「楽園の壁」 大保江冬麗
- ritspen
- 2020年5月1日
- 読了時間: 7分
私の家がある。正しくは私の家族の家が。二階建ての一軒家。壁は白く、窓はそこかしこにちらほらと取り付けられている。二階の部屋は一階と僅かに歪んでいて、内装は和洋折衷。玄関のドアは黒く、その取っ手は白い。
この家は、まるで僕の心みたいだ。
僕の家の前には、大きな庭がある。庭の真ん中には長寿の金木犀が整然と立っている。端の方には小川が流れている。森の方から流れてくるなだらかな渓流の下流。
小川を泳ぐ魚たち。水底の石ころの色がはっきりと見えるほどに透き通った水。
春には、森で咲いた桜の木から散った薄ピンクの花弁がゆらゆらと流れてくる。
夏には、庭の一面に向日葵が植えられ、満開に咲く。それらを照らす満天の太陽。
秋には、金木犀の香りが風にのる。
冬には、降り積もる雪が一面を白銀の世界に変える。
この庭の手入れはいつも祖母がしていた。腰を屈めて雑草むしりをする。向日葵の種を植える。金木犀の落ち葉を掃く。暖炉のぬくもりを感じながら庭を眺める。
「誰かがやらないと、荒れてしまうからねぇ」
祖母は丸めた腰を叩きながら、しわくちゃの愛嬌のある顔で笑った。
僕は毎年庭を眺めていた。けれど、庭を手入れするのは面倒だと思った。
家の北方には森がある。美しい緑に溢れた森が。庭の脇を流れる川の水は森からやってきている。川を伝って森へ入ると、人が通るためのような、すっとした一本の道がある。それを挟み込むように生えるすらりとした木々。
時折、横に伸びる道がある。その先へ行くと、決まってリンゴやブドウなどの果物の木が植えられている。周りには柵が立てられ、果物の木々を守っている。
春には、動物たちがのそりちらりと動き出す。
夏には、無数とも思える蝉たちの大合唱が木霊する。
秋には、息を合わせたような真っ赤な紅葉。
冬には、ひっそりとした白い風景にさらさらと水の音がする。
この森の手入れはいつも父がしていた。脚立に立ち、木々のはみ出した枝を切っていく。果物が実るように管理する。道が雨で荒れれば砂利で埋めて綺麗にする。
「誰かがやらないと、上手に育たないからな」
父は果物を収穫しながら、軍手をした腕で額の汗を拭いて言った。
僕は毎年森の川で涼んでいた。けれど、森の手入れをするのは面倒だと思った。
家の西方には豊かな田畑がある。きちんと区切られ整備された田畑が。森から流れてきた水の一部はここに引かれて、田んぼを清らかに満たしている。
堂々とした案山子が畑の中心に構えている。ここは森から離れているが、時折獣が姿を見せるらしい。田畑の周りにはやはり柵がはってある。
春には、背の低い苗が田んぼに並び、畑には肥えた苺が実をつける。
夏には、苗が緑に風に靡き、畑には新鮮な実が大きく育つ。
秋には、田が黄金色に光り、畑には熟した実が色を出す。
冬には、田の水面に薄く氷が張り、畑には雪の下でひっそりと栄養を蓄える野菜たち。
この田畑の手入れはいつも祖父がしていた。機械に乗って苗を植え、夏は害虫や雑草を駆除し、収穫期には水を抜く。毎年、畑の土を耕し、土を盛り上げて列を作り、種を植え、獣が入らぬよう柵を作り、炎天下の中一つ一つ実を収穫する。
「誰かがやらな、食べ物が取れなくなっちまうからなぁ」
祖父は機械を動かしながら快活に言った。
僕は毎年ここで取れる米や野菜を食べて生きている。けれど、田畑の手入れをするのは面倒だと思った。
家の南方には大きな湖がある。青空を鏡写しにするような、澄んだ湖が。森から流れてくる水はここに溜まるようになっている。そこには多種多様な水中生物が住んでいる。
その湖に一つだけ、二人ならなんとか乗れそうな木船がある。その船には釣り具の一式がそろえられている。
春には、真っ新な雪解け水がさらさらと流れ込んでくる。
夏には、大きな黒い魚がゆったりと水面を泳いでいく。
秋には、魚たちが沢山の卵を産み、世代を受け継いでいく。
冬には、水面に薄く氷が張り、しんと音を消す。
この湖の手入れはいつも兄がしていた。毎日、船に乗って湖の真ん中に行き、決まった魚を決まった数だけ釣り上げてバケツに入れて帰って来る。
「誰かがやらなきゃ、生態系が狂っちまうからな」
兄は仕方がなしにといった感じに苦笑いしながら言った。
僕は毎年ここで釣れる魚を食べ、ここから取れる水を浄化して飲む。けれど、湖の手入れをするのは面倒だと思った。
家の東方には小さな公園がある。ベンチとシーソーと、ジャングルジムしかない公園が。森の中に作られたように、その空間を囲むような形で、木々が周りに佇んでいる。
春には、雑草が生える。
夏には、雑草が生い茂る。
秋には、枯れ葉が宙を舞う。
冬には、しんしんと雪が積もる。
この公園の手入れはいつも母がしていた。雑草が生えたら取り、生い茂ったら草刈り機で刈り取り、枯れ葉が落ちれば箒で掃き、雪が積もれば雪かきをする。
「誰かがやらないと、錆びれてしまうからね」
母はいつまでも優しい笑顔で言った。
僕はこの公園が大好きだった。けれど、もう使うことはない。シーソーもジャングルジムも独りじゃ十分には遊べない。かつては一緒に遊んだお兄ちゃんは働いていて、僕と公園で過ごす時間はない。それに、僕はもう、公園で遊ぶ年齢でもない。そして、僕らをベンチで見守るお母さんも、必要ない。
僕は孤独だった。
だから、公園の手入れをするのも面倒だと思った。
「何か僕がすることはないか」
僕は父に聞いた。父は全く考える素振りも見せずに言った。
「今、お前がやることは、ここにはない。自分の好きなことをしていなさい」
「わかった」
僕はそう言って頷いた。
僕は再び家から出て、庭と森と田畑と湖と公園を訪れて、あることに気が付いた。この場所は白い壁に囲まれていることに。実際に、壁を伝って歩いてみたりもしたから間違いない。ここは白く高い壁に囲われた場所だった。おそらく僕の家を中心に円形を描いた壁だ。
ある時、公園の近くの壁に、鉄の棒の両端を直角に折り曲げて壁に突き刺したようなものが、梯子のようになっているのを見つけた。私はその梯子を上っていった。上りきると壁の上に立つことができた。そして、壁の外を一望することができた。
一面の、乾き、ひび割れた土地。枯れはてた木がぽつり、ぽつり。土の上には、雑草すら生えていない。一面が土の色に覆われている。流れる水などはどこにもなく、湖も見当たらない。田畑なども作れるような環境ではない。まして、公園などあるはずもない。
そんなところに人々はいた。壁があまりに高くはっきりとは見えない。しかし、その人々は随分と痩せこけ、お粗末な布を腰や胸にだけ巻いているような状態だった。
僕はその日、ずっと壁の上でその土地を見ていた。僕を唯一感動させたのは、初めて見た、山際で真っ赤に光る太陽だけだった。
僕は暗くならない内に、梯子を下り、家に戻った。家には明かりがついていて、家に入ると家族がいつものように出迎えてくれた。そして穏やかな夕食を過ごし、何も思うことはなく寝た。
次の日も僕は壁の上から、壁の外を見ていた。その次の日も、そのまた次の日にも。
外の世界には、何もなかった。そこに人々がいるだけだ。
春には、何も芽吹かない。
夏には、人々がぽつぽつと倒れては、そのまま動かなくなる。
秋には、何も実らない。
冬には、何も動かない。ただ凍える土地があるだけ。
僕は壁の上から、内側を見た。
そこに溢れるのは色鮮やかな緑。
血流のように脈を張る水の流れ。
太陽を反射する清らかな湖。
豊かな土壌。
錆びれることないない遊具。
真っ白い、僕の帰る家。
そこはまさに楽園だった。
管理された生命循環の地。
そうか。楽園だったんだ。僕はそう思った。
僕は父に聞いた。
「僕はこの世界で何をすればいいのか?」
父は笑って言った。
「ここにお前がやることは、ない。何をしたいのかは自分で決めなさい」
「わかった」
僕はそう言って頷いた。
僕は自分の部屋に行った。簡素な机と椅子、そしてベッドが置いてある。僕は清潔に整えられたベッドに寝転がった。
「僕は何をすればいいのだろうか」
僕は独り、そうツブやいた。
「――――」
壁の外の世界は誰も手入れをしていない。土地は荒れ、水はなく、育つ食物もなく、魚の住む場所も、遊ぶ場所も、自分の場所もない。
「誰かがやらないと、か」
僕は淡々とした表情で言った。
僕は外の世界が嫌いじゃない。けれど、壁の外に出るのも面倒だと思った。
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