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「花といのちとアフターグロウ 春の章」 亜流

  • ritspen
  • 2020年5月1日
  • 読了時間: 35分

花といのちと /

あすのひかりより、まだ見ぬ君へ。

立つ鳥と、還る女神と、舞降りる春と。

一九九五年の春は、夢現の乖離する季節。

/ ――

ガラス窓を透かす目映い日差しを身に浴びる。その光と共に自分から何かが抜け落ちる気がいつもしている。起き抜けに目をこするたび感じるそれが何か、東京に来た日からいままで、ずっと解らない。

布団から這い出て、今年の四月にリリースされた『ロビンソン』を再生した。音楽は爽やかに空気を揺らす。聴き終わるとシャワーを浴びてから、ピンと糊の張った作業着に袖をとおす。朝飯は抜いた。「沢端幸太」と印字されたネームプレートを胸元にピンで留め、鏡で身なりを整えて、僕は四畳半の部屋を出た。カビの臭いが風に乗って流れてきた。腕時計に視線を落とすと、針は午前十時過ぎを指していた。

故郷を去り、東京の高田馬場で始めた下宿生活は二ヶ月を過ぎたところだった。好きだった女の子である小鳥が今年の二月に亡くなり、親友の太一との別れを終えた僕はあの町を出た。それ以降、僕は太一と一切の連絡を取っていない。

彼らとは、幼馴染みだった。だが、今はみんな遠くに離れている。生きている者も、死んでしまった者も……。

三月、降り立った東京の地には、まだ少し寒風が吹いていた。僕は、あの町から離れたかっただけなのだ。それゆえ、自分自身も何をするために東京に来たのかは分からなかったのだと思う。

そのまま、生活だけは続いていった。今はただ繰り返される労働の日々だ。

五月の終わりの空は晴れていた。

事務所には、すでに三人ほどの人間が集まっていた。所長と目が合う。こちらに向かって歩いてくるので、会釈だけした。

「おはようございます」

「おはよう、沢端」

 髭のそり残しが目立つ丸い顔。角刈りにされた頭は日に当たって薄白く見える。目尻を親指でほぐしながら所長は衣服を整えると、精悍な顔つきになり、口を開いた。

「きのう言ってた子、今日だから。沢端よろしくな」

「わかりました。たしか」

「ああ、女だそうだ、それに十八歳。こんな業界、どこがいいんだか、仕事したがる方がめずらしい」

 僕は苦笑した。たしかに、この仕事は危険が伴う。あまりしたがる人はいない。だから給料は余所よりも高い。つまり、そんな仕事を進んでするようなのはロクな奴じゃないと言うことだ。僕も、その女も。そして、ぼくはその女の目付役を頼まれたわけだ。

「いつ頃、来るんですか」

「今日の夜八時、この事務所に直接来る」

「じゃあ、その時間にはここで待機しておきますね」

「そうしてくれ」

 所長は今日の取引先の名簿をぼくに渡すと、そのまま自分のデスクに戻る。途中、タバコをふかしている若い社員を呼びつけ、現場へと向かう準備に取りかからせる。それを見て、僕も自分のデスクに着くなり作業を始めた。

 場所、量、金額が細かに分かれて並ぶ名簿に目を通しながら、今夜やってくるその女はいつまで働き続けるのだろうかと考えた。

 しばらく作業をしてからだった。事務所の外で夥しい数のビルが屹立しているのを、窓から眺めた。灰色の東京だ。コンクリートの塊は整然と並べられ、派手な色彩の広告をあちこちに掲げている。各棟のすき間に人がまばらにいる様子を、僕は想像した。東京の路地を這いずって生きる者の姿を自分と重ねてみる。彼らは湿った風と、ザラつく埃の立ちこめる空気の中を歩いてゆく。しかし、自分はその中に居続けられるのか。そう思うと不安になった。

 仕事に手を戻す。名簿の些末なミスさえ、見逃してはならない。神経を張り詰める作業だ。だから、気を散らしながら出来る仕事ではなかった。あのビル群を眺めてから、どうにもはかどらなかった。作業は停滞していた。

 ふと、タバコの残り香を嗅いだ。この臭いは故郷の路地にもあるかもしれないと思った。それだけで、少し安心できた。

一七時を過ぎていた。空はまだ明るい。

『家路』は東京でも流れた。ここなら、なにか特別な感じがするかと思ったが、どこで聞いても同じとしか思えなかった。籠もった音、だが、薄っぺらい。

いくつかの取引を終え、ちょうど事務所に帰るところだった。

大勢の人間が行き交う歩道を選んだ。目立たないよう、歩く速度を左どなりの人間のそれと同じにする。少ししたら後ろ、つぎは右に。そうして、上から眺めれば反時計回りになるよう、つねにローテーションさせて歩く速度を他人に合わせた。

どこにも居ないということが、理想の姿だった。人に溶け込み、存在はいきれの中に歪んで消えていく。自分が認識されない。他者に重なっていく。すると必然的に歩く速度は合わせる相手によって変わった。僕は、この世界にはいない。

後ろにいる人間に歩調を合わせる際には、特に神経をすり減らした。周りの気配を意識していた。

後ろの人間などとばして、右隣にいる人間に合わせた方が遙かに効率的だった。だが、できない。母が家を出て行ってからだ。後ろに、居るはずのないあの人の視線を、東京に来てから僕はいつも感じているから、僕は後ろの人間に気を遣った。母がいるのか、いないのか、怯えて確かめながら歩いた。

大通りを抜けた。人は少なくなった。

張り巡らされた電線が空から垂れ落ちている。細い線は風に吹かれ撓めき、頭上に黒いラインを刻む。それは曇り空という背景を、ガラスの破片で引き裂いて生まれた痕のように見えた。

空を仰ぐのは、小鳥が亡くなってから始めたことだと思う。

小鳥が亡くなった日、僕は彼女を死ぬまで愛することを誓った。あの日から今日まで、その想いは変わらない。

分厚い雲に阻まれ、今日も太陽はその光の幾分しか地上には注げていなかった。明るさは大気に濾された。少し暗いな、と思った。

「ど、どいて!」

 突然、高い声が前方から飛んできた。そちらに顔を向ける。

 派手な音とともに、眼前にセーラー服を着た女の子が突っ込んできた。視界が暗転した。からだが鈍く痛んだ。その時、自分が押し倒されて地面に尻もちをついたことに気付いた。

「ごめんなさい、自分じゃ上手く止められなくて」

そう謝りながら起き上がる少女の顔を見て、僕は驚いた。

その顔は、亡くなった幼馴染みの、自分の好きな女の子と瓜二つだった。顔のあらゆる部分が小鳥のものとよく似ていた。肩までかかる黒い髪、細くて白い四肢、高い鼻、色素の薄い唇。その何もかもが。

違いといえば、その瞳の色が黒ではなく、濃く乱彩したブルーだったことだけだ。

「大丈夫ですか、立てます?」

「ああ、立てる。大丈夫だ」

 女の子が差し伸べてくる手を取り、僕は立ち上がった。眼前に立つ彼女の背後からは光が溢れていた。雲の切れ間から、日が覗いていたのだ。まぶしいと思った。どうにもならないな、と思わず笑ってしまった。久しぶりに、夕方の強い陽を感じた。

小鳥に似たその女の子は不思議そうに僕を見つめた後、それじゃ、といって走り去っていった。

快活に走るその後ろ姿を見ると、幼い頃を思い出してしまった。まだ元気だった小鳥の、空き地の中を走り抜けるイメージ。それは、太一も僕も、二度と忘れることはできない記憶の断片なのだろう。

僕はもう過ぎたことだと自分に言い聞かせ、残りわずかな事務所への帰路を歩き始めた。

日はとっくに沈んだ。

事務所には、所長と僕のほかに誰もいなかった。

そろそろ、あの女が事務所に来る頃だ。初めてだろうと、この仕事にミスは許されない。どんな奴が来ようと、使えないと判断すれば容赦なく切り捨てる。そう心の中で何度も唱える。

時計の針の進みは、いつもよりも更に遅く感じた。

事務所の入っている三階建てのビルに備えられたセンサーが反応した。モニタを見ると、通路を女が歩いていた。来た。瞬時に身を整え、扉のすぐ側に立った。

「来たのか」所長が新聞から顔を上げた。

「はい」

僕は低い声で答える。

「通せ」

「はい」

扉を開き、外に出た。階段を上ってくる音が近づいてくる。

僕は気を引き締める。遂に階段を上りきった女が姿を現した。

その女と対面した僕は言葉が出なかった。女のほうも、ひどく驚倒していた。

そこに立っていたのは小鳥とよく似た顔の、先ほど会ったばかりの、青い眼をもつ女の子だった。

事務所に通し、所長との挨拶を済ませた女の子は、僕のデスクへと歩いてくる。セーラー服は着替えており、薄いグレーのパーカーを羽織っていた。

「こんばんは、まさか、再会するなんて」

「ああ、ぼくも驚いている。君が今日からこの事務所に入る、朝比奈さんだったとは。それにあの制服、高校生だろう、君……」

 お互い、変な笑い方をしていた。

「朝比奈春香です、よろしくお願いします」

「沢端幸太だ。よろしく」

 そう言った僕は手もとに忍ばせていた缶コーヒーを取り出し、朝比奈に向かって放った。あわてる事なくキャッチした彼女は一言、ありがとうございます、と言った。かなり反射神経がいい。何か運動でもしているのだろうかと思った。

「向こうに行こう」

 デスクを離れ、喫煙ルームに行った。朝比奈は嫌そうな顔をひとつもすることなく、僕の後ろをついてきた。

「タバコは苦手じゃないのか」

「はい。おかあさんがいつも吸ってるから、慣れちゃいました」

 カラ、と金属が割れる乾いた音が鳴る。プルタブを引っ張り上げると、缶の中からコーヒーの香りが飲み口を通ってせり上がり、わずかに鼻を突いた。しかし、部屋に立ち籠めるタバコの臭いに直ぐ掻き消えた。一口すすり、舌の上でころがすと、苦みに伴って焦げた豆の風味が、ゆっくりと溢れだした。朝比奈は苦そうに顔をしかめている。

「ブラックは苦手なのか」

「えへへ、お恥ずかしながら」

 子ども舌なんです。そう言って朝比奈はピンク色の舌を見せてはにかんだ。何も言わずに、僕は今日の取引先についての話を始めた。この休憩を終えたら直ぐに仕事だ。初めてだろうが、この仕事には大きな責任が伴う。だから、失敗は許されない。

 硬く目元を引き絞って、ガラスの向こう側を見ようとした。所長がスポーツ新聞を広げて唸る姿しか、自分の目には映らなかった。

 彼女には必要な情報だけを与えた。余分に伝えると作業の効率は落ちる。それが失敗につながる恐れがあるからだ。一度の失敗は全体に影響することを僕は知っていた。淡々とした口調で説明を続けて、コーヒーの最後の一口を喉に流し込むと僕らは外に出た。

「タバコは吸わないでいいんですか?」

「ああ、最近はあまりな」二人分の缶をゴミ箱に投げ入れる。

「おいしくないんだ」

 朝比奈の躊躇いがちな質問に、僕は答える。 

 休憩室の外の空気は甘く感じられた。感覚が痺れた。

「じゃあ、準備して向かおう。時間厳守だ」

「はい」

 朝比奈の返事を背後で聞いて、所長と最終事項の確認を済ませる。変更点はなかった。いつも通り、するべき事をするだけだ。所長は確認を終えると、すぐに新聞に視線を戻した。どうやら、今週に行われるオークスの予想をしているようだ。

 事務所を出ると、街灯の明るさに少しだけ気後れした。だが、すぐに慣れる。僕たちは現場へと向かった。

現場に着くと、すぐに周りの状況を確認した。場所は相手の住まいから必ず五キロ以上離れていることが条件だった。取引は一瞬で終わることがほとんどだから、移動の時間のほうが遙かに長い。

取引場所に、今回はホテルが指定された。ロビーを通り抜け、褪せた焦茶色をしている革張りのソファに腰を下ろすと、反発はほとんど感じられず沈み込んだ。朝比奈が少し間を空けてとなりに座る。彼女は口を閉じていた。そのまま五分ほど、目に入る人間の行動を僕は観察した。

何度も時計を確認する女がいた。型崩れなくスーツを丁寧に着こなしている。老婦人が青年を伴って歩いている。青年は白い面差しで、その振る舞いからは老婆への過分な気遣いが感じ取れた。カウンターで応対する女は端正な顔を崩さずに、にこりと笑う。

種々の香水が混じり合ったような、人間の発散する気品さを腐らせた空気に僕は息が詰まった。

そのうち、ホテルスタッフであろう男が近づいてきた。その男に導かれるまま、僕らは歩く。エレベーターに乗せられると一六階まで上がり、僕たちはある一室に通された。

「こんばんは、菱田さん」

「こんばんは。待ってたわ」

ベッドの上に腰を掛けている女、客の菱田がそこにいた。純黒のドレススーツで着飾った菱田は、抱え持っていたエルメスのハンドバッグの中身をいそいそと探りながら、目線をこちらに向けた。気を張った化粧は、濃すぎて似合っていない。

僕は上着の内ポケットにしまってある商品に意識を向ける。

「菱田さん、またですか。これで今月に入って三回目ですよ。まあ、こちらとしては収益に変わりないのですが、本当によく保ちますね」

「知ってるでしょ、お金だけは沢山あるのよ」

菱田は封筒を取り出すと、使用済みであろうワイングラスが置かれている机上に、そおっと滑らせる。が、その左手の指先は離れない。グラスの側に『シャトー・ル・パン』と銘打たれたラベルの貼られたボトルがある。徐に菱田はそれを空いている右手で掴み、中の酒をグラスに注いだ。液は重厚感のある赫色。それを、僕に見せつけるように一口含んだ。

「あなたもいかが?」

「お気持ちは嬉しいのですが、勤務中ですので遠慮させて頂きます」

「そう、残念ね」

こちらも商品の薬が、予約された分量で入っているビニールの袋を手に持つ。それから朝比奈に菱田の持つ封筒の中身を確認させる。二人で取引現場に向かうのは、これが主な理由だった。ワインを愉しむ菱田の隣で、朝比奈の確認作業が終わり、封筒がこちらに渡ったところを視認した僕は、菱田の空いた左手にその商品を握らせた。

「お買い求めいただき、ありがとうございます」

「また宜しくね、この薬が私には必要だから」

僕たちは菱田の笑顔に軽く会釈をして部屋を出た。菱田は最後まで右手からグラスを離さなかった。取引は終わった。

ホテルの外は閑静としている。駐めていた車に乗り込んだ。

「はあ、緊張しました」

「お疲れ様、上出来だよ」

「えへへ、ありがとうございます。それにしてもあの人、すごく化粧が濃かったですね」

丁度、帰りしなだった。車内で聞いた、その朝比奈の言葉に、僕は曖昧に頷いた。あの女、菱田の顔を念い出す。薄笑とでも形容すべき、愛想さえ形骸化した横顔をしている菱田の眼は灰色に濁っていた。それを見て、僕は分厚い仮面のような化粧の下に潜む、あの女の素顔を想像した。僕の知らない、九年後の皺の数や肌の乾きをだ。

菱田実世子。再婚者。旧姓、沢端。生家、本田家。

東京で出会ったのは、生まれの姓を捨て、故郷であるあの町で嫁ぎ、そこで夫と共有した姓をも捨てた女。僕の勤めている会社の常連客であり、再婚した男と裕福に暮らす女だ。

二ヶ月あまり、自分は東京で薬物を売っていた。それを高額の金を支払って買うのが、この女だった。

菱田実世子は、僕の母だった。

待ってくれない、時間は。

あの日。二度と戻れない大切な時間。優しさに包まれた場所。

あの時、六歳の僕たちは病室にいた。もう十二年も前のことだ。

「いい子で待っててね」

目尻に深い皺を寄せる、太一の母親の白い顔。

笑って頷いていた幼い太一に、僕は何も言えなかった。となりで小鳥が僕の手をぎゅっと握る。慄えていた。その微かな慄えが自分のものか、小鳥のものか判らなかった。

二人のやりとりを聞きながら、昨夜母に教えてもらったことを思い出していた。太一の母親は、もう……。

「幸ちゃん、小鳥ちゃん」

太一の母親が僕ら二人の名前を呼んだ。そちらをを見る。きれいな人だった。

「太一と仲良くしてあげてね」

太一とその母親が、僕ら二人に笑いかける。その黒い瞳が、白いポロシャツを着た僕の姿をくっきりと映している。太一の母親の手のひらが、彼女のひとり息子の頭をなでる。ほそい指が黒い髪を柔らかく解きほぐすのを見て、僕はあわてて目を逸らした。

「……うん」

それが精一杯の返事だった。誰の顔も見ることができなくて「ありがとう」というあの人の言葉を聞いた途端、僕はその場から急いで逃げだした。後ろで呆然と僕を見つめる小鳥と太一の姿を思った。

僕は家に帰りついて直ぐ母に飛びついた。その胸の内で泣いた。あの時、母も僕の頭を撫でてくれた。その感触を十八歳になった今の自分は憶えていない。

それから間もなくだ。

太一の母親が亡くなったのは、春の終わりの午後だった。

ずいぶんと懐かしい過去だ。母を想い出すことは、僕があの町に残したもの達を同時に想起させる。小鳥や太一との日々を。

小鳥との約束も、太一との約束も、すべては僕の中にあるまま、労働の日々は続いた。

薬物の詳細な情報は所長から聞いた。だが、僕には関係のないことだ。売人である僕は取り付けた注文をひたすらこなす、この東京の薄暗い影に隠れている欲望を抱く者たちのために。散在する欲の形は、最終的には誰もが同じだ。それこそ、母の薬物への執着も、不可視の領域にあった欲望の表出のただの一つに過ぎない。

まるで欲望とは海溝に沈む澱だ。無数に堆積し、その嵩を増す。しかし底は深く、域は果てしなく、延々その空虚を満たさない。それでも永久に、澱は降り積もる。光すら届かない場所で。

この仕事が社会から消えることはきっとないだろう、と僕は思った。

事務所に向かう足取りはいつも変わらなかった。朝の陽はコンクリートの壁に撥ねた。排気ガスの充満している道では、地肌は霞んだように朧気で、その臭いに鼻腔が痛かった。ワイシャツが肌に少しだけ張りつくように感じた。

あらかたの仕事を片付けると、家路につく。ほとんどは事務作業だった。週に一度か二度、売人として取引現場に向かう。薬物の引き出しには所長の認可が必要だった。実質、所長が事務所を取り仕切っているので、権限は僕ら一般の社員には与えられていない。僕の立場は大木に伸びる枝葉と同じだった。人々の欲望を媒介に陽(金銭)をシャブり尽くし、幹である事務所に養分(売上)を運ぶ、そんな一枚の、小さな葉だ。

存在の希薄さは心地よかった。任された仕事を確実に遂行する。それだけが、僕の中に在る欠けてしまった何かを埋める行為に思えた。だから僕は労働を続けた。

「今日もよろしくお願いします、沢端さん」

「ああ、行こうか」

朝比奈は取引のある日のみ、顔を見せた。理由は分からない。所長とのあいだで、働き方について、特別な取り決めでもしたのだろう。

以前、社員が休憩室で隠れて話していた。

「あいつの両親は自分たちの娘が反社会的な仕事をしてること、どう思ってるんだ、止めたりはしないか、ふつう?」

「普通の親であれば、きっとそうするはずだろ」

「ヘッ、それもそうだ」吐き捨てるような口ぶりだった。

ならば、彼女の親は普通ではないのだろうと、偶然にもこの言葉を耳にした時、僕は思った。朝比奈へ関心を向けたのは、これが初めてのことだったかもしれない。

そもそも、僕の親だって、世間から見ると普通ではなかった。子を、父を切り捨てた。そんな僕に、普通であることそれ自体が分かるはずがない。ハナから関係なかった。朝比奈と僕は元から違う存在だ。つまらない事だと、僕はコーヒーを一息に飲み下し、その場を後にした。

現場と事務所を往復する間、車中ではふたりで会話をした。特に話したい事がある訳ではなかった。ただ、朝比奈との会話は、死んでしまった小鳥との時間を想わせた。

「走ることが好きなんだな」

「ええ。走ってるときは、いろいろ全部忘れられるから」

「朝比奈には忘れたいことがあるのか?」

「誰だって、一つや二つはあると思いますよ、忘れたくないことがあるみたいに」

 反対側の車線を疾走する黒塗りのスカイラインのテールランプが、夜路に輝いて見えた。その光に朝比奈の顔が照らされた。闇を湛える整った容貌。小鳥の生き写しのような彼女の言葉にそうかもしれないな、と僕は低い声で応えた。

僕は菱田のことを考えた。あの人はいつも僕を縛った。あの町でも、この東京でも、その片影は脳裏を行き来していた。

もし母が存在した記憶を消してしまえれば、僕は今これほど怯えたりはしなかっただろう。けれど振り払おうとする度、その影は一際に濃く浮かんだ。嘲う女の、過去や現在が交錯した母の顔が。繰り返す閃光の中で。

だから背後に、いつも母を感じていた。ちょうど今、ハイウェイを行くこの車を追走している仲間のシーマのように。

僕らに目をつける者はいないか? いるならば体当たりをしてでも進路妨害する、そのためにシーマはエンジンを稼働させ、後方で常に周囲を警戒している。

それは同時に、僕らのことも監視している。けっして僕らを守るためではない。金を持ち逃げしないか、商品(ヤク)を勝手に使わないか。後ろからはいつも猜疑の視線を感じた。

信頼や信用は、この仕事では飾りだった。事務所にあるのは、金銭への欲望だけだ。

だが、それは絶望すべき事ではない。欲望は生きるために必要だ、誰が言ったのかは忘れた。しかし僕はこの言葉が正しいと思う。実際、客達の欲望がこの商取引を成立させているし、その対象が健康な指向を満たす類か、健康な思考を麻痺させる類かの判断は諸個人の感覚における些細な違いだ。

選ぶのはいつだって、そいつら自身だ。僕じゃない。僕は彼らの忘れたい、逃れたい、そんな欲望に対し、忠実に効果を発揮するクスリを提供することしかできない。ここには忘れたいことが多すぎるから、みんな薬物に手を出すのだろう。結果、客は常にいる。

記憶にこびりつく苦しみから解放された時、その人はこれまでに無く幸せな気分になれるはずだ。たしかに僕も母のことを忘れられたら、そう思ったことは何度もある。その一瞬は、僕もきっと恍惚を味わえるはずだ、と。

以前、このことを所長に相談したら「止めとけ、アレは売っても、打っていいものじゃねえ」とだけ言われたから、試したことはないが。

「本当に忘れられるなら、きっと幸せだろうな」

「はい、とっても」

「だから、僕らの売るコレも、その為に欲しがられてるのかもな」

「でもきっと、それと同じぐらい忘れたくない事も、あるのかもしれないですよ。思い出せなくなる前に、いや、失くしたとしても強制的に思い出すために。だから、そんな風にも、コレは使われるんじゃないですか」

「そうか? 本当に忘れたくなければ、絶対に憶えてるだろ。何があったとしても」

「そう、かもですね。えへへ」朝比奈は笑う。「沢端さんと私、やっぱり似てるな。そう思いません?」

朝比奈は笑って訊く。彼女の表情が火花のような鮮烈さを伴って、僕の胸を抉った。そのために言葉はぼやけて聞こえた。思わず、僕はハンドルを握っていた両手に力を込めた。

……僕が忘れたくないのは、小鳥だ。

ずっと愛すると決めた。彼女への愛を失うことなく生き続け、最後に、僕は死ぬ。小鳥への誓いが、いまの僕を生かしている。

僕は小鳥への想いを失くしたりしない。目の前にいる、小鳥に似た朝比奈という少女を見て、それを強く想った。容姿も、仕草も、小鳥の生き写しのような青い瞳の少女が笑う顔は、強烈に小鳥への愛慕を目覚めさせる。本当に朝比奈と小鳥は似ている。

「そうかもな、……うん、こんなに似ていると思ったのは、初めてかも知れない」

「えへへ、ほらね」朝比奈は得意げに笑う。「沢端さんのこと、わたし信頼してますよ」

「ああ、クスリの仕事は大変だからな。お互いの協力が必須だ」

 僕の返事に朝比奈は僅かに息をこぼし、手のひらをダラリとこちらに向けた。僕は微糖の缶コーヒーを渡す。報酬だと言って。お礼を言ってからプルタブをかち上げ、朝比奈はゆっくりと飲む。微糖は飲めるようになりました。それだけ言うと、窓越しに広がる夜景をジッと見つめた。

 僕は車の運転に集中した。次々と夜を走り去るライトが、ちいさな鳥の群れに見えた。

梅雨入りから少し経った日だった。

雨粒がアスファルトを激しく叩いていた。人はまばらだ。事務所からの帰り道は午前中なのもあって明るかった。どこか現実感の抜けた、浮ついた景色に見えた。僕は歩いている間、自分の靴に染み込んでくる水の冷たさや、ベタついた空気の生ぬるさに苛ついていた。

正常な思考ではなかったのだと思う。雨の雫、一滴一滴がクスリになって、僕の身体を濡らし、ヤク漬けにした感じだったから。観える物ぜんぶが酔ったときみたいに歪んだ。

冷静でいられなかった。

あの時。事務所のすぐ目の前の路を少し先に、ずぶぬれた菱田の、母の姿を確認した僕は、それが当然のことであるように女を介抱しようと動いていた。たとえ無意識下だとしても、あんなにスムーズに自分が動けたのは不思議だった。きっと細胞に埋め込まれている、母と子としての遺伝子が僕を操作したのだ。そうして、湿った母の身体を触った次の瞬間、母がビクンと反応し、こちらを凝視した。

「何をするの?」

「あの、このままでは、風邪をひかれますよ」

「いいわよ、どうにもならないんだから。好きにさせて」

「それでは、困ります」

嘘ではなかった。僕は本気で菱田を心配していた。女をこのまま放っておけば、ヒステリックでも起こして、車道へ飛び出して「殺して」と叫びだしそうな雰囲気だった。仕事柄、こういった人間は多く見てきた。人間は容易く発狂できる。

「とにかく、まずは温かいところへ。それとも、行きたいところはありますか?」

「そう、……うん」

 できるだけ敵意を排し、優しく語りかけた。変に刺激してはならない。相手の望むままに行動するのが、この場での最善策だと自分のいままでの経験が言っていた。

菱田はしばらく逡巡していたが、やがて頷くと僕の手を取って歩き始めた。

「じゃあ、甘えさせてもらおうかしら」

何が僕を突き動かしていたのかは不明だ。ただ、母としてなのか、客としてなのか、もしくはその両方を思って僕は菱田を介抱した。蒸し暑い大気のせいだ。ボトボトと落ちる雨のせいだ。そう考えることにした。

僕は菱田に連れられて数分歩いた。菱田の足取りはフラついていて、緩慢としていた。女が歩くのを、僕は隣で支える。気がつくと瀟洒な外観のホテルの前に辿り着いていた。

この時、入ったら中で何が起きてしまうのか、予測はできていた。倫理観への、小鳥を裏切ることへの恐怖が脊髄を冷たく這った、肺を絞られたように呼吸が細くなった。今すぐ女を振り払い、アスファルトに踏みつけて、そのまま逃走したかった。だが、その選択をとるほどの余裕も、正常な判断力も無かった。ちょうど雨は激しさを増し始めていた。

凍り付いた生理を揺り動かせず、僕は蝋人形のように女に伴われて、館に足を踏み入れた。

嘔いた。

胃の内容物をこれでもかとブチまけた。液は濁って黄色い。きつい酸性の臭いが立つ。

家にどうやって帰ったのか覚えていない。自分の身体のすべてを根こそぎ剥がされた、肉のない、骨と空(から)だけの存在にされた感覚だった。取り返しのつかないことをしてしまった。部屋に独り、うずくまった。

抱き合った後、そこで見た母は雌の貌(かお)をしていた。活気づく嬌艶さを宿した眼をし、上気した肌を白いシーツに擦り付けていた。そのあまりに動物的な姿が、心底、気持ち悪かった。おぞましさに、また嘔いた。

自分に纏わり付く虚無感は、悪寒混じりの震えは一向に止まらない。身に射す残照が冷たい。日暮れの『家路』が掠れて耳に届いた。据え置きの時計の針が止まっている。

電池を入れ替えたら、その時計は動き出した。だが、秒針の刻む音が菱田の呼吸のリズムに重なって聞こえる。吐いて、吸って。規則的に乱れるあの息が甦る。辟易し、僕は電池を時計から取り出した。音は止んだ。

小鳥への罪悪感は、帰宅してから血を噴き出すように僕の内で暴れた。あの時、僕は眼前に降ってきた恐怖に呑まれて、都合のいい責任転嫁や、無視をしたのだ。僕の行動が不許であったのは、自分で建てた誓いを自ら放棄したからだ。小鳥を愛するという、あの言葉さえ嘘にしてしまう自分の弱さに、僕は気付いてしまった。

「あなた、私を見てない、他の誰かをずっと探してる」

 あの薄暗いホテルの部屋の中、菱田は狂喜して僕に覆い被さっていた。自分の性器が母を貫く感触は、真っ黒な闇に白い雫をこぼすように、途方もなく残酷なものに感じられた。

「でも、残念ね。何処にも無いのよ、あなたが見たいものなんて」

「どうして、分かるんですか、そんなこと」

「目の前の私がいるわ」

身体の上で腰を振って嗤う菱田の、淫靡な声が頭の中でいつまでも残響していた。

母が僕を捨てた日、僕は小鳥や太一と一緒に空き地で遊んでいた。あの日のことは、どうしようもなく憶えている。

『家路』の安らかな、それでいて少し切ないメロディーを聴いた。その内、僕は二人と別れて家に帰る。

ばいばい、またねぇ。遠のいていく幼い影は、溌剌とゆれている。

走りながら、土に潜む虫の鳴き声に耳を澄ました。入り日に草葉の影が震えていた。家々から漂うにおい。あの町はいつもと同じだった。

走り疲れた足を一生懸命に動かし、僕は家に帰り着いた。

玄関をくぐり、台所に駆け込む。あの日、僕には何よりも欲しいものが在った。母が夕飯の支度をする後ろ姿。おかえりと、振り向いてくれる瞬間。僕の身体を温かく抱きしめ、髪を撫でる感触。

いつも僕の瞳には、確かにその穏やかな光景が映っていた。耳にその声が心地よかった。母のその実感が、僕を安心させていた。

捨てられた、と気付くまでは。

どうして、母はいなくなったのか、もう一度東京の街で僕の前に現れたのか。

ホテルでのクスリの取引から、母の実感は掴めなかった。だが、ずぶぬれのまま立っていた菱田は、僕の細胞に刻み込まれた記憶の中の姿と重なる、紛れもない母であった。ホテルの清潔な部屋で、裸で向き合う今のこの状況においても、それは変わらない。僕は、自分があの女から生まれた子どもであることを、受け入れたくはなかった。

一糸まとわぬ菱田が、濡らした長い黒髪を放射状に広げて、ベッドに仰向けになっているのを、僕は覆い被さりながらぼんやりと眺めた。雨で崩れていた化粧を、ホテルのルームシャワーでさっぱり落としたその女の顔は、あの頃の見慣れた母のものから二十歳ぐらい老けて見えた。醜いのか熟れているのか、判別できない、だが間違いなく自分の母だと、本能に訴えてくる、そんな女の顔。自分と母のつながりらしい生物的特徴は、もはや全く無いのにだ。僕は衣服を脱いだ状態で、母にのしかかっているこの状況に違和感を覚えた。見つめてくる母の眼の網膜に張りつく自分の姿を、上手にイメージできない。僕が母を東京で初めて見た日も、こんな感覚だったことを憶えている。客として現れた菱田は表情を微塵も変えず一言、誰なのアナタ? と言った。沢端幸太です。名刺を差し出し、僕がそう答えた時、そう、とだけ呟くと代金の入った封筒を取り出して、新人さんね、ねえいいから早くクスリちょうだい、と取引を催促した。喉には舌が冷たく張りついていた。僕は事前に貰っていた顧客のリストから、菱田を自分の母だとすでに知っていた。あの名前を見た時、女の顔を見るまで確信を持たないよう、現実を前に瞼を閉じようと努める自分がいた。ひどく滑稽に思えた。取引の間、その女を見ては去来する、溝川の底の濁った水のような哀憎に発狂しそうになる。それを僕は左手の小指を折れそうなほど捩じ曲げて、そこから沸き立つ痛みを頼りに辛うじて堪えたのだ。

あの時と比べて、光景はずいぶんと様変わりした。いま菱田と僕は裸だし、クスリの取引はない。もう後戻りできない地点まで、僕は来ていた。機械になったように、僕は菱田の身体に手を這わした、くちづけをした。湿った、粉っぽい肌だと思った。胸は均整を保てずに、だらしなく垂れている。あやふやな知識を頼りに、僕はひたすら女を触るしかなかった。執拗に繰り返し、攻撃するかのように菱田の身体をなぞる。指が、唇が、唾液がこの身体全ての母へと向ける行為が、まるで僕にとってはナイフを突き刺すことと同じだった。とにかく滅茶苦茶に振り回して、母から距離を取りたかった。僕は考えた。この際だ、こいつから逃れるんだ、自分の性器で犯して、母という影から訣別しよう、僕は子でなくなり他人(おとこ)になるのだ、菱田実世子と寝た男のうちの一例に過ぎない「他人」に成るのだ、そうしなければ、耐えられない。背筋に根ざす全神経が、自分を強く突き動かすのを感じた。この感覚を僕は憶えている。脅迫観念というやつだ。室内に薄く広がる灯りが、僕を、母を照らしている。薄暮を思わせる空間にいると、胸奥が寂しく、むず痒くなる。僕は女の弛んだお腹を、小皺の多い顔をした菱田の身体を触り、眺めながら、昔聞いたあの町の説話に出てくる、杣人を喰らい惑わす女神にその女の姿を重ねた。深い森に男を誘い込み、出口を無くして閉じ込める。逃げられない杣人を、山の女神は喰らうのだそうだ。男の精気をもとに、山の草木を育て、土地を豊穣にするために。まさに今、母と僕はその山に居た。僕は暗い樹海に置かれている。独り転げ回る杣人を見て、女神は笑っているのだ。そう考えるとさらに苛立った。僕は性器に薄い膜を被せると、遂に意を決し、母を刺した。赤黒い蛭のような女陰に、自分の性器を根元まで押し込んで、がむしゃらに前後に動いた。生温かい。ただただ肉感的な女の身体は、僕を弱く包みこむ。荒く呼吸をしながら母の中で僕の性器は動いている、熱された刀身となって。僕は、汗ばむ肌に嫌悪感を覚えるが、その分泌された水分の中にこれまで僕を縛った母の残像が込められていると考えれば、それはむしろ浄化に変わった。排出されるのは、過去の惨めさだ。いま僕はただひたすら母を内側から抉り取ろうとする男になり、他人になり、徐々に動きを加速させる。達するまで僅かな間だった。下腹部が緊張し、首筋が粟立って微震し、性器は膨張する。突き抜けるような、か細い幾筋かの光が脳に流し込まれようとし、

「あぁ! イライラする!」

 瞬間、菱田は僕を容易く押し倒す。流れるように女は僕を組み伏せ、勝手に腰を動かし始めた。僕が達した後も、女は気にもせず、ひたすら自らの快楽を貪り続ける。半ば放心状態で、そのまま僕は女の下にいた。あなた、ちゃんと動きなさい。母は尻を強く打ちつける。体液と粘液とが混じった熱水で下腹部を濡らす菱田は、訳の解らない、原生林に生息する猛獣の咆哮じみた言葉を口にする。もっと、もっとよ、からだ全体を上下に弾ませて汗を飛ばし、髪を振り乱す。ぼくはもう菱田に為されるがままだった。そうして、僕の上に跨がり散々身体を揺らして、女は身体を赫くする。達することなく、眼球を血走らせ引き攣った笑みをこぼして火照り狂う、人間のかたちを成した女神になり、母は飽きるまで腰を振り続ける。

行為が終わると、母は徐にバッグから自前のクスリを取り出し、ポンプの準備をして打ち始めた。アルミ箔の上に水とクスリを混ぜて、ライターで炙る。沸騰した透明な露を注射に吸わせる。アルコールを含ませた綿布で拭いた肩からのびる白い二の腕を、茶色いゴム紐できつく縛り、細い注射針を静脈に突き刺す。腕にはいくつも注射胼胝が出来ていた。鋭利な先端が肉にすうっと沈み込む。菱田はゆっくりと、丁寧にポンプした。裸体には筋肉の収縮の微動が浮かび上がる。焦点の定まらない目をしている。あ、あっ、うあ、あ……。この世のものとは思えない、ぞっとするほど淫靡な声を腹の奥の方から出して母は痙攣する。ベッドにそのまま倒れ込み、柔らかく沈み落ち脱力する。

僕は呆然として、ただ母の行動を観ていた。へたり込んだ自分の性器は、敗北という無様さを表現していた。僕はどこまでも母の男にはなれない、産み落とされた子で在るという事実と共に。抱かれているときに、母が口走った言葉を思い出す。

 ――あなた、私を見てない、他の誰かをずっと探してる。

 もしかすると、僕はとんでもない思い違いをしていたのかもしれない、この女は初めから僕を見てはいなかった、こいつとは、自分達が母子であるという事実の共有さえ出来ていないのだ。それはまさに、僕の独りよがりではないか。

 ――でも、残念ね。何処にも無いのよ、あなたが見たいものなんて。

 母にとって、初めから僕は他人であり、子どもではなかった。

 ――目の前の私がいるわ。

母は、この東京の街では菱田実世子という人間だ。だが僕にとって、抱かれている間は、目の前の母はただの一人の他人(おんな)であってはならなかった。母と子である現実に苦悩する、他人に成ろうともがく、そんな、矛盾した人間でなければならなかった。

クスリを注入し終わり、恍惚だと、女は僕に笑いかける。生き生きとしたその顔が、本当に気持ち悪くて、僕は思わず叫びそうになった。

子でも、母でもなければ、他者にも成れなければ、目の前にいる菱田と自分に絡みつくこの頑強な柵(しがらみ)は一体何なのだ、と僕は思った。離れがたい、過去の重たい鎖で僕は縛られている。だが、見捨てられた思い出と、その現実は、実の母を前にして限りなく遠のく。

「沢端くん、そこにないものを求めたって、意味は無いのよ」

 菱田は呂律が回っていない。僕も思考や感情がぐちゃぐちゃになっている。

「私には、今しかないのよ。それ以外に、必要なものなんてないわ。そうやって、生きているの」

「じゃあ菱田さん。過去に、意味は無いんですか」

「そこに縋れないってだけなのよ」

僕らが扱う新型薬物の、市場での名称は『ハミングバード』だった。ハミングバードとはハチドリの英名だ。蜜を吸うように金銭を回収し、敏捷に、ホバリングをするように、絶えず市場に広く出回る即効性と依存性の強さが特徴であるとされる。薬物としては覚醒剤の範疇に収まる。興奮作用が非常に強く、その反面、突発的な幻覚や躁状態の継続などの副作用も確認されている。最悪、打った直後からトんで、そのまま戻ってこない。オーバードーズしたり、気が触れたりする奴もいる。僕も何度か見たが、あれは異様なものだ。死魚のような濁った眼差しで、ニヤニヤして、口元はだらしなく涎まみれで、意味の解らない言葉で喚いて、巨きな何かに怯えきっている。

ハミングバードは主にアメリカ国内にて出回っている。東京では横田基地の在駐軍人が横流ししていると聞いたことがある。この薬物は近年、高級層に普及し始めたインターネットを利用して受注を行っているが、その価格は一般的な覚醒剤の二倍ほどに設定してある。しかし、インターネットユーザーのほとんどが高級層に属するため、この価格での販売が可能になった。その利益は普通の覚醒剤に比べ、三倍以上になるらしい。

これほどハミングバードが日本市場に出回ったのも、今年の一月に発生した阪神・淡路大震災におけるインターネットの有用性が周知されたためだろう。結果、アクセスが増加した中、ハミングバードの販売サイトは都民に認知される機会を増やした。

確かこんなことを、所長は言っていた。だが、僕には関係ない。僕は売人のひとりに過ぎないのだ。

ただ、ハミングバードという名称は好きだった。その言葉は、とても小さな鳥を表すから。

ハミングバードは半年で、この東京の街中に、爆発的に広まった。

 降り続く雨は気を滅入らせた。あの日の光景が視界の端にチラつく。ずぶぬれの菱田、弱い僕、人工的なホテル、動物的な肉体、絶頂と虚脱。全ては繰り返す労働の中で黒く塗りつぶされた。思い出さぬように、濃く、強く。しかし、交接の記憶は極彩色のようで、常に僕の意識の視界を鮮やかに染めた。

 事務所での仕事を終えて、この後の取引に向けての準備を朝比奈としていた。朝比奈とはすでに二十回近くクスリの取引でペアを組んだ。

最近、僕は朝比奈について考えることが増えた。よく会話するせいかもしれないが、それだけではない何か、……亡くなった小鳥のこと、を同時に想うからだろう。一瞬ではあるが時々朝比奈と接していて無性に、小鳥が生きていたら、と考えてしまう。

母とのあの一度限りの交接から、二週間が経っていた。あの時、僕は母への恐怖から小鳥を裏切った。罪悪感を覚え、烈しく吐いた後、二度と小鳥以外を愛さないと再び心に決めた。死んでいても関係ない。それだけが僕が生きる意味だと。あの町から東京に出て、太一や小鳥と離れたいまの僕にとって、それが全てだった。

だから朝比奈と小鳥とを重ねると、まるで小鳥が生きているようで、それは罪を犯した僕を慰めた。小鳥への愛慕が日に日に増していくのを感じながら、目の前に立って作業する朝比奈との微妙な違いに、時々戸惑ったりもした。それでも、朝比奈に小鳥を重ねることは、あれから確かに増えた。

「今日も雨です」朝比奈が呟いた。「なかなか止まないですね」

「ここ最近ずっとだ、まあ梅雨だから仕方ないが、余りいい気分ではないな」

「幸太さん、雨、嫌いですか?」

「いい思い出がないだけだ」

僕が不機嫌そうに答えると、朝比奈が私は雨が好きですよ、と言った。窓の向こうに広がる霧霞むビル群を眺め、ブルーの瞳を瞼で覆い細める、それからゆっくりと首を左右に揺らした。彼女は髪を撫でると、手に持っていたファイルと袋を机の上に並べる。僕がそれを受け取る。一グラムにも満たない量の粉が、小分けに梱包されていることを確認する。

朝比奈は何も言わず、次の仕事に移った。

無言で作業を続けていると、自分達がこの世界に二人だけ生き残ってしまった最後の人間みたいに思えた。みんな死に絶えてしまった後の、東京の埃っぽい街に立つ僕ら。そしたらどうしようか、と考えて、僕は無性に死のうとする自分の様子が頭に浮かんだ。高いビルの屋上の端に立ち、足を空に踏み出す。次の瞬間、僕の身体は地面に吸いこまれる。

置き去りにされる朝比奈は、一体どうするのだろう。途方もなく雑多で、無味乾燥としたこの灰色の街で……。

なぜだか僕は、その先を知りたかった。

取引は無事に終わった。事務所からの帰り道は、朝比奈と一緒に路地裏を通った。帰り道が同じだと気付いてから、朝比奈はよく一緒に帰ろう、と僕を誘うようになった。その時僕らは決まって路地裏の狭い道を選んだ。

「仕事にも慣れてきたか?」

「はい、少しずつですけど。もう何回も取引には行ってますから」

「だがな、慣れすぎるのはダメだぞ、この前みたいに危ない奴もいるんだ、目がイってただろ、あいつ。取引には、ああいったキチガイも混じってるからな」

「あれは、怖かったですね」朝比奈は思い出したように言った。「幸太さんが居なかったら、私あのまま襲われてましたし。嫌だったなあ、あれは、ほんと怖かったです」

 たしか十三回目ぐらいだったはずだ。

その取引では、危うく朝比奈がレイプされかけたのだ。客の男は三十代のサラリーマンだったが、どこか陰気さを感じさせる男だった。取引中、しきりに朝比奈の尻を触ろうとしていたそいつはクスリを受け取った後、部屋を出ようとした朝比奈に後ろから抱きついた。必死に捕まえようと、朝比奈の華奢な肩周りと、小さな唇を両手で押さえつけ、部屋に連れ込む。既に上着は剥がされており、下から白いキャミソールが見えていた。気がついた僕は慌てて、男を素手で殴り倒した。男が朝比奈を離した瞬間、横っ腹に目一杯、蹴りを入れる。弛んだ腹の感触が気持ち悪い。直ぐにもう一度立たせ、頬をビンタした。男は泣いていた。しかし僕は続けて四発ぐらい脛にキックした。それから、朝比奈を介抱し、跪いて呻く男を監視してから、救援に来た事務所の人間にそいつを引き渡した。きっとあのサラリーマンは今頃、私刑を受けた原形の解らぬ酷い顔で、東京の街を浮浪者として歩いているのだろう。元の職場からも、社会からも追放されて。

僕はあの時初めて、この事務所がヤクザの組の下部組織であることを知ったのだ。

朝比奈は苦笑しながら、ありがとうございます、と僕に頭を下げた。狭い路地裏では、それだけで朝比奈の後頭部が腕に当たる。柔らかくて、くすぐったい髪だと思った。

「いいよ、かしこまらなくて」

 僕は左右に並ぶ古屋を、歩きながら見た。雨が鬱陶しかった。

「でも、あの時の幸太さん必死で、本当にわたし感謝してるんです。嬉しかったんです、守ってくれて」

「当然だろ」

照れくさいので、僕の声は上ずった。彼女の言葉があまりにも率直だったから、体が変に熱くなるのを感じた。このまま、この話題を続けるのは嫌だった。きっと感謝されることに慣れていないからだろう。それに自分が小鳥に褒められている気がして、罪悪感がムクムクと膨らんでいくからだ。

僕は小鳥を裏切ったのだ。つい先日、あの女、菱田実世子と交わった自分には、小鳥に褒められることが堪らなく辛かった。小鳥の触れられない場所で、隠れてした行為は、もう消せない。知ればきっと幻滅する。そう思うと、とても小鳥に似た彼女からの謝意を聞いていたくはなくなった。

ぬるくなった缶コーヒーを啜る。ブラックの渋みが口内に広がり、少しだけ冷静になれた。そもそも、こんなこと、被害者の朝比奈にとっては、相当ショックだったはず。話すべきじゃないことだ。

「すまない、嫌なこと思い出させた。その……」

「いいんです、気にしないで下さい。よくあることです」

「本当にごめん、えっと、この話はもう終わりにしよう」

「はい、私も、その方がいいです」

 困ったような様子で、朝比奈は一人頷く。

申し訳なくて、僕は話を逸らそうと思った。

変えるのであれば、気落ちしているかもしれない朝比奈を元気づける必要があるだろう、明るい話題がいい。朝比奈の興味を一息で引くような。

僕は急いで、別の会話の糸口を考えた。ふと、それらしいものがあったと、僕は思い出した。

「そういえば、朝比奈。今日、君の誕生日だろ」

「あれ、どうして知ってるんですか?」

「所長から聞いた、十八になるんだってな」僕は矢継ぎ早に口を開いた。「何かプレゼントしてやる」

 僕の言葉に朝比奈は一瞬唖然とした後、え、え、わたしに? え、と声を出し始めた。驚く顔に、僕は言葉をつづける。

「誕生日だからな」

そう言って、僕は朝比奈を見た。

「でも、幸太さん、そんなこと一度も」

「いま思いついたんだ」

ひどく困惑した顔を朝比奈は僕に向ける。いいから考えろ、と言うと彼女はしばらく考えて、それからいままで見せたことのない、小さな笑顔を見せ、僕の衣服の袖を軽く引っ張った。雨の音が弱まった気がした。

いま思いつきました。

えへへと照れ笑いしながら、朝比奈はまるで初めておねだりをする子どものように欲しい「プレゼント」を言った。

「私のこと、春香って呼んでください」

  春の章(完)――夏の章に続く

 
 
 

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