「山の神話」 亜流
- ritspen
- 2020年5月1日
- 読了時間: 6分
蒼生海(あおみ)という土地が、この国の何処かにある。
広大な濃蒼色の山野に四方を囲まれた、一際輝く夕陽と幻想的な祭事を一度に見ることができる場所である。一度のみ観たその景色を、私は今も忘れられない。
私はあの夕景をもう一度観たかった。しかし私がこの土地に訪れたのはただの偶然に過ぎず、以降二十年余、ふたたび足を踏み入れることは無かった。
年の暮れには、私は必ずその土地を見つけるために都心を離れ、奥深い山間部の部落を訪ね歩いたものだ。だが、土地の手掛かりは遂に掴めず、私はその場所に行くことをこの度、身体的限界から諦めることにした。
そのような私が唯一耳にした、手掛かりらしき話が一つだけある。何処で聞いたのだろうか、たしか十年前、東京で出会った青年の、ああ、そこまでしか憶えていないようだ……話を戻そう。
そう、蒼生海の話だ。青年の話は蒼生海という土地の、短い昔話のようなものだった。
一人の杣人の、比類なき山への信仰心から、その神話(土地)の歴史は始まった。
◇
緑豊な山のある土地に、若き杣人がいたそうだ。この男は、拝神の想いが強く、その土地を愛し、よく働いたらしい。
彼はいつもこのように言っていたそうだ。
「この土地に生かされている私の身の有り難いことだ。土地神の恩は厚く、あめつちの恵みが万象に宿っていることをいつも感じ取れるので、私は草木がこの先もずっと山に在ることを知っている。つまり私の生業が無くならないのは、すべて土地の神の恵みのおかげだ」と。
人々も、はじめはその信仰心に打たれ、山の草木をとても大切に育ててから、切り採った。また、杣人の信仰心は、日が沈み、また上るたび一層強まった。いつしか、男は山に溶け、緑の光に染まりたいとまで思うようになった。
切り倒された木々にも、神は宿る。そう男はいい、指物のいろいろや軒をつらねる家々の柱にも、彼は神を見いだし始めた。神は色の白い美女の姿をしていると。いつしか村人は杣人の挙動に対して、気でも触れたかと騒ぎ立てるようになっていった。
ある日のことだ、杣人は南方に坐す山に木を伐りに入った。その日は山道も、土地も積雪で銀晒しになった、年の終わりの寒い日であった。木は黒くつるつるとした肌をしており、葉という葉は散りきっていた。吹雪が続いていた。
村人は危険だから止しなさい、と杣人を入山させることをひどく躊躇ったが、頑なに彼は山に入りたがった。男は一時も山から離れたくはなかったのだ。
「常日頃から私の生きる土地の神に心を込めて尊び奉ることを忘れてしまえば、山野の木々も枯れ果ててしまう。遂には新しい芽吹きも訪れず、神もお怒り給えば、私たちは死に絶えてしまうことになるだろう」
制止を振り切り、山で木を採っていると、杣人はふと甘い麝香の匂いを嗅いだ。陽に撥ねた雪の白光りの眩しさに、ふらりとたじろいだ。すると神妙な想いがしてきて、男は急いで下山の支度を済ませた。直ぐさま下山し始めたが、どういう訳か男はいつまでも村にもどることができない。それどころか、知らず知らず山の奥深くに入っているとさえ思いだし、いよいよ慌てるようになった。
「信心は清らに、私の信心は清らだ。ああ山の神よ、私を救い給え」
杣人はそう祈りだす。昼夜を通し山野を転げまわって、出口を求めていた。そして気がつくと彼の目の前には、美しい濃蒼色の礼装を羽織っている、一人の少女が立っていた。ほおずきの破裂するような声で少女は笑っている。不思議に思い、男は「君は誰だい、どうしてここに?」と少女に言った。
少女は何もいわず、男の手を取ると突然走り出した。雪に足跡もつけず、少女はかろやかな足取りで走っていく。男は息を荒く乱し、必死で少女についていった。視界が白くぼやけた、と思うと次の瞬間、少女は妙齢の女へと姿を変えており、男はひどく驚いた。ふくよかな体は、雪よりも白く、見目は端正であり、いままで出会ったどの女よりも美しいと男は思う。いや、これはいつも見ている、この土地に宿る山の女神そのものではないか! と。男は烈しく動揺し、
「あなた様はこの土地の女神でございますか」と女に尋ねた。
「その通りです。
あなたの信仰の深さは、いつも見ていたのでよく分かります。そうでなければ、きっとあなたの前にわたくしが顕れることはなかったでしょう。あなたの呼びかけに応えたのは、そのためです。さあ、早く行きましょう」
透きとおる声で女神はそう言うと、そのまま杣人を引っ張り、蔓や蔦、背高草、木切れの密生した場所に彼を連れ込んだ。寝室だと言って男を押し倒す。杣人は落ち着かず、山の女神がすぐ側に顕れている今の状況に昂揚した。身もだえしながら、男はなすがまま女神からの寵愛を賜ってしまう。そうして、褥をともにした日から、男は幾度も昼夜をまたいだ。
「あなた様の慈愛は果てしないものでございますが、その恵は悔しくも人々には直接分からず、私たちが住んでいるこの土地の木々だけがその真理を知っているのです。私の今生においての拝神の生業は、ひたすらこの山を讃え申し上げるためにしてきたこと、それはこの土地こそが、あなた様の恵を私たちに介していると分かったからでございます」
杣人はそう言った。すると女神は感嘆して、
「あなたがそれ程の理解を示すとは。ええ、わたくしの恩恵は山の草木を育てるのみ。全てはあなたたちの生きる土地を豊穣にするために。だから他には、なにもできないのです。
あなたの拝神を喜ばしく思いますよ、この土地の永き盛りのため、これからもその心を努々忘れぬよう」
「ああ、もちろんでございます。しかし悲しいことに、私が死んでしまえば拝神の業は私で途絶えてしまいます。もしあなた様の慈愛の恵に溶け込むことができれば、私のいのちはこの山の一部になり、私の拝神は永遠になるのでございますが。おお、私はそれを、どれほど望んだことか」
「ならばわたくしと一つになりましょう。さあ」
杣人と女神は床に横になり、それからまた、男は目を閉じた。緑の濃い香りに、湿り気と僅かに差し込んできた陽に、女神のぬくもりを思って。男はもう思考が働いていなかった。男はただ、自らがこの山に溶け込み、一体になったことを感じ、喜んでいた……。
山の女神は、静かにほくそ笑む。木々はさらに生え、森は豊かになった。
以降その若き杣人は、村には帰ってこなかった。村人は男が山の神に魅せられ、とうとう喰われたのだと、恐ろしくなった。村人たちはこの土地に佇む大海の如き山野に深く敬意と畏れを抱き、その土地を「蒼生海」と名づけ、山の神を崇拝することにした。
二度と山に喰われぬように、山は、神は、人を超越した、畏敬のものとなった。
それから村人は、年の末近くにおいては入山することを固く禁じ、年々、いっそう土地の神を崇め奉るようになったそうである。また、山の神を礼讃するために、入山できぬ期間に村人は小姫巫女に舞を奉じさせ、村を挙げて祭り申し上げるようになった。
これが、蒼生海にて行われている秘祭につながったそうだ。
◇
私はこの話を聞いてから、さらに蒼生海という土地を探した。蒼生海という不思議な土地への渇望は増した。だが、やはり二度と訪れることは叶わなかった。二十年ほども前に、年の末に山林で遭難した自分が、偶然辿り着き目撃した、あの蒼生海の秘祭は結局なんだったのか。今では幻であった、とも思うようになった。どこにもそれ以外の手掛かりがないのだから。
あの青年の聞かせてくれた昔話は果たして真実だったのだろうか、それさえも、もう解らない。
唯一分かるのは彼の名前ぐらいである。
沢端幸太という名前のその青年にも、私は再び会うことはなかったが……。
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