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「孤独」 大保江冬麗

  • ritspen
  • 2020年7月30日
  • 読了時間: 24分

 少し昔の話である。

 私は銀行の職場を定年で退職し、妻と共に二人で穏やかに暮らしていた。妻はそれほど美人ではなかったが、見苦しくもなく、極めて優しく気遣いのできる女であった。私は二十歳で嫁を貰い受け、溺愛することも無ければ、全く愛さぬことも無いような塩梅で人生を共にしてきた。

 私の人生において、とりわけ幸運な出来事もなければ、とりわけ不幸な出来事もなかった。ただ淡々とこれまでの人生を歩んできたのである。私の人生を語る上で、妻という存在は切っても切り離せぬものではあるのだが、多くを語ることも出来ないようなものであった。

私が生計を立て、妻が家庭を支える。その時代において当然の事を私達は漠然とこなしてきたのである。特に幸運も不幸もなかったためであるのか、私は妻という存在をとりわけ特別視していたわけではなかった。なぜならば、私と妻は好き同士で結ばれたわけではなかったからである。それ故に、多くを語ることが出来ぬ。私達はそんな妙な関係になってしまったのである。

しかし、不意にそんな妻の存在を特別視する機会が私に訪れた。

それは例年の様に豪雪が降り積もったある冬の時期の事である。私は毎朝の散歩に出かけていた。いつもの道を歩いていると、つい先週ほどから建て替えが進んでいる家の前を通りかかった。家を囲む足場とシートの隙間から真新しい木材の柱が見える。最近は洋風の家が増えてきた。今や古びた面影を持つ家は我が家の方かに数件ぽつぽつとあるようなものだ。洋風の建物というのはどうも温かそうで、この雪の降る日にも何のこともないように建っている。

しかし、私の目にはその姿がどうにも忌々しく思えてくるのだ。すぐ新しいものに乗り移っていく、そうした妙な軽々しさ、若さのようなもの、そして不思議と豊かそうなところが何とも言えず気に食わなかった。

少々嫌気のさす景色を眺めていると、ぐっと足元を柔らかな雪にとられた。雪道というものは非常に歩きにくいもので、厄介ではあるが短い距離でも随分な運動になる。雪が固まっていれば歩きやすくはあるのだが、時折つるつるとしている部分があり、不意に足を滑らせてしまいそうになる。あれはあれで歩きにくい事だ。

いつもは町の往来をのんびりと一往復、二キロほどを歩くのだが、この日の私は町の往来を五百歩ほど歩いたところで引き返した。雪はまだぼそぼそとしていて上手く歩けない上に、若干雪も降っていた。なにより頗る寒かったのである。

私は玄関の引き戸を引いて「ただいま」と言った。しかし、返しがない。玄関は私のしわがれた声が微かに残響のようにからんと耳に残っているだけである。いつもなら妻が玄関まで出てきて「おかえりなさい」と返事が有るのだが。と訝しく思いながらも、もう一度「ただいま」と言うにも返事がない。玄関の引き戸からすっと隙間風が流れ込んできた。私は暖かみのないこの玄関に酷く寒気を感じた。いよいよおかしい。私は靴を脱ぎ捨てて、速足に部屋へ駆け込んだ。しかし、そこに妻の姿はない。「ただいま」と少し声を張り上げて言ってみるのだが返事は無い。がらんとしている。私はますます不安になって、台所、風呂場、裏口と一階周辺を探し回ったが見つからない。このような事は今までで一度も無かった事である。

私は二階への階段を駆け上がって、寝室を覗き込んだ。そこにはすやすやと眠りこんでいる妻の姿があった。ほっと心の温度が変わった。そこで私はおもむろに「ただいま」と言った。妻はそれで目が覚めたのか、僅かに首を傾けて、私を見てから「今、起きました」と慌てることなく言ってゆっくりと起き出した。私は何とも言えない安心感と虚脱感を覚えてその場に座り込んでしまった。呼吸も荒かった。老いぼれには少々きつい運動だったのかもしれぬ。しかし、私はいつよりも落ち着いていた。そんな私を見て「大丈夫ですか?」と妻は優しく声をかけるのであった。

私は妻を隣に置いて食事をしながら、妻が遅れて起きてきた理由に気が付いた。正確に言えば、妻はいつもより遅れて起きたわけではない。私がいつもより早く散歩を切り上げて帰ってきてしまっただけである。いつも妻は私が散歩に出ている間に起き、食事の支度をしていたのだ。そのため妻は寝ていて返事ができなかった。それだけの話である。

しかし、この日以来、私は妻の事をより大切に思うようになった。ただ、大切に思っているだけであって、特に私達の関係が大きく変わるという事などは決して無かった。

あれから何年たったのであろうか。一昨日、妻はこの世を去った。あの日と同じような冬の日に。

私はその日も散歩に出かけていた。あの日以来確かに変わった事は、どのような日でもいつも通りの時間に帰ろうと意識し始めたことぐらいであった。私は膝まで降り積もった雪の中をずんぐりずんぐり歩きながら、往来をしっかり一往復した。そして玄関を開け、「ただいま」と言った。返事はなかった。私は慌てなかった。どうせ前のようにまだ寝ているのだろうと思った。誰にだって寝坊することぐらいあるものだ。私は静かにそう思った。長靴を脱ぎ、とんとんと階段を上がって寝室に行き、「ただいま」と言った。しかし、返事はなかった。

自然な最期であった。涙は出なかった。だが、悲しくないわけではなかった。葬式を終えて家に戻って「ただいま」というのだが、当然の様に返事はなかった。後ろの引き戸が静かに風に震えた音だけが返ってくる。それが酷く心細く、どうしようもなく居た堪れなくなってしまった。私はよく酒を飲むようになった。体に悪い事は分かっているが、心がそれを欲してやまないのである。

私は外に出ることを控える様になった。毎朝続けた散歩にさえ出なくなった。どうにも「ただいま」という挨拶をするのが怖くなってしまったのである。「おはよう」の返事は「おはよう」であるが、「ただいま」の返事には「おかえりなさい」という違う言葉が必要である。どちらにせよ返事が無い事には変わりなく、特に大きな変わりなどなど無いのだが、その僅かな差が私はどうも気になって、「おかえりなさい」が返ってこない「ただいま」を口に出したくなかったのである。

そんな時にふと娘の顔を思い出すこともあった。だが、娘とはもう何年も会っていない。というのも、全ては私のせいである。私は娘が望んだ婚約を肯定しなかったのだ。娘の相手は都会の街の、なんだか良からぬ風貌の男であった。その男の態度、服装、しゃべり方、どれをとっても気に食わなかった。中でも結婚したら新しい住居を構えると男が言ったのが気に食わなかった。ただ漠然と気に食わなかった。それ故に、私は娘との婚約にうんともすんとも言わなかったのである。

結果として、娘はその男と駆け落ち同然、この家から逃げ出した。それ以来、娘とは連絡がとれない。思えば、私のこうした新しいものへの敵意はここからじわじわと膨れ上がっていたのかもしれない。

しかし、私は娘の駆け落ちの事では、何の後悔も反省もしていなかった。娘がいなくとも不思議と毎日は満たされていたし、不自由もなかった。だが、妻がいなくなったとたんに、どうしたことか。その娘の可愛らしかった顔が脳裏に浮かぶようになった。その次には、娘によく似た妻の顔がはっきりと思い浮かぶのである。これがどうしても、心に酷く刺さるのである。そうして妻の顔を思い出すたびに酒を飲み、沈むように眠るのである。こういう時は特に、心から眠らなければならん。

そんな私の元に突然の来客があった。随分と老いた眼鏡の男であった。ほっそりと痩せた体は雪に濡れていて、頭には若干雪が積もっている。傘も差さずに来たことは明白だった。凍えた真っ赤な手には一本の瓶を握っている。どうも不気味な雰囲気を漂わせた男で、玄関の外から差し込む僅かばかりの月光が男の影をぬるりと見せていた。

「やぁ、何年ぶりかね」と男は言うが、私には男が何者なのかも分からなかった。

「すまないが、私はお前を覚えておらぬ。いったい誰かね」と言うと、男は苦笑いをして「久平です」と名乗った。私は思わず「あぁ」と呟いた。

 久平とは私の学生時代の友人であった。彼は何事にも情熱的な男であり、何ごとも平然とこなす男であった。ひとたび筆を持たせれば、名人さながらの字を描き、走れと言われれば風の様に走る。大衆をまとめる力も持ち、生徒や教師からの信頼も厚い。

久平とは、文武共に長けた優秀な生徒であった。それだけではなく、誰にでも好かれるような好青年であった。対して、私はいかにも平凡と言った特徴も能力もないただただ一介の生徒に過ぎなかった。

 しかし、久平はしきりに「私の友人は君しかいない」と言っていた。他の人とも交流の深い久平が何故そんなことを言うのかと問うと、「私の話を黙って聞いてくれるのは君だけだ」と久平は言った。

私は納得した。久平の周りというものは、大概、彼の人気にあやかりたいものが集まっているような気がしたからだ。このような理由で私は久平と学生生活の一部を共にしていた。

 そんなある日、久平が珍しく湿った顔をして、私の元へやってきた。私は気になって、どうかしたのかと尋ねた。彼は言うか言うまいか暫く考えるふりをしてから、「聞いてくれ。どうか笑わずに聞いてくれ」と念入りに前置きして語り始めた。

話を聞いてみれば、あの久平が「恋をしてしまったかもしれない」などと言い出すではないか。私は始め、呆気にとられていたが、やがて落ち着きを取り戻してその話に聞き入っていた。彼はその女の特徴や良い所を続けて言った。しかし私が解釈するに、久平はどこの者かも知らぬ、平凡なとりわけ特徴のない女に惹かれたという。私はまた少し驚いた。そして、彼は話の最後に私にこうお願いした。

「頼む。どうか、私の恋を手伝ってはくれまいか」

私はまた驚いた。これまで彼が私に頼った事など一度も無かったからだ。そして、久平は誰にも頼らず何事も成し遂げることのできる人物であると私は確信していたからである。私はこの時、初めて自分の存在を誇りに思った。

「私に手伝えることがあるならば何でもやろう」

私がそう答えると久平は喜んで「ありがとう、ありがとう」と何度も繰り返した。

学生という時期にこうも、率直に、真摯に恋というものに立ち向かっていく彼の様子は私の心を動かした。そして

久平の頼みというのは私にその女との仲介を頼みたいとのこと。なんと久平は一目惚れをしたようで、女をまっすぐに見つめる事が出来ないという。これはまた私を大いに驚かせたが、私は久平とその女との仲介役を買って出ることにした。

彼の依頼を受けた私は果たして困ってしまった。その女は別の学舎に通っているのであり、私はその女の名前どころか、顔も知らないのだ。さらに言えば、元より見知らずの女に話しかけるような勇気を持たない男であった。そんな私にいったい何が出来ようか。私は顔がわからないことを理由に、帰り道には必ず久平に付いてきてもらうことを約束した。これで顔が分からないことへの不安と、初めて話しかける時は久平がいてくれるのだという二重の安心を得ることが出来た。

私と久平は校門で待ち合わせ、下校を共にした。彼の下校に付き合う形になった私は、多少の遠回りをすることになったが、たわいもないことを語り合いながら帰る日々は退屈しないものであった。いつしか私は久平の女のことなどすっかり忘れてしまっていた。

そんな日々がいくつ続いただろうか。帰り道で談笑していた久平の顔がはっとした。私もつられてはっとした。この時、彼との下校の理由を明確に思い出したことは言うまでもない。

まるでパッと劇場のシーンが変わったようであった。夕暮れ時、空が茜色に染まっている中、橋の上からさらさらと流れる川を見ている女がいた。髪は短く切りそろえられ、制服も規則正しくぴしっとしている。傍らには自転車が置いてあった。

「彼女だ」

 久平が掠れた声で言った。しかし、彼はそこで止まってしまった。口を真横一文字に結び、目は驚いたままで、足は僅かに震えていた。まるで間抜けな案山子のようになってしまったのである。てっきり彼から話かけに行くものと思っていた私は、彼が動かなくなったのを見て彼の女に対する感情が恋などと生易しいものではないのではないかと思わされた。

私は彼とあの女との恋の架け橋となる約束を交わした仲であるから、ここは私が動かねばならないだろうと震える唇をもって彼女に声をかけた。

彼女は振り向いて私たちを見たが、そこで私も声に詰まってしまった。

「どうかなされましたか?」

「えぇ、何をなされているんです? こんなところで」

 彼女が声を発し、それに答えたのは久平であった。動かなかった先ほどよりはほぐれた表情で彼は私の前にするりと身を乗り出した。そこからは、基本的に久平と彼女が話していた。私の心に安寧が取り戻されたのは言うまでもない。私はその会話の間に時折相槌を打つ程度ですんだ。

 彼女は危機感というのが薄いのか、それとも人懐っこいのか私たちとはすんなり打ち解けた。別れ際には久平が彼女とまた会う約束を交わし、

「君についてきてもらってよかった。よかった」

 彼は満足そうに言った。そう言われて私は誇らしさを感じ、彼との友情が深まったことを喜んでいた。

 次の日になって、私はまた久平につきそうよう頼まれた。

「もう彼女とは仲良くなったのだから、一人でも大丈夫だろう」

と言うと、彼は首を横に振って、

「いや、不安なのだ。なぜか不安なのだ」

 と根拠も何もないことをぶつぶつとつぶやくばかりで、逆に私は彼のことが心配になって、その日も下校に付き添うことにした。そして、驚いたことに久平は彼女を目の前にするとまたぴたりと止まってしまうのだ。私は再び自分から彼女に声をかけた。昨日、話したこともあって初めのような抵抗はなかった。

「やぁ、昨日はどうも」

「こんにちは」

 と言葉を交わした後に久平が彼女に声をかけた。そこからは、昨日と全く同じで、私は相槌を打つばかりで、彼が思い思いの会話を彼女と交わしていた。私はこの空間を別に嫌いにはならなかった。むしろ、私は誰かの役に立っているのだという自尊心を得られる貴重な時間として彼らとの時間を共有していた。

しかし、久平の恋は実らずに終わってしまった。あろうことか、その女は私に惚れてしまったのだ。私は久平に悪いとは思いながらも女の思いも無下にはできず、共に人生を歩むことにしたのであるが、これを久平はどう受け取ったのか。学業を終えると、私の家に来て「旅に出てくる。孤高の旅だ。君の助けも、付き添い人もいらぬ。ただ、君、彼女を頼むぞ」と言い残して、颯爽と故郷を去ってしまったのである。その後、私の妻となった女に、なぜ久平の告白を断ったのかを聞くと、「あら、私は久平さんからは告白なんてされてませんよ」と笑って言われた。

 それ以来、今日まで久平が私の前に姿を見せることなど無かったのだが、こうして姿を見せた理由と言えば、一つしかないであろう。私も楽に推測することが出来た。ならば無理に追い返す理由もない。

「今に思い出した。随分変わってしまったから」

「いっこうに構わぬ。それより酒をもってきた」

「それは良い。是非一杯やろう」

私は笑顔で彼を迎え入れた。彼はボロボロの靴を脱ぎ、雪で濡れた裸足で部屋に上がるや否や、今まで妻が座っていた座布団を移動させて無遠慮に腰をおろした。私は何も言わなかったが、やはりマイナスな心境であった。彼が座布団に座っている姿が、私に妙な不快感を与えたのだ。

そんな彼は下した腰を再び持ち上げて、「仏壇はどこかね」と尋ねた。「そっちだ」と私は別の部屋の方向を指差した。彼は「では、しばし失礼」と実に堂々として仏壇のある部屋の方へ歩いて行った。やがて、線香の香りが鼻をついた。

しばらくして彼は戻ってきた。その目元には赤い痕が出来ていた。しかし、彼は座布団に景気よく座って「さぁ、飲もう」と明るく言った。私も合わせて「飲もう飲もう」と言った。彼は持ってきた酒をすぐに台には置かなかった。「これは最後のとってきだ」と言って、自分の身で隠すように置いた。私は仕方なしに、台所から三本の日本酒を持ってきた。

「いや、三本じゃ足りん。もう三本」

「いやいや。足りなくなればもう三本、後で持って来ればよかろう」

「後に持ってくるのと、先に持ってくるのに違いなどあるまい。さぁ、あともう三本」

「違いがなければ、後で持って来ても構わぬ」

「いや、もう三本。近くに置いておこう。その方が、酒が途切れぬ」

彼があまりに言うものであるから、私は仕方なしに冷たい台所からもう三本、日本酒を持ってきた。彼は笑顔で酒を一本受け取って、早速飲み始めた。私は彼の正面に座って少しずつ飲み始めた。一口でかっと喉が熱くなる。美味しいなどとは感じない。ただ、酒は美味しいものだという感覚が私を上機嫌にしてくれる。互いに暫く無言で飲んだ。気まずいとは思わなかった。

「つまみはないのかね」

「スルメならあるが」

「それで構わぬ。持って来てくれ」

私は再び立ち上がって、スルメを三枚ほど持って来た。

「三枚では夜を明かすには足りんだろう。もう三枚」

「いや、そうは言われても三枚しかあらぬ」

「ならば三枚でも構わぬ。代わりに何かあるのか」

「何もない。ここには、もう何も残っておらぬ」

「ならば仕方がない。三枚だけでも良かろう」

彼は言葉とは裏腹に不平な顔など少しもせず、また笑顔で受け取って、細く千切って口に運んだ。彼は実に美味そうにスルメを齧った。私も細かく千切って、酒と交互に少しずつ口に運んだ。美味しいとは思わなかった。ただ、止められぬ何かがあった。手を動かしていれば、それ以外の事は忘れていた。

また私達は黙々と飲んだ。積もる話はあったが、どうにもこちらから話題を振ろうなどとは思わなかった。彼も頑なに話題を振ろうとはしなかった。ただ堂々と酒を飲み、スルメを齧るのみだった。しかし、やはり気まずくはなかった。

 やがて酒もスルメも尽きた。もう何も気を紛らわすものが無くなった。すると急に気まずくなってしまった。酒で気はぼやけているが、このような気まずさは妙にはっきりしていて、性質が悪い気まずさであった。お互い酒では上手に酔えていないのであった。私はとうとう堪らず話題を振ることにした。

「ところで、お前は何処を旅していたのか」

「色々旅をした。日本は全て旅した」

久平は堂々と答えた。

「どうして旅などをしたのか」

「自分もよくわからぬ。ただここには居ることが出来なかった。それで旅に出るほかなかった」

 彼の顔色はそのままであったが、私は少し後ろめたい気持ちになった。しかし、紛らわす酒もない。

「そうであったか。旅ではどんなことがあったのか」

私はここに居ることが出来なくなった理由を追及せず、あえて話を進めた。「そうだ。聞いてくれ」と彼は答えて、コホンと一つ咳払いをした。

「自分は旅の内は、食べ物や寝床において、全く人に頼らなかった。全て野宿して過ごしてきた。食材は自分で集めた。金が無ければどこでも働いて、金が集まればまた旅に出る。これの繰り返しであった。町にはたくさん人がいたが、自分は誰にも頼らなかった。

旅をしてきたと言っても、多く出会いや学びがあったわけでは、決してない。しかし、旅は充実したものであった。自分には一人で生きていけるという強い自信が出来たのだ。これは何物にも代えがたいものである」

こう語る久平は自信に満ち溢れた様子で、やせ細った体が急に大きく見えた。私はそこに学生時代の久平を見た。常に優秀であり人望の厚い彼のことである。誰を頼らず自分の力だけを頼りに旅をしたと豪語されても、私は何ら疑問に思うこともなく、すんなりとその言葉を受け入れた。

「なるほど。何か変わった、面白いことなどはなかったか」

「勿論、あったとも。今でも忘れてはおらぬ。なんせ不気味な出来事であった。

とある夜の事で、自分は道に迷っていた。そこはそれまでの旅の中でもとりわけ不気味な森であった。さらに月は雲に隠れて光もない。いかにも不気味な夜であった。日はとっくに沈んでいたが、ここで野宿するのは些か気が引けたことであった。

私は早足に森を出ることにした。しかし、歩いても、歩いても、一向に森からは出られぬ。自分は恐ろしくなって、随分と悲観的になったものである。自分が触れて揺れた草を恐れるほどであった。

そんな時に、不意に怪しげな光が木々の間から見えたのだ。自分は微かな希望を抱きながら、恐る恐るその光に近づいていった。そこには大きな館があった。随分と豪奢な館であったが、随分と荒れ果てていた。しかし、雨風を凌ぐには十分であった。恐らく人は住んではいなかっただろう。私はここで野宿しようかと考えた。とはいってもやはり、その館はどうも不気味だった。

電灯の明かりなど一つもついていないのに、仄かな明かりがさしているのである。自分はそれが不気味に思えて、遂には野宿するに至らず、違う道を進んで森を出ることにした。

ここから、また不気味な事が起こる。自分は確かに館から遠ざかったはずであるのに、再び目の前に館が現れたのだ。似た様な館がもう一軒あったのかと最初は思ったものだが、この館もまた不気味に光を放っていて、どうにも先ほどの館と同じ様であった。自分はいよいよ恐ろしくなって、何も考えずにひたすらに森を駆け抜けていた。しかし、一向に出口は見つからぬ。私自身も限界が近づき、途中で足をもつらせ、盛大に転んだのだ。そして、気が付けば森を出ていた。その先にあの館は出て来ることはなかった。今思い返しても、実にあっけない結末であった。しかし、自分はこの出来事が不思議でならなかった。

町に下りてから、神社に訪れて神主にこの話をした。神主はいかにも神妙な顔つきをして話を聞いていた。その神主が言う事には『それは家主を失った館が未だに帰らぬ家主を待っているのです。恐ろしい物ではありません。実に良い心を持った家主だったのでしょう』と言っていた」

私はその話を聞くうちに、どんどんと嫌な、悲しい気持ちが心のどこかにしとしとと流れ込んでくるのを感じだ。私は惨めになりそうな心を堪えるほかなく、やや振り絞って声を出した。

「それはまた奇怪な事である」

「いや全く。しかし、恐ろしくもあったが、何分良い話であった。しかし、帰らぬ家主を待ち続けるというのも、何だか哀れに思えてならぬ」

 私の心はどんどんと暗澹たる気持ちになっていった。どうにもその屋敷が私のことに思えてならぬからである。久平はそれを哀れという。そうして、私も哀れになってゆく。私は早くこの話を切り上げたいと思った。

「いやはや、そのような出来事は滅多にない事だろう」

「いや、そうでもない。この旅に於いて、学ぶ事は少ないものだったが、実に奇怪な事の多い旅であった。この話もその一つに過ぎぬ。全てを語ると長くなるぞ」

 彼はもったいぶるようにそう言った。私は、これは堪らんと思った。あのような話を何度も聞いていれば私の心が変に押し潰されてしまう。そこで私は、ふと最後のとっておきを思い出した。彼が自分の後ろに隠した酒瓶のことである。

「まぁ、その話はおいおい。それより、君の裏にあるその酒を飲もう。先ほどから気になってならぬ」

 私は久平の裏に隠されているものを指差した。すると久平は急に厳しい真面目な顔つきになって、暫く黙ってしまった。いったいどうしたのか。静まった空気がひやりと背をなぞった。すんと線香の微かな香りが漂い、やがて久平は重々しく口を開いた。

「一つ君に伝えておきたい事があったのだ。これはその為の酒だ」

 ゆったりと、しかし重々しく彼は酒瓶を台の上に置いた。

「それはどのような事かね」

彼は再び口を重く閉じてしまった。その沈黙は重いものだったが、私は黙って待っていた。彼は唇を震わせながら、ぽつりと言った。

「実は、これから、人を、殺そうと思うのだ」

私は驚いた。しかし、狼狽はしなかった。人を殺そうなど正気の沙汰ではない。私は彼がおかしくなってしまったのかと思った。だが、彼の表情は狂気に満ちているのでもなく、酔っ払っているのでもない。わずかに動揺の気配はあるが、全く感情的ではなく極めて冷静であった。なるほど。いよいよ正気で人を殺そうというのであるのなら、なおさら仰々しい話である。私は落ち着いて尋ねた。

「何故、殺すのか」

「殺したいから、殺すのである。君の妻の亡き今、自分に生きている価値などありはせぬ」

 彼の声は先ほどのものとは打って変わって、実に重々しい雰囲気を纏っていた。

私は彼の彼女への思いの重さをこと時知ったのである。私にとって彼女は大切な妻であったが、妻が亡くなったからといって、自分もすぐに後を追おうなどという考えには全く及ばなかったからである。

「なるほど。では、私にも生きている価値などないのかもしれぬ」

彼は再び潤みだした赤い目尻を拭いながら、

「君の妻はどのように過ごしていたのか」

その言葉は掠れ、震えていた。先ほどまで大きく見えていた彼は、一瞬にしてやせ細った眼鏡の男に戻ってしまった。私は、妻のことを反芻しながらその問いにしみじみと答えた。

「妻は、良く私を支えてくれた。最初はそれが分からぬものであった。しかし、妻が亡くなってから、この人生の空虚さを感じずにいられぬ。美味しくもない酒が美味しく感じる様になってしまった。しかし、今更どうにもならぬ。もう、どうにもならぬ。かといって死ぬ気にもならぬ」

「そうであるか。ならば、この酒は飲めまい」

彼はそう言って、瓶を握ってよろよろと立ちあがった。しかし、彼は確固たる信念を抱いて立ちあがっていた。手に持った酒瓶を低い天井に掲げ、彼は言葉を放った。

「この酒は狂気になるための酒だ。もう自分はこの世に未練がない。しかし、君はまだ未練がある様に見える。ならば、この酒は飲めまい。自分は人を殺して、そして自分も死のう」

「いや、早まるな。私の妻が居らずとも、生きる意味ならあるだろう」

 私は彼を制止しようと立ち上がった。しかし、久平は豹変したようにガラガラとした叫び声をあげた。

「うるさい! お前に何がわかる! 彼女と人生を共にしたお前に何がわかる!」

 私はあまりに驚いて腰から床に倒れてしまった。彼が鋭い目で私を見下ろす。その姿は学生の頃の久平でも、眼鏡の痩せた男でもない。嫉妬に駆られた浅ましい老けた男であった。

「お前は死ぬ覚悟もできておらぬ。軟弱者だ。そんなお前に私の気持ちはわかるまい。わかってなるのか。彼女を失ったお前は何もない、抜け殻のようではないか。それに何の価値があるというのだ。それも理解できぬお前に何故彼女はついていったのだ? わかるまい。私にもわからぬことだ。お前には決してわかるまい」

 久平は私を貶そうと必死で声を荒げているようだった。彼の言葉は私の心を打ち付けたが、私は次第に冷静になった。この男がもはや何を言っているのか、私には全くわからなかったからだ。だから、私は彼の言うとおりだと思ったのだ。私には彼の気持ちなどわかるはずもない。だが、

「そうであっても、なぜ死なねばならぬ」

「わからぬのか。抜け殻に生きる価値がないのだ。自分が生きていても、全く世の為にならぬ。その上、私の心の依り代ももうここにはおらぬ。生きる意味も見いだせぬ。君は生きる意味があるのかは知らぬが、自分にはない。だからお前にはこの酒は飲ませられぬ。お前と共にゆくなど私には耐えられぬ」

彼は叫ぶように言って、速足に玄関から雪の降る外に裸足のまま飛び出していった。私は玄関まで追いかけたが、雪に足跡を残しながら闇に走り去っていく彼の姿を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。雲から顔を出した月は大きく欠けていた。

 私は部屋に戻って再び座布団に腰をおろした。久平の出ていった部屋の中は荒波の収まったような静けさと酒の匂いを残していた。

私は久平が動かした座布団を隣に引き寄せた。妻は必ずと言ってよいほど、私の正面には座らなかった。いつも私の隣に座っていた。座布団を隣に置くだけでも、そこに妻の存在を感じられるような気がした。しかし、実際には妻はもう居らぬ。微かに仏間から香ってくる線香の香りがまた私の目を震わせた。私の心の中に生き続けてはいても、やはり実際には居ないのだ。その事が私をより一層、惨めにした。今更、どうしようもない。だが、どうにかできるなら、どうにかしたいものであった。

 翌朝。町の河川敷の辺りで久平の遺体が発見された。死因は毒であった。遺体の近くには一本の瓶が倒れており、そこから同じ毒が出たようだ。

久平は自殺したのであった。

 久平は誰かを殺して自分も死のうと言っていたが、しかし、もう一つの遺体は一週間経っても一向に見つからぬ。久平は人を殺さずして死んだのであろうか。

 いや、おそらく彼は私を殺すつもりだったのではないか。妻を亡くして生きる価値のない私を殺して、そして彼もまた死ぬつもりであったのではないか。今となっては確認のしようもないことである。

 少しして久平の葬式があった。私も行ったが、来ている人数は少なかった。しかし、皆が口を同じくして「孤高な男であった」と言った。なるほど、久平は孤高な男だったのだ。人に頼らず、自らの力で旅を続け、自らの意思で独り命を絶った。なるほど、見事な孤高の男である。

 対して私はどうであろうか。妻を失い、それでも一人寂しく暮らしている。生きる意味も特にはない。生きる価値も特にはない。しかし、死ぬ意味というのも、やはりないのである。そうやって現世を生きるでもなく死ぬでもなく中途半端に生きている。そして、新しいものというのも真っ当に受け入れられぬ。なるほど、私はあの幽霊屋敷と同様に哀れな存在なのかもしれぬ。帰っても居るはずのない妻の姿を夢に見て現世を彷徨っているのだ。

確かに彼は孤高であったかもしれぬ。だが、私は彼の最期を尊敬することは出来なかった。彼は私の妻である女という過去に固執しすぎていたのではないかと思ったからだ。時は流れ、時代は変わる。それを受け入れず彼はあの時間に居残り続けている。私の妻となった女を依り代にして生きるなど、まさしく彼も亡霊ではないか。

私も彼も妻という過去に固執しているのだろう。だが、彼は過去を失い死んだ。私は過去を失い、だが過去を心の中に飼い続けている。

 葬式が終って、これから家に帰るが、私はまた「ただいま」を言わねばならない。なんとも気が進まない。どこかによって行こうか。そういえば、酒が尽きた。酒を買って帰ろう。私は酒屋によって安い日本酒を二本買って家へ戻った。

「ただいま」

やはり返事はなかった。ただ仄かに線香の香りがするだけである。私は酒を玄関に置いて、部屋に入った。やはり誰も居らぬ。次に台所、風呂場、裏口と一階を万遍なく探すも、やはり誰も居らぬ。二階に上がって寝室を覗いた。しかし、誰も居なかった。落胆はしなかった。しかし、悲しくないわけではなかった。

 私は孤独な男であった。妻を失って孤独な男になったのだ。妻は常に私を孤独から救っていたのだ。常に私の心を支え、常に私の存在を証明してくれていた。私は妻の居る人生を知ってしまったのだ。それが故に私は妻の居らぬ人生が物足りなく感じている。妻の過去を心で飼っても、妻がおらぬことに変わりはない。

その物足りなさを酒で埋め合わせている。なんとも悲しい生き様ではないか。

 なるほど。私は孤独な男であった。抜け殻のような私にもやがて死がやってくる。その時の私は誰にも看取られず、独り寂しく孤独死するのだろうか。それは何とも言えず、惨めな最期であるようだった。だが、久平のような最期も受け入れられぬ。

 玄関の酒瓶を取って部屋の座布団に座り、妻の座布団を引き寄せる。美味くもない酒を酒瓶のまま煽る。あぁ、本当に抜け殻のようだ。こんなことなら、と思う。

こんなことなら、久平が無理矢理にでも私を殺してくれればよかったのだ。

私は独りで不味い酒を飲んだ。

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