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「世界の話」 須戸鳴子

  • ritspen
  • 2020年7月30日
  • 読了時間: 2分

「人は1人では生きられない」

 なんて月並みな言葉。この言葉が意味するところは「人は誰かと関わり合いながら生きている」とかそういうことだろう。確かに人は1人では生きられない。肉体的にも、精神的にも。僕も例に漏れず、1人では生きることのできないただのヒトだ。今この瞬間もどこかで誰かが働いているから今の僕の生活が成り立っているのだ。

「1人で生きる」とはなんなのだろうか。自給自足生活をし、人との関わりを断ち、全てのことを自分1人でやり遂げることは、不可能ではないはずだ。現にそういった生活に近しいことをしている人は存在する。1人で生活し、1人で死んでいく、これは1人で生きた、ということになるのだろうか。僕はそう思えない。

 僕は、僕が生きているということを証明することができない。僕が生きていることを証明するのは、僕以外の誰かなのだ。自分の存在は他人に認識されることで証明されるのである。そして、僕が死んだことを証明するのも、他人だ。

 僕の生も死も他人に依存している。誰かが僕の存在を認識しない限り僕は存在しない、生きてもいないし死んでもいない。そんなものになってしまう。

 こんな話をすると哲学だなんだと言う人がいるかもしれないが、これは哲学などではない。ただ、1人で生きることができないことに気付いてしまった僕の話だ。

 僕は自分の生を自分で証明できない。自分が生きているのか死んでいるのか分からない。生きている理由を考えるのが哲学ならば自分が生きていることを証明するのは何学になるのだろう。

 人に頼らずに生きていきたい、なんて思ったこともあるがそんなのは不可能で、生きている限り誰かに頼らなければならない。その相手は別に誰だっていい。重要なのは僕を証明してくれるかどうかだ。でも、その誰かが僕を証明してくれるように僕もその誰かを証明しているはずだ。僕が認識することで、その他人は生きていることを証明できる。僕は他人に依存しているし、他人も僕に依存している。世界はそうして存在している。証明の依存、これがこの世界だ。

 そして今日も僕は人に認識されている。

 僕はこの世界で死ぬために、生きている。

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