「 章魚蘭“アングレカム”」 島 綿秋
- ritspen
- 2020年5月1日
- 読了時間: 8分
河鹿“かじか”は、ずっと山奥に住んでいます。いつも錆びた緑色の着物を纏って、岩の上で川の流れを見ながらボンヤリ歌っています。
たまに通りかかる旅人なんかが、河鹿の歌に嘆息してお金を置いていきます。そのお金を貯めて町に砂糖やら醤油やら買うのですが、道中もずっと河鹿は歌っている、といった調子です。
歌の素晴らしさは、人々が作った和歌や小説を読むと明らかなのです。ですから、河鹿が町にやってくるとその噂が
「山の歌娘が来たぞ」
「紙は用意したか」
「あれで、もっと鮮やかな物を着ていたらなあ」
と、細波のように町中に広がりました。
今日も、河鹿は例の如くお金を貯めて町に下りていました。秋の吟行をしている旅人が歌を聴いてお金をたくさん置いていってくれたので、懐はほかほかしています。
しかし、町の様子がいつもと違います。
そよそよと穏やかな町なのに、今日はざわざわと騒がしいのです。とりあえず、河鹿は用のある塩屋の店主に聞いてみることにしました。
「お塩屋さん、こんにちは。ねぇ、どうしてこんなに騒がしいの?」
「あ、歌っ子じゃねぇか。いらっしゃい、いつものやつでええな。……旅芸人の団が町に来たんだけどな、子飼いにしてる踊り子が逃げたらしいんだ。ま、獰猛ってわけじゃないらしいから『襲われるー』なんてことはないらしいけどよ」
河鹿は、教えてもらったお礼を言ってお店を出ました。胸には麻袋に入れてもらった塩をしっかり抱えています。
「ご本を買って帰ろうかしら」
首から下げているがま財府には、一冊なら買えるくらいのお金が入っています。町が騒いでいたって、本は買えるでしょう。本が好きな河鹿は、上機嫌で歌いながら本屋に向かって歩き出しました。
そんな河鹿の前に、知らない男が一人立ちはだかりました。
「お姉さん、綺麗な声をしていますねえ。ね、ね、是非、私どもの団に加わりませんか」
枯草色の艶々した着物をまとった男は、にやにや笑いで河鹿に言い寄ります。避けて歩こうとしたって、通せんぼをするのでなかなか避けられません。
「お姉さんが戸惑う気持ちも解りますよ、ええ。なんたって、初対面ですからね。あっ、申し遅れました。ワタクシ、カツユと申します。今、この町に立ち寄っている旅芸人の一人です。」
「旅芸人って……この騒ぎの」
「騒ぎについては本当に申し訳なく……。ウチの花房“はなふさ”がご迷惑を」
花房。なんて可愛らしい名前でしょう。
河鹿は「花房」を一目見てみたくなりました。きっと女の子に違いない、と思ったのです。
「……い、おーい、お姉さん。大丈夫ですか?」
カツユが手をひらひら振っています。
「あっ、すみません。花房さんが気になってしまって。……旅芸人の件は、また後日お伺いしますね。では、また」
「うーん、それではまた。是非お越しくださいね。それと、もしも花房を見たらご連絡お願いします。紅い着物で、口がきけません」
そう言い残して、カツユはすたすた歩いて行きました。
なんとなく本を買う気の失せてしまった河鹿は、山奥に帰ることにしました。
町外れの路地に、歌が消えて往きます。
山奥は今日も涼しくて、紅葉が川に落ちて錦のような色を作っています。穴ぐらの家に塩と財布を置いて、河鹿はいつもの岩に座りました。
目の前を静かに流れる錦の川をボンヤリ眺めながら歌っていると、もう夕方も終る時間になってしまいました。木々の間から夜の帳が見えました。もうすぐ月も顔を覗かせるでしょう。
俄かに、川の中で何かが動きました。
河鹿は無性に怖くなって、歌うのをやめました。陽は完全に落ちてしまって、月が我が物顔で光っています。
川の中で揺れていたなにかが、水飛沫を一切立てずに立ち上がりました。
貼り付いてしまった紅葉よりもずっと紅い着物、艶やかな頬。ぱっちりと開かれた眼が、微かな光を透明に反射していました。
「あなた、花房?」
「……」
頷く花房に、河鹿は目を輝かせました。こんなにも綺麗だなんて。自分よりも小さい影が気になって仕方がありません。
「あの、花房は、女の子……?」
ふるふると首を振る様子に驚いてしまいました。
「ああ。あなた、男の子だったのね。ごめんなさい。どうして、こんな山奥に来てしまったのかしら?」
河鹿の言葉を聞くや否や、花房の肩が跳ねました。目を見開いて、後ずさりしています。
この子を離したくない。
いつもボンヤリの河鹿の頭に、そんな考えが弾けました。
「花房、旅芸人の人たちに追われているのでしょう? 大丈夫、私が守ってあげる。カツユさんが来たって、塩を撒くから。ね、ほら、大丈夫」
岩から身を乗り出して訴えると、花房は水面の紅葉を掻き分けて河鹿の元までやってきました。水音だけがあたりに溢れます。
「……」
河鹿は、くるくるとした大きな瞳に自分自身が映っているのを気に入りました。自分の瞳を覗き込まれるのが不思議になったのでしょう。花房は、河鹿の頬を白い手で包み込みました。
頬にぴっちりと伝わる冷たさに驚いて、河鹿は岩から転げてしまいました。
水泡が視界いっぱいに広がったのも束の間、紅い腕に引き上げられました。
「ああ、花房。ありがとうね」
花房の瞳が、申し訳なさそうに揺れています。
「大丈夫だよ。川は慣れているから」
その言葉に安心したのか、花房は河鹿の腰に抱きつきました。自分の胸くらいの高さにある頭を優しく撫でていると、何かぞくぞくとした気持ちが河鹿の心を満たしていきます。
……なにかしら。
よくないものだ。そんな気がしますが、どうすることもできません。
とりあえず、知らないふりをすることにしました。
「さあ花房、私の家においで。多分、食べるものはそう変わらないはずだから困らないと思うわ」
先に上がった河鹿が手を曳いてやります。音もなく水から上がった花房の着物の長い裾が、小石やら岩やらに当たって鈍い音を立てます。長い尾を引くそれが、河鹿にはとても美しく思えてなりません。
しゃがみこんで花房のまんまるの瞳にしっかりと目を合わせて、口を開きました。
「花房、私の名前はね、河鹿。よろしくね」
それから数日は静かなもので、河鹿は歌うか本を読むかの二つくらいしかしていませんでした。花房も似たようなもので、川に体を浮かべてひねもすボンヤリと河鹿の歌を聴いているだけです。
二人とも、いつか消えるかもしれない「なんとなくの幸せ」を噛みしめて暮らしていました。
ところが、山奥で歌う河鹿と揺蕩いつつそれを聞く花房の様子が、人づてに広まっていきました。
楽屋でそれを聞いたカツユは、夜にもかかわらず大急ぎで単身、河鹿の住処へ向かいました。
「花房、花房、あの愚図。喋ることすらできないお前を捨てなかった、私の恩を忘れたのか。阿呆め」
呪いの言葉を吐き続けるカツユを見て、山の民は一目散に逃げていきました。
「あいつは、毒を持っているぞ」
「怖い、怖い、融かされてしまう」
「河鹿のところに行くのか、ああ可哀そうに」
するすると避ける民の間を、カツユはずんずん進みます。
ほどなくして、歌声が聞こえてきました。「清流の歌姫」と謳われる、河鹿の歌声です。
「よし、しめた。河鹿も捕まえて帰ろう。タダ働きさせてやる」
茂みを掻き分けると、河鹿の姿が見えました。カツユは口端を吊り上げて、襟をピンと伸ばして気合を入れました。
「やあやあごきげんよう。お久し振りです、河鹿さん。あのあとウチに来て下さらなかったばかりか、脱走者の花房まで匿って。どうしてくれるんでしょうね」
花房がびくっと跳ねて、素早く川原に上がりました。
「どうしましょうね」
懐に潜り込む花房を抱きしめて、岩に腰かけたまま河鹿は笑います。
「ねぇ、カツユさん。どうして、花房の背中に酷い傷があるのかしら」
カツユは、気まずそうに目を伏せます。
「そ……れは、花房が謝らないからです。ただ綺麗なだけで、何ひとつ満足にできやしない。それに」
「それに?」
花房の目から、ほたほたと涙が溢れます。
「私は花房を愛しています。そう、その傷は私の愛なのです」
「……愛、ねえ」
表情の抜けた顔で、河鹿はカツユに向かって塩を撒きました。
「うわあ、この……女、なにしやがるっ! やめろっ、うう……っ」
頭から少しずつ、ゆっくりと融けるカツユを、河鹿は無感情に眺めます。とろとろと形を失ったカツユは「あっ」と一言残して、崩れて川に流されてしまいました。
念のために持っていた塩だけで事足りた。懐刀を使うまでもなかった、と河鹿は安心顔です。
「花房、片付いたよ。ね、泣かないで頂戴。大丈夫」
宥めても、花房の丸い目から零れる涙は止まりません。小さな頭を撫でながら、河鹿は考えました。
愛って、なにかしら。私の愛って?
「花房、愛、欲しい?」
驚いて顔を上げた花房の目には、欠けた月が映っています。訳が分からないまま、なんとなく、花房は頷きました。
「そう」
一言呟いて、河鹿は、花房の首を斬りました。
ぱたたっ、と血が石に散ります。河鹿は、川原に横たえた小さな屍骸をじっくり見つめました。
僅かな月明かりに照らされた、首を斬ったにもかかわらず出血の少ない屍骸。着物よりもずっと濃い赤色が襟元を染めています。死んでしまってもなお開いている目は、じき濁ってしまうでしょう。河鹿には、それが残念でなりません。
「早く食べてあげる……私は多分、花房を食べられるようにできている種族だわ。ね、私達、これでずっと、いつまでも一緒よ。これが、私の愛」
小さな花房の体でも、河鹿は一口では食べられないので、切り分けることにしました。
柔らかい肉を、骨を切り分ける感覚に、河鹿はぞくぞくしました。今度は、知らないふりをしなくてもよいのです。自然と笑みが零れました。
花房の体は、河鹿にとって美味しくて堪りません。少し水っぽい味、飲み込むと、藻の匂いが薄らと鼻を抜けていきます。
夜が終わる頃には、花房の体は消えていました。お腹をさすりながらうっそりと微笑む河鹿だけ、そこに居ます。
いつもの岩に腰掛けて川を見下ろしていると、朝日が次第に山奥を照らし始めました。
「なんだか、お日様って眩しいのね、花房」
ぽちゃん
花房と違って、周防色の河鹿は紅葉ばかりの川には馴染めません。
「まぁ、いいわ」
気にせず、水面に出ている口を開きました。
歌が零れます。
今日も、河鹿は山奥でボンヤリ歌っています。
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