『はじまりの物語 ——もしくは輪廻に関する考察と分岐——』 一遼次郎
- ritspen
- 2021年3月20日
- 読了時間: 13分
はじまりの物語 ——もしくは輪廻に関する考察と分岐——
一遼次郎
一
蜜柑の実を前に、青年は首を傾げた。一体この実は、いつから有るのか。
三日前か、五日前か、それとも十日前だったか。いや、もっと前のような気もする。
座禅を解き、瞑想から暫し離れた彼は、まじまじとそれを見つめる。蜜柑はまだ青く、小さかった。
悪魔がやってきて言った。
「それを潰せ」
青年は驚き、まじまじと悪魔の体を見つめる。焼け爛れたように赤黒い肌。爪が長く、鋭く伸びた足は太く、両腕は剛腕と言って差し支えなかった。成程、悪魔なのだろう。
「はい……今、何と?」
恐怖に怯え、青年は聞き返した。
「その実を潰せ、と言っておるのだ。何、難しい事ではあるまい」
何故、と問うまでもなかった。相手は悪魔だ。そしてその背中には、大きな剣がさやに収まっている。反論でもすれば、すぐに切られてしまうだろう。
「はい、貴方がそう仰せであれば」
「早く叩き潰すのだ」
有無を言わせぬ威圧を受け、青年は早くも腕を大きく振りかぶっていた。
ぶちゅ、と実がつぶれる音がして、酸っぱいような匂いが漂ってきた。
「うむ、それで良い」
悪魔は大きく口を開いて、満足そうな顔をした。ギザギザとした歯が無数に並んでいるのが見え隠れしている。青年は問うた。
「あのう、なぜこの実を、私は潰さねばならなかったのでしょう?」
悪魔がギロリと青年を睨む。
「何故、と、申すか。まあ良い」
悪魔はふん、と鼻を鳴らして続けた。
「俺は知っている。こやつは元の居場所を捨て、同族を裏切り、ここにいるのだ。誰よりも美しくあろうと栄養を仲間から奪い、誰よりも早く育とうと長く日に当たる場所を占拠した。そのせいか早く収穫され、荷台で運ばれてきたがそこから転げ落ちてしまった。もう二度と、自力ではここから動けまいよ」
青年は驚いた。こんなことまで悪魔というものは知っているのか。そして同時に眼前の蜜柑に自分と似たものを感じた。まるで今まで自らが辿ってきた過去を見たかのようだったからである。悪魔が今度は囁くように語る。
「これは罰なのだ。至極当然の『結末』。こいつには誰も味方しない。だがせめてもの慈悲に、ここでいっそ苦しみから解き放ってやろう、と考えたわけだ。そこに丁度お前がいた。だからやらせた。それだけだ」
「苦しみ、ですか? こんな実に、苦悩がある、と?」
青年は素直に疑問に思った。
「お前は、今まで何をやっておったのか? この木の下でただ眠っておったわけでもあるまい」
悪魔が太い指で青年の頭上に生い茂る木を指さしながら呆れたように問い返した。
「いえ、その、この菩提樹という木の下で考え事をすれば、何かいいものが得られるような気がしたので、以前よりここで瞑想に耽るようになったのです」
青年は恐る恐る答えた。すると悪魔は大笑いした。
「ハハハハハ……! そうかそうか、それは面白い。そんな気になったのか。道理で何も考えず、あの蜜柑を潰したのだな」
さもありなん、といった様子である。青年には何も分からなかった。まるであの蜜柑を潰した自分を嗤っているような口ぶりだったからである。
「その、私があの蜜柑を潰してしまったことがいけなかったのでしょうか?」
悪魔は笑いが引いたようだ。そして青年にまた問うた。
「ふむ、何がいけなかった、か。その小さなおつむで考えてみよ。まあ、その調子では三周回ってみなければ思い浮かぶまいて」
「三周回る」?(? マークは仕様です) そうかならば、と青年はその場でぐるぐるとその身を回してみた。
それを見た悪魔がまた笑いそうになるのを堪えている。
「その、食べ物を粗末にしてしまったこと、でしょうか?」
「ダハハハハ! 愚か! 愚かだ!」
堰を切ったように再び笑い出す悪魔が、その背中に腕を回す。それを見て青年は慌てた。
「その、なにをしてらっしゃるのですか? 私はあなたの指示に従い、あの蜜柑を潰しました! 何か、私が何かあなたの気に障ることをしてしまったのでしょうか?」
必死に悪魔に媚びる。嫌だ、死にたくない。あんな剣で切られれば絶対に痛いし、すぐには死ねずにもがき苦しむだろう。
「そうさな……貴様が気に喰わんから、とでも言っておこうか」
青年の必死の懇願に耳も貸さず、悪魔は背中の剣を抜き切った。刀身が青白く光り、青年を冷ややかに見下ろしている。
「こいつはな、罪人に相応の償いをさせる為の剣だ。そうさな、『魔剣』というやつだ。今ここでお前を叩き切る、と言ったらどうする? 素直に『運命』に従うか?」
剣を大上段に構え、悪魔は言った。その顔の笑みは剣の青白さに劣らぬほど冷ややかなものに変わっていた。
「嫌だ! 嫌です! 死にたくない! 何か、何か私めにできることはありませんか? 何でも致します!」
青年は泣き出していた。
「愚かな――愚かとしか言いようのない奴だ」
吐き捨てるように呟くと、腕の力を抜いた。剣は重力に従って青年に向かっていく。
「良かったじゃねえか、業から抜け出せたぜ、シッダールタよ」
一閃、光が辺りを包んだ。
「ひっ――!」
青年が目を開ける。いつの間にか悪魔は消え、夜の帳が静寂と共に下りようとしていた。
「私は、眠ってしまっていたのだろうか。あれは、夢だったのか」
彼はふと、眼前に転がるものに気が付いた。
それは赤く血に濡れた、彼自身の身体だった。
二
蜜柑の実を前に、青年は首を傾げた。一体この実は、いつから有るのか。
三日前か、五日前か、それとも十日前だったか。いや、もっと前のような気もする。
座禅を解き、瞑想から暫し離れた彼は、まじまじとそれを見つめる。蜜柑はまだ青く、小さかった。
悪魔がやってきて言った。
「それを潰せ」
青年は驚き、まじまじと悪魔の体を見つめる。焼け爛れたように赤黒い肌。爪が長く、鋭く伸びた足は太く、両腕は剛腕と言って差し支えなかった。成程、悪魔なのだろう。いや、それにしても、どこかで見たことがあるような?
「はい……今、何と?」
恐怖に怯えつつも、思案していた青年は聞き返した。
「その実を潰せ、と言っておるのだ。何、難しい事ではあるまい」
何故、と問いたかった。しかし相手は悪魔だ。そしてその背中には、大きな剣が鞘に収まっている。反論でもすれば、すぐに切られてしまうだろう。ここはなるべく穏便に済ませたかった。
「はい、貴方がそう仰せであれば」
「二度目は無い。早く叩き潰すのだ」
有無を言わせぬ威圧を受け、青年は腕を大きく振りかぶった。
「ごめんなさい、私には、あなたを救うことはできなかった」
なぜか口をついで出てきた「救う」という言葉に、青年自身が驚いた。が、今は眼前のことに集中しなければ。
ぶちゅ、と実がつぶれる音がして、酸っぱいような匂いが漂ってきた。
「うむ、それで良い」
悪魔は大きく口を開いて、満足そうな顔をした。ギザギザとした歯が無数に並んでいるのが見え隠れしている。青年は問うた。
「なぜこの実を、私は潰さねばならなかったのでしょう?」
悪魔がギロリと青年を睨む。
「何故、と、申すか。まあ良い」
悪魔はふん、と鼻を鳴らして続けた。
「俺は知っている。こやつは元の居場所を捨て、同族を裏切り、ここにいるのだ。誰よりも美しくあろうと栄養を仲間から奪い、誰よりも早く育とうと長く日に当たる場所を占拠した。そのせいか早く収穫され、荷台で運ばれてきたがそこから転げ落ちてしまった。もう二度と、自力ではここから動けまいよ」
青年は驚いた。こんなことまで悪魔というものは知っているのか。そして同時に眼前の蜜柑に自分と似たものを感じた。まるで今まで自らが辿ってきた過去を見たかのようだったからである。悪魔が今度は囁くように語る。
「これは罰なのだ。至極当然の『結末』。こいつには誰も味方しない。だがせめてもの慈悲に、ここでいっそ苦しみから解き放ってやろう、と考えたわけだ。そこに丁度お前がいた。だからやらせた。それだけだ」
「苦しみ、ですか?」
青年は素直に疑問に思った。
「お前は、今まで何を考えてここに座しておったのか?」
悪魔が太い指で青年の頭上に生い茂る木を指さしながら呆れたように問い返した。
「この菩提樹という木の下で考え事をすれば、私が抱えている悩みから解放されるような気がしたので、以前よりここで瞑想に耽るようになったのです」
青年は答えた。すると悪魔は大笑いした。
「ハハハハハ……! そうかそうか、それは面白い。そんな気になったのだな、感心したぞ」
さも面白そう、といった様子である。青年には何も分からなかった。まるであの蜜柑を潰した自分を嗤っているような口ぶりだったからである。
「その、私があの蜜柑を潰してしまったことがいけなかったのでしょうか?」
悪魔は笑いが引いたようだ。そして青年にまた問うた。
「ふむ、何がいけなかった、か。――その小さなおつむで考えてみよ。まあ、その調子ではその場を一回、回ってみなければ思い浮かぶまいて」
「回る」? そうかならば、と青年はその場でぐるぐるとその身を回してみた。
それを見た悪魔がまた笑いそうになるのを堪えている。
「その、蜜柑が何か私にとって大事なものだったからでしょうか?」
一瞬、悪魔は動きを止める。何秒か経った、と思う。
「ダハハハハ!! 惜しい! 惜しいぞ!」
堰を切ったように再び笑い出す悪魔が、その背中に腕を回した。それを見て青年は慌てた。
「その、なにをしてらっしゃるのですか? 私はあなたの指示に従い、あの蜜柑を潰しました! それで全て終わりになったのではないのですか? 罪とかいうものも、何もかも!」
必死に悪魔に媚びる。嫌だ、死にたくない。あんな剣で切られれば絶対に痛いし、すぐには死ねずにもがき苦しむだろう。
「そうさな……お前の答案が間違っていたから、とでも言っておこうか」
青年の必死の懇願に耳も貸さず、悪魔は背中の剣を抜き切った。刀身が青白く光り、青年を冷ややかに見下ろしている。
「こいつはな、罪人に相応の償いをさせる為の剣、いわゆる『魔剣』というやつだ。今ここでお前を叩き切る、と言ったらどうする? 素直に『運命』に従うか?」
剣を大上段に構え、悪魔は言った。その顔の笑みは剣の青白さに劣らぬほど冷ややかなものに変わっていた。
嫌だ。嫌だ、死にたくない。こんなところで、騙されたような格好で殺されたくない。
ならば、いっそ――
「ふむ、命乞いはもう良いのか? つまらぬ」
剣を今にも振り下ろそうとした、その瞬間を狙って青年は悪魔の空いた胴めがけて飛び込んだ。そして咄嗟に手に握った潰した蜜柑を悪魔の目にこすりつける。
「小癪な! おのれ!」
悪魔があてずっぽうに剣を振り下ろしたが、土に突き刺さっただけだった。その機を逃さず、青年は悪魔の手にかじりついた。悪魔が大声で威嚇する。
「貴様、その剣にだけは触るんじゃない! これは貴様如きが触れてよいものではない!」
「そんなこと聞くか! 私は死にたくないだけだ!」
青年はそう言うと力任せに剣を奪い、悪魔を切りつけた。
「おのれ貴様。その先……!」
一閃、光が辺りを包んだ。
青年が目を開くと、目の前から悪魔は消えていた。
「私は――眠ってしまっていたのだろうか。あれは、夢だったのか」
と、青年はその右手に何かを掴んでいる感覚がした。見ると、先ほどの剣を握っていた。
その剣の刀身に目をやる。研ぎ澄まされて青白く、そこに映る全てを切り伏せてしまうような……な? 青年は驚愕した。いや、そこに映っていたのは青年ではなく、悪魔だった。
側には蜜柑が潰れずに、青いまま落ちていた。
三
蜜柑の実を前に、青年は首を傾げた。一体この実は、いつから有るのか。
三日前か、五日前か、それとも十日前だったか。いや、もっと前のような気もする。
座禅を解き、瞑想から暫し離れた彼は、まじまじとそれを見つめる。蜜柑はまだ青く、小さかった。
悪魔がやってきて、言った。
「それを潰せ」
青年は拒絶した。
「嫌です。どうして理由なく、罪のない実を潰さねばならないのでしょう」
悪魔が答える。
「罪のない? 何を言う。お前はその実がなぜ落ちているのか疑問には思わないのか?」
辺りに蜜柑の生る木など一本も生えていない。青年は答えた。
「知らない。第一私は、その罪なるものを見ていない」
「知らぬ、と申すか。まあ良い」
悪魔はふん、と鼻を鳴らして続けた。
「俺は知っている。こやつは元の居場所を捨て、同族を裏切り、ここにいるのだ。誰よりも美しくあろうと栄養を仲間から奪い、誰よりも早く育とうと長く日に当たる場所を占拠した。そのせいか早く収穫され、荷台で運ばれてきたがそこから転げ落ちてしまった。もう二と、自力ではここから動けまいよ」
悪魔が今度は囁くように語る。
「これは罰なのだ。至極当然の『結末』。こいつには誰も味方しない。だがせめてもの慈悲に、ここでいっそ苦しみから解き放ってやろう。何、この程度の実に私が手を下すまでもない。お前がやれ」
青年はしばらく考え、答えた。
「ならば私が、この実の味方となろう。この実の罪は、私が被る」
悪魔の目が、カッと見開かれた
「それは許されぬ。最も忌むべき、最も恥ずべき行いだ。俺は悪魔だ。罰を与えるべき者を見定め、その運命を司るものだ。その実は、罪ありきと断じた。ゆえに其れを庇う者は同罪となり得よう」
青年は凛とした声で、はっきりと悪魔に告げた。
「構わない。私はこの世の苦悩を疎み、人生とは、世界とは何かを悟るためにこの菩提樹の下で修業をしている身だ。この実も、苦悩しているのだろう。私はそのすべてを受け入れ、この身をもって救おう」
「詭弁だ。それは単に逃げているだけだろう。人生の苦悩とか云うものから」
悪魔は憤怒の形相に変わっていた。青年は滔々と語る。
「今はまだ、そうかもしれない。しかし今、この実を助けることで一歩答えに近づくことができるかもしれないのだ」
「譲らぬか。高慢な奴だ」
悪魔はその手に剣を握りしめた。
「こいつは罪人に相応の償いをさせる為の剣だ。そうさな、『魔剣』というやつだ。今ここでこの蜜柑とお前を叩き切ると言っても、聞かぬか?」
鈍く光るその刀身を一瞥し、青年は言った。
「聞かない」
悪魔は無言で剣を大上段に構える。そして呟いた。
「————この業から、抜け出せるはずだったのだが。選択を誤ったな。シッダールタよ」
一閃、光が辺りを包んだ。
「————」
青年が目を開ける。いつの間にか悪魔は消え、夜の帳が静寂と共に下りようとしていた。
「私は――眠ってしまっていたのだろうか。あれは、夢だったのか」
彼はふと、眼前に転がる実に気が付いた。
それは黄色く色付いた蜜柑だった。
四
蜜柑の実を前に、青年は首を傾げた。一体この実は、いつから有るのか。
三日前か、五日前か、それとも十日前だったか。いや、もっと前のような気もする。
座禅を解き、瞑想から暫し離れた彼は、まじまじとそれを見つめる。蜜柑は黄色く、大きかった。
どこから落ちてきたのか、と辺りを見回すが、蜜柑の木など見当たらない。まあいいや、と瞑想に戻ろうとしたが、なにやら足音が聞こえた。ここは小さな街道沿いだ、たまに荷台に乗せた農作物を運ぶ農夫や旅人が通るほか、あまり人は来ない。まあ、この足音もそのどちらかだろう。自分の瞑想の邪魔にならないのなら構わない。だがその足音は、彼の前で立ち止まった様子である。
「その蜜柑は、貴方のものか?」
唐突に問うてきた。青年は気怠げに目を開け、足音と声の主を見上げた。すらっとした、爽やかな印象を受ける男だった。
「いいえ、どこからか転がってきたようです」
否定する。それよりも、わざわざ聞くほどの事だろうか?
「ああ、そうですか。なら、是非召し上がってみてはどうです? 他に食べる人もいないのでしょうし」
急に何を言い出すのかと思いつつも、丁寧に答える。
「いいえ、それはできません。そのようなことができるのはこの蜜柑の所有者だけでしょう。私はこれを誰かから買ってもいませんし、まず育てたわけでもありませんので。貴方に差し上げましょう」
すると男は笑いながらこう言った。
「ははは……まあ、それならば私が頂いておきましょう。もとより、そのつもりでしたが」
ひょい、と蜜柑を取り上げる。変な奴だ、と青年は思った。まあ、だが、何も言わずに立ち去ってもらおう。再び座禅を組み、瞑想に入ろうとした彼に、男は言った。
「すべての辻褄があったようだ。案外、私の予想よりも二、三周りくらい早かったですが」
何の話だ。再び目を開け、男を見ようとした。が、その姿はどこにもない。
ただ、青年の目の前の地面に、その蜜柑を突き刺す大きな剣が刺さっていた。
五
蜜柑の実を前に、青年は首を傾げた。一体この実は、いつから有るのか。
三日前か、五日前か、それとも十日前だったか。いや、もっと前のような気もする。
座禅を解き、瞑想から暫し離れた彼は、まじまじとそれを見つめる。蜜柑は黄色く、大きかった。
青年はその蜜柑を手に取った。そして何も言わずに食べた。
――ふいに、何かが終わったような気がした。いや、切れた、といった方が妥当かも知れない。ああ、そうか、これは。
ブッダは悟った。
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