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「今日はハンバーグ」 椎名南瓜

  • ritspen
  • 2020年7月30日
  • 読了時間: 4分

 それは突然の出来事だった。平穏な日々を過ごしていた私の日常が突然崩れ去ったのだ。

 どうして? 私が何をしたというの? 清く正しく美しく、品行方正清廉潔白、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は……とにかく、私は今まで悪いことなどせずに生きてきたのだ。それなのにどうして、どうしてこんなことになってしまったのだろう。神様は私になんの罰を与えているの? 自分に満足なんてしていないけど、何をすればいいのかも分からない。私はそんなよくある悩みを持った、思春期の、普通の女子高生なのだ。毎日をそれなりに楽しく過ごしていたいだけの女の子なのだ。こんな、非日常は望んでいない。朝起きるのが辛かったり、授業中に寝て怒られたり、お菓子を食べ過ぎて後悔したり、そんな何でもない日々が今はダイヤモンドよりも価値のあるもののように思えた。

 散らかった部屋の隅っこで動くこともできずに立ち尽くす。もうどれくらいこうしているのだろう。アプリを何度再起動させても送ったメッセージにはいつまでも既読マークがつかない。返事はもう二度とこないのかもしれない。泣きそうになりながら何度も通話マークをタップする。聞こえてくるのは感情の無い女の機械音声と電子音。誰も私の声を聞いてくれない。誰の声も聞こえない。電気はついているのに部屋が暗く感じられる。もう、ダメかも。まともな思考なんてすでに放棄されていて、何も考えられない頭でぼんやりと幼稚園から今に至るまでのことを思い出す。これが走馬灯なのかな。

 社会のテストで漢字間違いをして百点を逃したこと、リコーダーのテストでドの音が上手く出せなかったこと、合唱コンクールの日に風邪をひいて声が出なくて口パクをしていたこと、もっと良いことを思い出してよ、と自分に対して腹が立つ。成功体験より失敗体験の方がよく覚えているのには理由があって、と語るSNS上の自称有識者の記事が頭に浮かんだ。失敗したことを覚えているのは次また同じことがあったときに対応するため、とかそういうことを書いてた気がする。かっこいい名称があった気がするけど全く思い出せない。

「たすけて……」

 呟いた声は震えていて、自分が怯えていることをはっきりと理解させられる。片手に握りしめたスマホの充電とともに私も無くなってしまうのではないか。

 もう晩ご飯のおかずをつまみ食いしません、妹の服を勝手に着ません、部屋の掃除もします、たまにはお皿を洗います。だからどうか私のなんでもない日常を返してください。目を閉じると全て元通りになるのではないか、そんな淡い期待はこれでもかと言うくらいに打ち砕かれる。瞬きしすぎてコンタクトを落としてしまった。

 ――先へ進むしかない。

 視界がぼやけたことで、何故だか少し冷静になった。こんなところでじっとしていても何も変わらない。助けを求めても誰もこない。とっくに分かっていたはずなのに頑なに理解を拒否していた脳が、ついに拒否をすることを諦めた。

「大丈夫、私ならやれる」

 私は、戦う。

 私が今やるべきことは怯えて立ち止まることでも、逃げることでもない。戦うことよ。昔見たアニメの主人公が言っていた。彼女はどんなときでもくじけなかった。彼女にできて私にできないはずがない。今の私は巨大な敵と戦っていた彼女よりも年上なのだから。

「さぁ、戦いの始まりよ」

 私の中のいい声のおじさんが「出てこいや!」と叫ぶ。時刻を知らせる夕焼け小焼けのメロディーが開戦のゴングだ。

「っ……!?」

 意気込んで一歩踏み出したその瞬間に、ぼやける視界の端で影が横切った。さっきまでなんともなかったのに、足が、震える。凍ってしまったみたいにまたその場から動けなくなる。駄目だ、私は〝彼女〟になれない。私は魔法なんて使えないし、変身することもできない。宇宙からやってきた謎の生命体もいない。なんの力もない私はただ助けを待つだけの一般市民だ。さっきは開戦のゴング音に聞こえたメロディーが今は敗戦を告げる玉音放送だ。

 もう何も見たくない、聞きたくない、目を閉じて耳を塞いだ。

――バンッ!

「何してんの」

 塞いだ耳に割り入ってきた破裂音、恐る恐る目を開けるとそこには買い物袋を提げてスリッパを片手に持ったお母さんが立っていた。

「……まじかるあかりん?」

 いつものお母さんが〝彼女〟に見えた。私は戦うことすらできなかったのに……。変身もしない、魔法も使わないのに、こんなにも強い人間がこの世にいるなんて。

「何それ? またこんなに散らかして……」

 お母さんはスリッパをゴミ箱の縁に叩きつけて底にくっついた影を中に落とす。どこにでもあるピンクのスリッパが今は魔法のステッキのように見えた。

「あれ!? それ私のスリッパじゃない!?」

「……まぁいいじゃない履いてないんだから」

「これから履こうと思ってたの!」

「はいはい。今度洗ってあげるから。それより早く片付けなさい」

 ……仕方ない。戦に犠牲は付き物なのだ。

 おかえり、私の日常。もうあんなことが起こりませんように。安心したら空腹がやってきて、腹の虫が出番を待ち構えていたかのように大合唱を始めた。

「ねぇ、今日のご飯なに?」

「今日は――」

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