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「桜想い」 西山直輝

  • ritspen
  • 2020年5月1日
  • 読了時間: 11分

 いくつもの季節が過ぎ、僕は三十歳になった。僕の隣には、珍しくはしゃいでいる美鈴がいる。すっかりめかし込んだ美鈴は五歳の子を持つ母のようには見えない。結婚する前よりも美しくなっていると僕は思う。僕たちの息子は、僕の両親の家に泊まることを楽しみにしているようだったので、今日の夜は遅くなっても構わないだろう。

 まだ時間があるから、と言って美鈴は僕の手を引き、最近見つけたという公園に僕を案内した。春になり日が長くなったせいか、十八時になっても随分と外は明るい。

「ひろ君ママに教えてもらったの。どう、桜綺麗でしょ?」

 公園には砂場の隣に大きな桜の木が植えてあった。桜はちょうど満開を迎え、美しさを全身で誇ってみせていた。遊具で遊ぶ子供が二人と、それを見守る母親がいるだけで、公園内は静かだ。

「うん、とても綺麗だね。騒がしくないし、気に入ったよ」と僕は言った。

「よかった。何回か晴斗を連れて来たことがあるんだけど、大きい子が遊んでいることもないし、晴斗も安心して遊べるみたい」

 美鈴は僕の右腕に腕を絡ませてきた。僕が右腕を少し上げ、腕を絡めやすくすると彼女は「ありがとう」と言ってはにかんだ。桜を見ながら、僕たちは息子のことやら仕事のことやらを話した。日が沈み、辺りが暗くなり始めると、遊んでいた子供たちと母親が公園を後にした。それからしばらくしてスポットライトが点灯し、桜を照らした。

「ライトアップまでするのか。知っていた?」と僕は美鈴に訊ねた。

「見たのは私も初めてだけれど、ひろ君ママがライトアップするって言っていたわ。確か町内会でやっているみたい」

「そうなんだ」

「完全に暗くなったら、もっと綺麗になりそう」と美鈴は言った。

「でも、もう時間だよ」

 僕は左手の腕時計を美鈴に見せた。僕たちは奮発して、この辺りではかなり高級なレストランのディナーを予約していた。

「それじゃあ、ご飯の後にまた桜を見に来ましょう」

「いいね。楽しみだ」

 もう一度桜を見に来る約束をして、僕たちはレストランに向かった。

「かんぱーい!」

 グラスを重ねると、美鈴は美味しそうに白ワインを飲んだ。これほど上機嫌な美鈴を見るのは久しぶりである。今日は僕たちの七度目の結婚記念日だ。ワインがどうしようもなく美味しいわけではなく、今日という日を迎えられたことが彼女を喜ばせているのだろう。もちろん僕にしても今日は素晴らしい日だ。フレンチのマナー本を買い直すくらいには楽しみにしていた。

「家だと落ち着いてお酒を飲むことも少ないから、なんだか新鮮ね」と美鈴が言った。

「生活が晴斗中心になるからね。美鈴は仕事も始めたわけだし、ゆっくり二人でワインを、なんて時間はなかなか取れないかもしれないな」

 美鈴はこの春から、晴斗が幼稚園に行っている時間だけ働き始めた。子育ての合間に働きに出るのは大変だろうと僕は思うのだが、美鈴は六年ぶりに復帰した職場が楽しいらしい。

「私はこうして記念日にあなたと食事に出かけられれば十分満足よ」

「仕事は大変じゃない?」

「大丈夫よ。今、私は物凄く幸せだもの。あなたと晴斗のおかげね」

 そう言って彼女はワイングラスに唇をつけた。

「面と向かって言われると恥ずかしいな」

 僕も美鈴と同じようにワインを飲んだ。

 食事はどれも美味だった。美鈴が喜んでくれたので僕はとても満足だ。デザートはバラのエディブルフラワーを用いた美しいケーキで、美鈴は目を輝かせていた。

「花をそのまま食べるなんて不思議」

 美鈴はフォークの先でバラを軽くつついた。小さなバラは美鈴と出会った頃を僕に思い起こさせる。

「今だから言うけれどさ、君との初めてのデートの時に、デート先をバラ園にしようか迷っていたんだ」と僕は言った。

「結局映画館にしたのよね」

「うん」と僕は頷いた。「それで、デートの次の日に一人でバラ園に行ってみたんだ。バラ園を選んでいたらどうだったのか気になってね。そうしたら驚くほど綺麗に咲いていたもんで、バラ園にしておけば良かったって後悔したよ」

「それって若さよね」

 美鈴はフフッと笑った。

「まあ、結婚してからバラを観に行った時に、美鈴はあまり興味がなさそうだったし、映画館にしておいて良かったと思ったけれどね」と僕は言った。

「確かに、晴斗が花に興味を持ち出すまで、私もあまり花に関心がなかったかもしれない」

「そうなんだ。最近はよく、お花見に行こうって言ってくれるもんね。今日だって桜を観に連れて行ってくれたし」

「年を取ったのかも」

 砕けた調子で美鈴は言った。

 僕はケーキを一口食べた。イチゴのムースの持つほんのりとした酸味がクリームの甘さとよく合っていた。バラは触感を感じるものの、味は特にしなかった。

「それにしても、美鈴がバラとか花に興味がなかったのは意外だったなあ。結婚するまではきっと花が好きなんだろうって思っていたから」

「どうして?」

「女性はみんな、無条件で花が好きだって思っていたんだよ、あの頃の僕は」

「偏見が過ぎるわね」

 彼女の言葉に僕は苦笑した。

「僕は思い出をその時期に咲いていた綺麗な花と一緒に思い出す癖があるんだ。ホウセンカを見ると花火大会を思い出すとか、ヒガンバナを見ると運動会を思い出すとか。君と初めて会った時はちょうどつつじが綺麗な季節だったから、つつじを見るたびに、僕は君と出会った時のことを思い出すんだ。だから、美鈴はつつじが好きに違いないと思っていたし、花も好きなはずだと思い込んでいた」

「花と思い出がリンクしているってことかしら?それでバラを観ると初デートのことを思い出すのね」

「そうだよ。よく分かったね」

「さっき言っていたじゃない」

「そうか」と僕は言った。

「じゃあ、桜を観ると何を思い出すの?」と美鈴は訊ねた。

僕は少し桜を思い、口籠った。

「もしかして私以外の女の人との思い出?」

 本当はそんなことを思っていない、というように美鈴はおどけてみせた。

「まさか。ウエディングドレス姿の君を思い出すよ」

「よろしい」

 美鈴は最後の一口になっていたケーキを満足げに食べた。美鈴とは違う女性のことを思い出してしまった僕は、微笑みかけてくる美鈴から視線をそらした。

 移り気、この言葉ほど彼女のことを上手く言い表す言葉はないだろう。僕には綾花という家の近かった幼馴染がいて、彼女と高校二年生の春から大学の卒業まで付き合っていた。とても花の好きな女の子で、僕は幾度となく綾花に振り回されて花を見に行った。おかげで、僕は花を見るとその当時のことや、綾花のことを思い出した。道端のセンダングサも、一緒に育てたアサガオも、一面を鮮やかに染めたコスモスも、みんな綾花との思い出だった。

「子猫のようなものなの、わたしって」

 綾花はいつか、僕にそう言った。

「同じところにずっと留まることができない。すぐに別のものに興味を惹かれてしまう。そのくせ、構ってほしい時に構ってもらえないのが狂おしいほどに嫌い。ある時はカバのように鈍感なのに、またある時はウサギのように繊細なの」

「確かに」と僕は頷いた。

「その点、花はいいわ。季節ごとに盛り、移ろうのだから。別のものを好きになってしまう前に散ってしまうの。好きであるうちに消えていく。きっとね、物足りないくらいがちょうど良いの」

 綾花は僕の右腕に自分の腕を絡めて甘えてきた。

「でも、それは少し悲しい気がする」と僕は言った。

「どうして?」

「好きなものをずっと好きでいられることの方が幸せだと思うんだ」

「でも、そんなことはできないじゃない。死ぬまで同じものばかりを好きでいるなんて現実的じゃないわ」と綾花が言った。どこか達観して擦れたところのある彼女の瞳を見て、僕は悲しくなった。

「でも、それは僕のことを好きでなくなったら、僕の前からいなくなるってことじゃないか」

「……わたしが?」

綾花は驚いて僕に訊ねた。僕は小さく頷いた。

「そういうことだったのね」と彼女は納得したような表情になった。「安心して、これは花や物の話だから。決してあなたの話ではないの。生まれてからずっと一緒にいるけれど、私は今もあなたの隣にいるじゃない。あなたから離れるなんて想像できないわ」

 綾花は確信を持っているように言った。情けないことに僕は綾花の言葉を固く信じ、安心した。

僕と付き合い始めるまで、綾花は多くの男と付き合っては別れ、付き合っては別れを繰り返していた。彼女の隣を歩く男は、花の移り変わりよりもはやく変わっていった。僕と綾花とでは付き合うことについての考えがまるで違うようだった。綾花は雨を凌げる木の下で雨宿りをしているだけで、雨宿りのための木には思い入れがないのだ。そんな彼女も僕と付き合ってからは目移りしないようになった。だからこそ僕は彼女の言葉を盲目的に信じていた。

 それからいくつかの季節が過ぎ、二十二歳の春に、桜吹雪の舞う中で僕たちは別れた。綾花がどうして僕に別れを告げたのかわからない。喧嘩をしたわけではないし、嫌われるようなことをしたとも思えなかった。僕たちは以前よりもずっと深く互いを分かり合っていたし、深く求め合っているはずだった。

 綾花は桜の木の下で初めから泣いていた。僕たちはその木の下で待ち合わせることを約束していて、僕が着いた時には綾花はすでに僕を待っていた。桜は満開を少し過ぎたところで、風に吹かれるたびに多くの花びらが降り注いでいた。

「どうして泣いているの?」

 僕は彼女を心配して訊ねた。 

「……私たち、もう別れましょう」

 綾花は躊躇いながら、でも確実に僕に別れを切り出した。僕は何を言われたのかすぐには理解できなかった。

「それは、僕たちが付き合うのを止めるということこと?」

 僕はとても間の抜けた質問をした。

「ええ」と綾花は頷いた。

「僕のことが嫌いになったの?」

「ううん」

 彼女は首を横に振った。

「好きな人ができたの?」

「それは、そうなのかもしれない」綾花は煮え切らない返事をした。「不安なの。あなたのことを嫌いになるような気がして、不安なの・・・・・・」

 それから彼女は言葉を失った。僕が何を訊ねても、頷くか首を横に振るだけだった。綾花は自分の思いを僕に伝える術を持たなかった。記憶としてそのときのことを俯瞰できるようになった今なら、彼女の伝えようとしていたことが分かる。それでも、当時の僕は綾花の言葉にいたずらに傷つくだけで、綾花を繋ぎ止めておける言葉を持たなかった。

 綾花は最後に、快活ないつもの姿からは想像できないほど気弱な涙声で、僕に「さよなら」を告げ、桜並木の奥の方へと消えていった。あれから桜を見ると、僕のもとを去っていく綾花の後姿ばかりが思い出される。

 そして今、僕の隣には美鈴がいる。レストランを出た僕たちは、料理のどこが良かったかを話しながら、ゆっくりと歩いた。美鈴は満足しているようだったが、僕は桜吹雪の苦い思い出によって少しばかり陰鬱な気分だった。

 デザートについて話していると、美鈴が急に足を止めた。「どうしたの?」と僕が訊ねると、「見て、あそこに猫がいる」と言って、道路の脇を指さした。彼女の指さすほうに目をやると、片手で抱えられそうな大きさの三毛猫がいた。美鈴が猫に近づいて手を出したが、猫は美鈴を避け、僕の足元にすり寄ってきた。

「あなたに懐いているみたい。どうしてかしら?」と美鈴は言った。

「さあ? 餌をくれると思ったんじゃないかな」

 猫の毛を撫でようと屈んで手を伸ばすと、猫は気が変わったようで、くるりと向きを変え走り出した。猫が走り去っていくと理解した時、僕の体は意識しないままに猫が走っていった方に向かって走り出していた。追いかけようと考えたわけでもないのに走り出したことに僕は驚いた。後ろから「どうしたの⁉」と僕のことを呼ぶ美鈴の声が聞こえたが、僕の体は止まらなかった。

 僕は街灯の照らす暗い夜道を駆けた。途中で何度か猫を見失いかけたが、運よく猫を見つけることができた。あるいは、僕を案内するために猫が見つけられようとしていたのかもしれない。

 先ほど美鈴が連れて行ってくれた公園の桜の木の下に猫は止まった。ライトアップされた満開の桜は美しく、光を受けて輝いているかのようだ。やがて風が吹き、淡く光る花びらが宙を彩った。優雅に舞う桜吹雪は、痛みと共に記憶の断片を僕に思い起こさせた。

「ミャーウ」

 猫の鳴き声にふと我に返った。猫は気まぐれな瞳を僕に向けると、後ろ足を起用に使って毛づくろいをはじめ、それにも飽きると走り出してどこかに消えた。

「ここにいたのね」

 美鈴が僕を見つけ、声をかけた。急に走り出すからびっくりしたじゃない、と文句を言う美鈴に僕は謝る。

「綺麗ね」

 美鈴の言葉に僕は頷く。

「どうして急に走って行っちゃったの? そんなに夜桜が見たかった?」

 彼女は僕をからかうように訊ねた。

「どうしてだろう? 体が勝手に動いていたんだ」と僕は答えた。

「それで、昔のことを思い出していたの?」

 僕は小さく頷いた。

「辛い記憶があるのね」と美鈴は言った。

「どうして辛い記憶だって分かったんだい?」

 驚いて僕は訊ねた。

「悲しそうな顔をしていれば、そりゃあ分かるわよ」と彼女は言い、それから「大丈夫?」と気遣ってくれた。

「うん、もう大丈夫だよ」

「良かった」

 そう言って美鈴は肩を寄せてきた。僕はそっと彼女の肩を抱いた。

「桜って素敵な花よね。満開の桜ももちろん綺麗だけれど、散るときも桜吹雪が舞って素敵だし、散っちゃっても葉桜になるのだもの」

「そんなこと考えたこともなかった。桜が散るのは悲しいだけだと思っていた」

「花びらが散った後に、また新しい命がはじまる。だから私は葉桜が好きなの」

 僕を思いやるような微笑みを彼女は向けてくれる。

「ねえ、明日もここに来ない? 今度は晴斗も連れて」

 美鈴の言葉に僕は頷いた。美鈴は安心したように息を吐き、再び桜に見入った。僕は桜を眺める美鈴の横顔を見て、いつか桜吹雪を見たとき、今日のことを思い出すだろうと思った。

 
 
 

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