『俺たちのプロローグ』 洛葉みかん
- ritspen
- 2021年3月20日
- 読了時間: 14分
俺たちのプロローグ 洛葉みかん
世界には、何をしたって敵わないものがある。腕力、財力、知力、権力……どれを使ったって、勝てないものには勝てない。世界の頂点に君臨する強い者がいれば、必ずその下には搾取され踏みにじられる弱い者がいる。それが世界の理というものだ。全世界のどんな人間にだって適用される、ある意味『平等』な原理。俺たちはそんな理の下に生きている。
いつからそんな風に思い始めるようになったのだろうか。物心ついたころからその実感は俺の中に既にあって、正直なところよく覚えていない。ただ漠然と「この世界には限界があるんだ」と思うようになって、ただぼんやりとその現実を眺め続けていた。
そして俺は、その弱い側の人間なのかもしれない。何に秀でているわけでもなく、恵まれた家庭に生まれたわけでもなく、隣人に手を差し伸べる優しさを持っているわけでもない。他人に価値を示すことのできない、平凡な人間だ。だからと言って、変わろうとは思わない。否、変わるとは思えない。十七になってまで、今更自分の何を変えられようと言うのだろうか。もし変わることができるのだとしたら、好きなように夢も見られたのだろうが。
そう。例えば、ヒーローとか。
* * * * *
下校時刻。むっとするような空気が立ちこめる廊下は様々な生徒たちの雑踏で賑わっている。右を見ても左を見てもどうでもいいような話題で溢れて、それらを耳に入れないように歩く。人々の合間をすり抜けるように行けば、ものの五分で昇降口の靴箱の前へ辿り着いた。履きつぶしたローファーを履いて、そのまま外へ出る。天気は晴れ、色紙のごとく淀みのない青空だった。そんな空から吹いた春の爽やかな空気が頬を撫でるが、それが俺の心を晴れ晴れとさせることはない。空を見て感動するような質ではないからだ。
帰ろう。こんな所にいたって面白くも何ともない。家に帰る……のは、それはそれで嫌だが、少なくともここでぼんやりと突っ立っているよりはマシだ。そんな思いで足早に校門を目指し、そして視界の端に映ったものに目を取られた。
「――今日も金持ってきたんだろうな?」
「はっ、はい……」
校舎の陰に隠れるようにして、男子生徒が二人と女子生徒が一人。ネクタイの色を見るに、男子二人は三年生、女子の方は一年生。そして、女子生徒の怯えた表情。青春の一ページ……というわけではないだろう。誰がどう見ても不穏な状況であることは明らかだった。
「なんだ、これだけかよ。しけてんな」
「こんなんじゃ全ッ然足んねえんだよ。分かってんだろ? な?」
「でっ、でもっ……!」
「でももだってもねえんだよ!」
「おいっ、声が大きい! バレるぞ!」
自分に向けて言われたものではないとは分かっているが、突然の大声に思わず身がすくむ。ああいう暴力的な男は苦手だな。
こういうとき、きっとヒーローなら真っ先に駆け出して止めに入るのだろうが。何て言ったって正義の味方だからな。暴漢二人の前に立ちはだかって名乗りを上げるような、そんなシーンを夢想する。けれど俺はヒーローじゃない。だからこの場をどうすることもできないし、そんな義理も義務もない。
だから立ち去る。ここは見なかったことにして――。
そう思ったのに、奥にいたその女子生徒と目が合ってしまった。怯えた目。助けを求める目。やめろ。そんな風に見られたって、俺は何にもなれないんだ。
その視線を振り切って再びその場を離れようとしたその時、男たちが振り返ってこちらに目をよこした。
「おい、後ろ! ……見られてるぞ」
「あぁ? ……おい、何突っ立ってやがる⁉」
……まずい。少女のみならず三年生までとも目が合ってしまった。
「チクられるとまずいからな。ここで一発ボコっとくか?」
「賛成。逆らえないようにしないとな」
こうしている間にも、男たちは足早にこちらへ近づいてくる。まずい。心臓が潰れそうになる錯覚と共に、冷や汗が額に流れるのがよく分かる。
近づいてくる男たちに相対しながら、様々な選択肢に思考を巡らせる。抵抗したところで、きっと敵わないだろう。なら逃げるか? 腕っ節で勝てないなら、せめて逃げた方がまだこちらに分がある。なのに足が竦んで動けない。逃げるべきなのは分かっているのに、男の姿を見た途端になぜか身体が凍り付いてしまった。その代わり思考は明瞭で、予想される結末が脳裏をよぎっていくばかりだ。ダメだ、ダメだ! 逃げないと――。
重い足を引きずって、逃げ出そうとしたその瞬間。
「やめなさい」
その声は、俺と男たちの緊張の線を断ち切るように響いた。
凛とした声に、一同の視線がそちらへ集まった。声の主は俺と同じ二年生の少女――同じ色のネクタイが胸元に揺れている。
「カツアゲ行為と思ったら、挙げ句の果てに口封じ……。流石に目に余るわ」
彼女はそう呟き、しなやかな足取りで俺たちの間に割り込んだ。その澄んだ瞳が上級生たちを捉える。身の丈百八十センチもあろうかという男を相手に、小さな彼女は臆することなく立っていた。
「悪いけど、現場は押さえさせてもらったわ。これを生徒指導に提出させてもらうわ」
そう言って彼女はポケットから携帯を取り出し、一本の動画を再生する。そこには、先ほどのカツアゲの一部始終がしっかりと捉えられていたのだった。証拠動画としてはこの上ない出来だ。それを見た男たちの顔色が青くなり、そして赤くなる。
「お前……ただで済むと思うなよ!」
男のうちの一人が、彼女目がけて殴りかかる。彼女はその拳を軽々避けたかと思うと、おもむろに傘を取り出して彼の手首に叩き付ける。気持ちいいほどの音が鳴り響き、男はすぐさま手を引っ込めた。
「あ痛ってえ⁉」
「痛いでしょうね。と言っても、あなたたちの所業に比べればこれっぽっちも痛くないと思うけど」
余裕綽々、という言葉がぴったりだと思った。体格では圧倒的に有利な青年たちを相手取って、不敵な笑みを浮かべている。恐怖など微塵も感じていないような素振りだ。
「ヒーロー気取りしてんじゃねえ!」
そんな彼女に殴りかかるもう一人の男。振りかぶった拳を傘の身で受け止め、その向こうずねに鋭いローキックを放つ。男が怯んだ隙を突いて、彼女はその眉間を傘の先端で突き飛ばした。そして振り返って、襲いかかる先ほどの男に眉間突きをもう一発。荒々しい男子二人を、彼女はたった一人で伸してしまったのだった。
「気取りじゃないわ、『ヒーロー』よ! よーく覚えておきなさい」
逃げていく三年生たちの背中にそう言い放つ彼女。その後ろ姿は、紛れもなくヒーローのよう……だったのかもしれない。
男たちを消え去るまで見送ると、彼女はくるりと向きを変え、こちらへ迷いのない足取りで向かってきた。足を一歩踏み出すごとに、背中まで伸びた長い茶髪が揺れる。そして先ほどまでいじめられていた少女の前までやってくると、彼女は今までの険しい表情が嘘のようににこやかな顔をした。
「怖かったわね。もう大丈夫よ」
「は、はいっ……! ありがとうございます」
事は終わった。ならば俺がここにいる用事はもうない。だが、俺は自然と立ち尽くして彼女の姿を目で追っていた。先ほどのように恐怖で足が竦んでいるわけでもなく、彼女を観察することを身体が選んでいた。その理由は……俺にも分からない。
そうこうしているうちに、彼女はうずくまる少女を一通り宥め終えたようだ。両者立ち上がってそれで終わりかと思いきや、彼女は何かを区切るようにぽん、と手を叩いた。
「さて、と。帰りたいのは承知の上だけれど、生徒指導に話すからもう少し付き合ってね。ああ、それと……君にもね」
「えっ? 俺?」
振り返った彼女の指がこちらへ突き出されて、俺は思わず肩を震わせた。
「目撃者は多ければ多いほどいいの。さ、行くわよ。無駄な時間を食いたくはないでしょ?」
「え、ちょっ……!」
反論をする間もなく、彼女は俺の袖をむんずと掴むと力強く引き寄せた。こいつ、見た目より力が強い……!
そうして、俺たちはあっという間に職員室まで連れて行かれたのだった。
* * * * *
「――今日はほんとにありがとう。おかげでスムーズに済んだわ」
バケツをぶちまけたような青い空が、そのままバケツをぶちまけたような橙色に変わる頃。校門ですっかり元気を取り戻した後輩を見送った後、彼女は俺の方をくるりと振り向いてそう言った。不意に合ったその目は、夕暮れの光を受けながら静かに澄んでいた。
「……嫌って言っても付き合わせただろ」
「まあ、そうね。証言者が欲しいのは事実だし……」
そう言葉を呟きながらも、彼女は黒褐色のローファーをコンクリートの地面で鳴らし、行き場のない指を弄ぶ。落ち着きがないな、と思った。まるでその脳内が未検討の考えや組み上げられていない計画で溢れんばかりなのだろうと思った。そして、それは実際事実なのだろう。
次に自分の脳裏に浮かび上がったのは、「嫌いな奴だ」という考えだった。根拠もない自信に満ち溢れていて、何にでもなれると思い込んでいる。さっきの名乗りだってそうだ。「気取りじゃない、『ヒーロー』だ」なんて……俺が一番苦手とする類いの人種だ。見ているだけで嫌な気持ちが込み上げてくる。
「にしても、あんな所に突っ立ってたんだから君も手伝ってくれてもよかったんじゃない? おかげでちょびっと手荒な真似をしちゃったわ。荒事は苦手なのに」
俺の脳内思考など知ったことかと言わんばかりに、無遠慮に彼女は言葉を掛ける。あれだけノリノリで男子の眉間を突き飛ばしておいて、「荒事が苦手」とはどの口が言うのだろうか。
ともかく、俺の返す言葉はひとつだった。
「……俺は、そういう人間じゃないからさ」
俺はあの場で駆け出して止めるような人間じゃない。なぜなら、勝てないのが分かっているから。負け戦にわざわざ挑んで、良い結果になったためしなんてない。本当ならあの時だって、見て見ぬ振りをしてさっさと立ち去ることもできたはずだ――不幸にも、それはできなかったのだが。
「どうしてそう思うの?」
なおも彼女は俺の思考を阻害し、質問を重ねる。言葉の波状攻撃で詰め寄られ、実際の距離よりも彼女を近く感じた。そんな彼女を突き放すつもりで、短く言葉を放った。
「勝てるかどうか分からない相手に挑めるわけがないし、それに――端的に言えば、『柄じゃない』」
そうだ。その一言が自分の心情をよく表していた。俺は誰かを助けるような柄ではないのだ。たとえそれが必要なことであったとしても、その役割を演じるのは俺ではない。そう思っていた。
俺が言葉を言い切ると、彼女は一歩前へ進み出て、俺の顔をまじまじと見つめ始めた。何をされているのかまったく分からず、照れというよりは狼狽の方が勝って身体を支配した。そうしている間にも、彼女は俺の身体、足下へと視線を移していく。そうして顔を上げたかと思うと、あっけらかんとした表情で会話の口火を切った。
「君、私と同じ匂いがするね」
「は?」
台本のようにスムーズに、いやむしろ若干食い気味に、反感と困惑の声が口をついて出た。そんな俺の態度には一切触れることなく、彼女は近づけていた顔を引っ込め、一歩引き下がる。
そして仰々しく手を挙げたかと思うと、こちらへと力強く指を差した。
「君、私とヒーローをやるつもりはない?」
まるで漫画の一ページを突き破った大コマのように。まるで効果音でもどこから聞こえてきそうなほどに。彼女はそうはっきりと言い放った。
「…………」
対する俺は、こいつはだいぶ残念な奴なんだな、と思った。先ほどは「嫌いな奴だ」と思ったが、今は同情の念の方が勝っていた。純粋無垢もここまで来れば愚かさとほぼ変わらない。俺が蔑みと憐れみの混ざった視線を投げかけていることを知ってか知らずか、彼女はそのポーズを正した。
「……と、茶番はここまでにして。ヒーローをやってほしいのは本当の話よ」
「そうだとして、なんで俺なんだよ。お前、俺の話聞いてたか?」
人を助けるような柄じゃないと言い張った人間に「ヒーローをやってくれ」なんて頼み込むのは正気の沙汰とは思えなかった。もしくは、わざと聞き流しているか。どちらにせよまともな思考回路の人間ではない。
「言ったでしょ、私と同じ匂いがするって」
「意味分かんねえよ、それ」
俺がそう返すと、彼女は困ったような表情をする。そして腕を組んだかと思うと、またローファーを地面で鳴らし始めた。どう説明したら、などと口から漏れ出ているのが聞こえる。本当に落ち着きがないな。
そんな調子で彼女はしばらく悩んでいた様子だったが、何か決まったらしく、最後にもう一度靴底で地面を叩いて音を立てた。
「そうね……簡単に言うなら、何もかも諦めてるでしょ、君。長いものに巻かれて、強いものには絶対勝てないって諦めてる、そんな匂いがする。違う?」
「…………」
その言葉は、重い鉄の塊をぶつけられたように強い衝撃を伴った。何から何まで図星だった。何も言い返すことのできない俺の顔を見て、彼女は申し訳なさそうにはにかむ。今日初めて、彼女がこちらの表情を読んだ。
「図星みたいだね。ごめんね、深く詮索するつもりはないから。誰にだって言いたくないことはあるだろうしね」
……そして、私も。そう言いたげな表情を残して、彼女は横を向く。しかし、そうしていたのはほんの一瞬だった。彼女は再び俺を見ると、再び自信満々の目つきをする。
「……でも、悔しくない?」
次の言葉は、軽いゴムボールのように俺の胸の前で弾んだ。それが投げられて、受け取るのが当然という風に、俺はその言葉を咀嚼した。気が付けば、俺はすっかり彼女のペースに乗せられてしまっていた。
悔しい、か。そう思っていたこともあったのかもしれない。それ以前に、そんな単語を思い出すこと自体久々だったかもしれない。諦めて生きるということは楽だからな。
「もちろん分かるわ、その気持ち。弱いままで別にいいって、諦めて生きるのは楽だもんね。私だってできればそうしてたかった」
彼女はじっと目を閉じて、また開いた。またとなく真剣な顔をしている。そこに収まった瞳は澄んでいるようで……濁っているようだった。
そしてその矛盾した瞳でこちらを見据えると、淡々と言葉を放った。
「――けどさ、そしたら何のために生きてるの?」
再び鉄のような重い感覚が胸を打つ。それと同時に、今度は突き刺すような感覚に襲われた。言葉ひとつでこんな感覚になるなんて思いもよらなかった。それは、自らを少しでも負け組だと感じたものにのみ伝わる、特効薬のような言葉だった。
何のために生きているのか。そんなこと考えたこともなかった。正確に言えば、考えていたくなかった。それは、考えることが無駄だとこれまでの人生で分かっていたから。閉ざした記憶の向こう側に、見知った影が黒く揺れる。
「何もかも全部諦めて、暗い隅っこで溜め息を吐くために? 道端の雑草みたいに踏みつぶされるのを待つだけの人生を歩むために? まさか。全然違うでしょ」
まさか。そんなわけない。そんなのごめんだ。自分の意思とは関係なく、そんな言葉が浮かび上がってきた。言葉にすればするほど、自分が見ている未来がおぞましいものであることを自覚する。今や、俺は自分の奥深くに潜むものを自分自身でも制御することができていなかった。
「私も昔はそう思ってた。けど、そんなわけないって分かった。強くたって、弱くたって、人間は人間。この足で立って自由に生きて何が悪いって言うの?」
再度彼女が真剣な表情をする。胸の前でかきむしるような手を重ね合わせると、言葉を振り絞る。今度の瞳は、澄んでいるような気がした。
「だから、私は世界に復讐するの。私はここにいるって、こんな弱い私だって生まれた意味は無駄なんかじゃなかったって証明するために!」
その声色はさほど切迫していたわけでも、声いっぱいに叫んでいたわけでもなかったが、その言葉はある種のオーラをまとって俺の全身を通過した。復讐。証明。悪くない言葉だと思った。言葉に呼応するようにして、すっかり忘れたはずの怒りや苦い思いが、腹の底で熱を増して煮えたぎるのを感じた。
生まれた意味なんてなかった。ただこの世に生を受けたから生きる。ただそれだけだった。一人で色々考えられるようになった時から、俺はそう悟っていた。けれど、彼女の投げ掛けた言葉は、その生き方を全く別の角度から照らした。生を受けたから生きる――そんなことはミジンコだってできる。ならば……『人間』である俺の生きる意味とは、なんだ?
彼女は再び手を差し伸べた。今度はまっすぐ、誠実な重さを持って。
「……ということで。君にも私の計画を手伝ってほしいんだ。弱者が強者に虐げられない世界を目指す。そのために、まずはこの高校から変えていく。私は本気よ」
その手を前にして、今更ながら少しだけ逡巡する。この手を取ってしまえば、きっと後戻りはできないだろう。忘れていたはずの苦痛が全身を刺して、無感動ではいられなくなる。
けれど、それ以上に。
それ以上に、この世界に復讐ができるのなら。他者を踏みにじって何の疑いもなく生きている奴らの鼻を明かしてやれるのなら。そして、置き去りにした人生の意味を再び取り戻せるのだとしたら。
足を一歩踏み出す価値はあると、思った。
「付き合ってやるよ。お前の復讐劇に」
その手を取り、控えめに握る。その目を見据えて、誓いを立てる。彼女は思ったとおり、といったような表情をして頷いた。
「君ならそう言ってくれると思ったよ。よろしくね、新人ヒーローくん」
手を離すと、彼女は俺の先を行くように駆け出し、そして何か忘れ物をしたかのように慌てて振り向いた。
「そうだ、自己紹介をすっかり忘れてた。私は輝井紡、君は?」
「日野昭也。……よろしく」
遠くを見ると、夕暮れが濃紺に取って代わられようとしていた。空が真っ暗になってしまう前に、俺たちは駆け出して帰路を行く。
ヒーロー。十七年生きた今でも、その言葉はぽっかりと空いた心の穴に収まり、まるで元からそこにあったかのように鼓動を続けている。
そうだ、俺たちはヒーローだ。俺たちを踏みにじってきた世界に、俺たちに目もくれやしなかった世界に、復讐を誓うヒーロー。
俺たちのプロローグが、始まる。
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