はもう一度大きく息を吐いた。

最初に僕が学校生活について案じたのが杞憂に終わったように見えるくらい、僕の学校生活は順調だった。なぜなら僕は、クラスメイトや教師が期待した通りの転校生だったからだ。

「中島ー。次体育いこー」

「今行くー」

「今日でバスケ最後だっけ」

「あー。そうだった。次から水泳だわ」

中身のない会話をしながらいつも通り僕たちは体育館に向かう。

キュッ、ドン、キュッ、ドンドン。体育館シューズとボールを打つ音が体育館に響く。

今ボールを持っている小久保がなかなかボールを上手く出せないのを見て、僕は相手を払おうと、何気なく右に行くと見せかけて、相手と距離を詰めながら素早く左に出た。それに相手がつられたのを見て、一気に右に踏み出し相手を振り切る。

「小久保パス」

小久保に向けてパスを要求する。ちょうどいい胸元にボールがきて、手に吸い込まれる。僕はシュートのモーションにはいった。これで決まるかと思ったが、さっき振り払った相手がもう目の前にいる——。

シュートモーションから即座にドリブルに切り替える。三歩で相手を完全に抜き去り、今度こそシュートを打つ。宙に放たれたボールは放物線を描きゴールの中に引き寄せられていった。

「中島ナイッシュー」

「今日絶好調じゃん」

「アシストがよかったからだよ。小久保ナイス」

「あのフェイントかましといてアシストのおかげはないわ。小さいけどやっぱすごいな、中島」

「最後の一言が余計なんだよ」

僕はチームメイトたちに揉みくちゃにされる。このジメジメした梅雨の時期にバスケなんてしたら汗だくになるのは当然で、皆も汗まみれだけどそんなことは気にかけずに肩を組み、盛り上がる。これがお決まりの流れだ。部活みたいに真剣じゃないのに、こうやって馬鹿みたいに友達と盛り上がるのは嫌いじゃない。

「次も一本取るよー」

小久保が皆に声をかけた。僕もその一本に集中すべく手を膝について視線を動かしたその時、体育館の隅にいる小林と目が合った。

彼女は、この授業に参加せず見学していた。ただ、一人ぽつんと体育座りをして、初めて言葉を交わしたあの日とは全く違う目で僕を見ていた。こうやって彼女と目を合わすのはいつぶりだろうか。ひょっとしたら、僕の転校初日以来ではないか。あの日とまるで別人のようで、少し怖くなって目を逸らした。

気まずい。そういえば彼女と隣の席だった。転校初日以来、もっと絡まれるかと思っていたが、彼女は僕に絡んでこなかったし、僕も彼女に声をかけたりしていなかった。それなのに、さっきの体育の時間の出来事っていう程のことでもないけれど、あの視線のことがあった直後に隣の席は気まずい。

「小林ー。少し難しいかもしれないが、三番の問題を解いてみろー」

「分かりません」

隣から抑揚のない声が聞こえた。

「少しは考えろよなー。じゃあ隣の中島。解いてみろー」

はー、よりによって僕か。ますます気まずくなるじゃないか。そもそも、お前はいつも日付と同じ出席番号の生徒をあてるんじゃなかったのか、ハゲ。心の中で教壇に立っている数学教師に一通り悪口を言った後に、真面目な顔で答える。

「x=2√6です」

「流石だな。正解だ」

ああ、気まずい。チラッと横目で彼女を見てみると、授業中だというのに何も考えていなさそうな、つまらなさそうな顔でノートをぼーっと見ていた。本当に授業のことはどうでもいいという風に。そんな様子の彼女を見て、僕だけが一人考えすぎて焦ってることに気づき、馬鹿馬鹿しく思えてきた。

その時の彼女越しに教室の窓ガラスから見えた、何層にも重なって空を圧迫している灰色の雲はまるで彼女のようだった。その雲の隙間から漏れる光が浮かび上がらせる、彼女の無関心な表情と、年の割に少し大人びた横顔。その二つは僕の頭からなぜか離れなかった。どうして今まで不思議な少女のことが気にならなかったのだろうということなのだろうか。

「なあ、中島って小林のこと好きなの」

「は」

「数学の時間にお前があいつのこと見てたから気になっただけだって。そんな本気にするなよ」

「ごめんごめん。いきなりだったから驚いちゃって」

「あいつなんか雰囲気あるからな、気持ちは分かる。でもな、変わり者だから辞めといたほうがいい」

小久保は彼女を知っているようだ。何か聞き出せるかもしれない。

「なんで僕が小林さんのことを好きな前提なんだよ。何、彼女変わってるの」

「あいつ友達いなくていつも一人でいるんだよな。そもそも授業時間以外に教室にいないことが多くてどこにいるか分からんけどな」

「なんとなくそんな気はしてたけど珍しいね。虐められているとか、そういうわけじゃないんだろ」

「あれは虐められてるわけじゃなくて浮いてるって感じだよな。教室にいたとしても休み時間はだいたい一人でいるし、体育の授業もいつも見学してるしな」

「そうなんだ」

「そーいえばあいつと去年も同じクラスだったけど、美術部らしいってこと以外は何も知らんな」

「へえ。ていうか、〝らしい〟ってなんで?」

「去年大きい絵画の賞取ったって噂が流れて、それで美術部じゃないかって。でも部員はあいつ一人らしいから、来年から廃部らしい」

それにしても、可笑しな話だ。クラスメイトなのに部活すらも知らないって。

「小林さん凄いんだね。話変わるけど、次の授業は宿題出てたよ。小久保やったのー」

今日も相変わらず、僕はロックミュージックによって悪くない目覚めを迎える。ただ、引っ越し当初に真っ白だった部屋は、随分散らかってしまった。ベッドから出て、物が散乱している床を縫って勉強机にたどり着く。机の上に煩雑に置かれた教科書やノートから、今日の時間割に必要なものを取り出し、学校指定のスクールバッグに入れる。それから、少し着慣れてきた制服にのろのろと着替えた。

 リビングに行くと、珍しく父親がいた。最近顔を合わせないように行動していたせいで、久しぶりに顔を見た気がする。

「修吾おはよう。朝ご飯用意しておいたぞ」

「……ありがとう」

それだけ言うのが精一杯だった。

 リビングを出て自分の部屋に戻り、準備してあったスクールバッグを掴んでから家を飛び出すようにして出た。

朝、教室のドア付近にはだいたい小久保がいる。入口を塞いでいる迷惑なやつだ。

「小久保おはよう。入口塞いでる」

「おー中島。悪い悪い。今日一限目から水泳だけど、初めてだよな」

「あ、僕プールの準備忘れた」

「え、お前が? 熱でもあるの?」

やってしまった。夜のうちに荷物を玄関に置いたから、すっかり忘れてきた。それと父親のことを思い出してしまい、イライラしたが、小久保にそれを悟られるわけにはいかない。

「熱はないよ。小久保は僕のことなんだと思ってるんだよ」

「いや、お前も忘れ物するんだって思って」

「忘れ物ぐらいするだろ」

そんなことを話していると、今朝のことが少しずつ薄れていく。せめて学校にいる間は忘れたかった。

今日は雨が降ると予報されていたが、雨は降っていなかった。晴れか曇りが微妙な天気だ。それにしてもこの学校のプールは綺麗だった。空がプールに反射して、水面に水色の雲がゆらゆら揺れている。

更衣室前で小久保と別れて、先生に授業を見学する旨と理由を伝える。次からは気を付けるようにとだけ言われたので、僕は授業を見学するためにプールサイドに座った。

「君でも忘れ物するんだね」

鈴を転がしたような声に話しかけられた。前にもこんなことがあったなと思い出して振り向くと、やっぱり小林がいた。

「それ小久保にも言われたよ」

「皆言うと思うよ」

彼女はさも当然かのように僕の隣に座った。一瞬、彼女に他の見学している女子の方に行ったらと言おうとしたが、辞めておいた。彼女はおそらく、僕が嫌がることを見越して僕の隣に来たんだ。これは間違いなく小久保に根も葉もないことを言いふらされるなと思ったけど、面倒くさくなってあれこれ考えるのを諦めた。

「それで、どうしたの」

「え」

「だから、何があったのって聞いてるんだけど」

「何のこと?」

「君が忘れ物をするなんて、しかも水泳の準備を忘れるなんて何かあったんじゃないかと思って」

ああ、サトリはこの世にいたんだ。僕は妖怪の存在を証明する最初の人類になってしまったようだ。彼女には何をしても、何を言っても無駄だと理解した。ただ、僕にも一応プライドというものがある。

「別に。時間が無くて焦って忘れただけだよ」

「ふーん。そうなんだ」

「それに何かあったとしても、小林さんに話すわけないだろ」

「どうして」

「どうしてって、話す理由がない」

「え、話す理由しかないとおもうんだけど」

彼女は初めて言葉を交わした時のように、ニヤニヤしだした。僕はもう抵抗する気もなかったけど、せめて彼女に少しくらいダメージを与えてやろうという気持ちが芽生えてきて、

「分かったよ。君は放課後美術室にいるんだろ。そこで話すよ」

と言った。

「そ。楽しみにしてる」

彼女はまったく驚く様子がなかった。僕が彼女に放った唯一の攻撃は全く効かなかったみたいだ。

後から考えると、彼女は嫌がらせをしようと僕の隣に座ったんじゃなくて、僕のことを心配してくれていたのかもしれないと思った。

放課後、美術室に行こうと教室に彼女の姿を探したが、もう既にその姿なかった。僕は一人で美術室に向かう。美術室の扉を開けると、彼女はすでにそこにいて、大きいキャンバスを立てて絵を描いていた。ドレスを身にまとった女性が緑に囲まれて水に浮かんでいる、楽しいような、悲しいような絵だった。

「凄いね」

その絵は素人眼でも相当上手かった。

「ミレーのオフィーリアって知ってる?」

「ううん」

「シェイクスピアのハムレットに出てくるヒロインなんだけど、彼女が川に落ちて死ぬシーンを、ミレーっていう画家が描いたの。それがミレーのオフィーリア。私はその絵を真似してこうやって描いてる。オフィーリアは恋人に父親を殺されて、その恋人に裏切られて、気が狂ったから川に落ちて死んでしまったんだよ」

「へえ。よく知ってるね」

「読んだことはないの」

「うん。物語や小説の良さがよく分からないんだ。小林さんはそういうの詳しいんだ」

「別に詳しくはないよ。私は絵画が好きだから、題材になりやすい神話や文学を知ってるだけで」

「賢いんだね」

「賢くないよ。賢いっていうのは、君みたいな人のことを言うんだよ」

「じゃあ、小林さんは勉強してないだけで、すれば賢いよ。どうして勉強しないの?」

「学校の勉強はつまんないから、自分が好きなことを自由に勉強したくて、やりたいようにしているの。っていえば聞こえはいいかもしれないけど、これは負け惜しみだね。私は君みたいに勉強できないよ」

「でも努力すれば今よりはできるだろ」

「多分ね」

「どうしてしないの? 理解できない」

「それは、周りからの評価が気にならないことが理解できないってこと?」

「……。」

「君は、友達や先生からの評価を高くしないとうまく生きれなかったんじゃないの。だからそう思うんだよ。私はその逆で、周りの人間を無視しないとやってこれなかった。あなたは私をちょっと敵視してるみたいだけど、それはどっちが悪いとかそういう問題じゃなくて、自分がどうやっていけばいいか悩んで、置かれた環境に適応した結果なんじゃない。私たちの場合は極端だけど、誰でも大なり小なりそうやってるでしょ。あ、でもお互い超自己中で痛い奴ってところは一緒だけどね」

僕は、自分を抑圧して、気づかない内に戻れないところまで来てしまっていた。酷く歪んでいることは自分でも分かっている。でも、それがずっと息苦しくて、溺れてしまいそうだったことは、自分自身でも分かっていなかった。望んだことではあるけれど、そんな僕を見つける人もいなかった。彼女は、僕を見つけた最初の人だった。そして皮肉にも、彼女に見つけられたことに少し救われたんだ。

「オフィーリアから脱線しすぎたね。それで、今朝の君の話は?」

「本当につまらないよ」

「いいよ。話して」

「朝、ちょっと父親にイライラしちゃって慌てて家を飛び出してきたから忘れちゃったっていうそれだけの話だよ」

「君が家でも学校みたいにしているわけじゃなくてよかったよ」

「いや、最近は家でも一切自分の感情を出してないよ。小林さんにこんなことを話すつもりはなかったんだけど、僕がこの学校に来たのは両親の離婚が原因なんだ。僕の親権は珍しく父親にあって、今二人で暮らしてるんだけど、面を拝むだけで吐き気がしそうだ。親というのは、子どもを都合よく扱うのがうまいとつくづく思うよ」

「君も見かけによらず苦労してるんだね。親なんて所詮そんなもんだよ。今朝の真相が分かってよかったよ。この話はやめよう」

それから僕たちは黙っていた。

僕は勝手に、彼女がオフィーリアを描く様子を眺めていた。そして、彼女もそれを止めなかった。

それからというもの、僕はクラスでも相変わらずで、家では父親と一切口を利かなかったけど、放課後にときどき美術室に行くようになった。

美術室にいるのはほんの数分で、彼女とはほとんど喋らなかった。それでも、段々と完成形に近づいていくオフィーリアを見に通った。

僕は今日も放課後の美術室に来ていた。まるで生きているのか死んでいるのか分からないオフィーリアを描く彼女が、

「私ね、実はオフィーリアになりたいっていうくだらない夢があるの。だからこの絵を描いてるの」

と、突然言った。それは間違いなく僕に向けての言葉だったが、彼女の意図がよく分からず困惑していると、

「彼女は物語の中で、若く、美しく、聡明な女性だった。だから、読者はオフィーリアの死を悼み、悲劇のヒロインだと言って、可哀想に思った。でもね、私はそうは思わない。彼女の死は正しかったのよ。彼女がこういう死に方をしない限り、絵画にはならないから。死んで何百年経った今も、人々の記憶に残り、美しいと称賛される彼女は全然可哀想なんかじゃない」

「君は死にたいの?」

「少しね」

「君がそんなことを思うなんて、想像できないよ」

「別に、本気で死にたいわけじゃないよ。ただ、嫌なことがあって。やりきれなくて」

「何があったのか、聞いてもいい?」

僕が口を閉じてから彼女が口を開くまで、とても長い沈黙が僕たちの間に訪れた。目を合わすでもなく、動くわけでもなく、僕は彼女が話すのを待っていた。

「――いいよ。君は私に話してくれたしね。私ね、母親が嫌いなの。私は今まで、母親に理想を押し付けられながら育てられてきた。自分が産んだ子供が、自分の思い通りにならないとヒステリックになる人で。絵を描くことも反対されているから、辞めないといけないかもしれないって思って。私はそんなことは絶対に嫌だから、ずっと反抗してきたんだけど、私は親には勝てないって気づいてしまった。自分が生きていられるのは、間違いなく親のお陰だってね。自分は本当に無力で情けないから。それで、どうすれば後悔させてやれるかって考えてたんだけど、自殺でもしたら後悔させてやれるんじゃないかって思ってしまって。大丈夫、私にそんな覚悟はないよ、安心して」

「小林さんのこと、僕は全然知らないから、そんなこと言う権利ないかもしれないけど、君は強いと思うよ」

僕には全く、彼女がそんな風に悩んでいるなんて思いもしなかった。

「私も喋らなくていいことまで、喋りすぎた。慰めてくれてありがとう」

無意識にこんなことを口走っていた。

「もし、君がよければなんだけど、オフィーリアごっこでもしない? 小林さんの言うくだらない夢が叶うかもよ」

その日の夜、僕たちは学校の前で待ち合わせをした。月明かりと街灯のお陰で、そんなに暗くなかった。正門の柵と乗り越えて、プールに向かう。いつもと違う暗さと、悪いことをしているという気持ちが僕の高揚感を煽った。彼女もいつもより少し楽しそうに見えたのは、気のせいだろうか――。

プールのフェンスをよじ登り、プールサイドの上に立つ。夜のプールは、闇と月明りのコントラストが幻想的な雰囲気を醸し出す。水面が月をゆらゆらと動かしている。僕がそこに立ったときには彼女はプールに向かって歩き出していて、気がついたときにはプールに飛び込んでいた。

「は」

僕は慌ててプールに近づく。

彼女は、体を上向きにしてゆっくりと浮き上がってきて、しばらくは目を開けてプールに浮かんでいた。夜空が水面にあまりに綺麗に反射するから、まるで空に浮かんでいるように見えた。それから、ゆっくりと目を閉じた。

コメント


​グレート エスケープ

ご意見などお気軽にお寄せください

メッセージが送信されました。

© 2023 トレイン・オブ・ソート Wix.comを使って作成されました

bottom of page