「鏡面」 一遼次郎
- ritspen
- 2020年12月30日
- 読了時間: 14分
「鏡面」
一 遼次郎
この世浮世や幾年か
行きたや見たし白鷺に
烏屈みて飛び込まん
烏屈みて飛び込まん
この世憂世や生き地獄
行きたや見たし白鷺の
烏自ら飛び込まん
烏自ら飛び込まん
一
青と白のカラーリングの列車が、屋根のないプラットフォームに滑り込む。
東京から特急で三時間と、途中鈍行列車に乗り換えて二時間。
やれやれ。半日潰れたな。
くあ、と欠伸と伸びを一つ。
目的地に着いたようだ。降りねば。
と、その前に。
豊はその右肩に寄りかかり、寝息を立てている女性を起こすことにした。
黒いロングヘアーが肌に当たっている。
暖かさとくすぐったさに幸せを感じながら、声をかける。
「お疲れ様。着いたよ」
改札を通り、寂れた駅前商店街を二人、歩く。
寒い。
二〇〇〇年十月。
空は薄曇り。
それに内陸で、標高も高い土地だ。
摂氏十度を下回る日も増えてくる、そんな時期である。
「烏城」の城下町として栄えた烏野。江戸時代以来の街並みが残る。
彼らは、大学の研究のために大木市烏野町を訪れていた。
を実地調査すべく、辿り着いたのだ。
「じゃあまずは、お城の北側から見ていこうか」
広丘豊は口を開く。
「北側には確か、湖があったよね」
答える女性――村井彩佳はメモ帳を広げながら聞き返した。
「神社がある。『烏野神社』だね。ここから…割と近いな。」
「あ。ねえ、横!」
豊は彩佳が指さす先を見た。
黒漆喰の壁が聳え立っている。
「これが『烏城』だね」
豊は地図をのぞき込み、確認した。
神社までは、徒歩十五分といったところだろうか。
城の堀端は、楡の並木道路が続いている。
楡の独特な香りが、二人を取り巻く。
烏野神社へ近づくと、目の前には朱の大きな鳥居が現れた。
その奥には、鬱蒼とした杉林を縫うように石段が上へ続いているのが見えた。
それもかなり高いところまで続いているらしい。
中段から上は見えなかった。
周りに社務所などの建物はない。
皆、上にあるのだろう。
かわりに、古めかしい高札のようなものが掲げられている。
『例大祭 十月十七日』
ふと、足音がした。
鳥居の向こうに、白い衣装を着た男性がいた。
神主装束――ということは、この神社の神主だろう。
彼はこちらを見据えている。
一瞬訪れた沈黙を破ったのは、彼だった。
「あなたたちは、この土地以外から来たのかね?」
問うてきた。
――何だろう。この違和感。
神主と目が合う。
その目は、どこか憂いを帯びたような茶色で。
その顔は、どこか薄気味悪かった。
ええ、と答えようとしたその時。
すっ、と。
隣にいた人影が急に動いた。
彩佳だった。
神社の境内へと歩き始めていた。
急に落ち着きを無くしたかのように、彼女は既に鳥居の中へ一歩踏み込んでいる。
咄嗟に彩佳の手をつかみ、こちらに引き戻した。
一瞬びっくりしたような顔をした彩佳だったが、素直に豊に従った。
お互い、無言で神社を後にする。
神主は何も言わず、こちらを見ているだけだった。
なぜ、何の前触れもなく彩佳は境内に入ろうとしたのか。
あまりに唐突すぎた彩佳のその行為。
まるで、何かに突き動かされたかのようだった。
もう一度、鳥居へと目を向ける。
そこにはもう、誰も居なかった。
二
豊は一人露天風呂に来ていた。
沈む夕日を眺めながらの風呂、というのも乙だ。
彩佳は部屋に残ると言っていた。
先刻、旅館にチェックインし夕飯を済ませたところである。
何かと疲れたのだろう。
湯船に浸かる。秋風が肩を撫でる。少し肌寒い。
―――ふと。何か聞こえた気がした。
笛? 太鼓の音もしているか?
風がこちら向きになったらしく、鮮明に聞こえた。
合点がいった。神楽だ。
風の方角を考えてその発生源は・・・。
「例の、『烏野神社』の方か」
しばらく、その調べを拝聴する。
不安定な曲調。なにやら祝詞もあげているらしい。
どうも、気持ちが悪い。
露天風呂も名残惜しいが、薄気味悪さが勝った。
「早めに、風呂を切り上げるか。」
波打つ水面に、弦月が揺れる。
ペタペタとスリッパを鳴らし、板の廊下を部屋へと向かう。
他に客の気配はない。当然、風呂も貸し切り状態だった。
大型連休ではないが、土日だ。もう少しいてもよかろうに。
部屋の前に着く。鍵を取り出して、鍵穴にねじ込んだ。
ノブを捻る。が、開かない。
ありゃ、彩佳のやつ閉め忘れているな。
もう一度鍵を入れ、ドアを開ける。
・・・居ない。
大方、コンビニへでも行ったか。
晩飯は風呂の前に宿のものを食べたが、足りなかったか。
しばらく待っていれば帰ってくるだろう。
―――にしても、眠いな。
風呂から上がってから、やけに眠いのだ。
頭が正常に働かない。
布団が敷いてあった。
寝ろということらしい。
横たわろうとした、そのとき。
体が急に動かなくなった。
それがカナシバリということに気付いたときには、豊の意識は飛んでいた。
三
すべて、ハタケもイエもオしナガされていた。
あとサンネンは、ろくにサクモツもソダつまい。
なんで、こんなメにアわなければならない。
またウられる。
コどもが。ムスメが。
またキえた。ヒトが。
また・・・シんだ。
ジンジャが、タてられるそうな。
おしろのキタに。
マツりだ。
ダレがヒトバシラになるかで、モめているそうだ。
ソトからのタビビトにキまったと。
みにいこう。
ニエのギは、みものだ。
四
気付けば朝だった。
酷い夢を見た。
あれは一体、何だったのだろう。
無数の人の声。
それも怨嗟、憎しみといった言葉が合うものだった気がする。
それと、水音?
ともかく、起きねばならない。
周りを見渡す。
日が差し込む部屋には、豊しかいなかった。
隣に布団はなく。
彩佳は、そのまま帰らなかったらしい。
ホテルのフロントで、彩佳について訊いた。
しかし、昨夜の客の出入りはなかったという。
会計を済ませよう、とチェックイン表を見る。
―――そこに書いてあったのは、豊の名前だけだった。
変だ。一緒に記載したはずなのに。
請求額も、一人分だけだった。
これはおかしい、と詰め寄ったが埒が明かなかった。
仕方なく、一人分のチェックアウトを済ませた。
その足で付近の交番へ向かう。
無論、彼女の失踪についての相談だ。
しかし、まだ一日も経っていない失踪など失踪のうちに入らない、と門前払いだった。
行方不明届を出そうにも、所詮赤の他人の豊にその権限はない。
一旦連絡を取ってみて、ダメなら家に帰ったらどうか、とも言われた。
警察のまったく相手にしない態度が癪だった。
しかし、今はどうしようもない。
素直に下宿へ戻ることにした。
途中、駅の公衆電話で、彩佳の下宿へ電話をかける。
無機質なコール音が、延々と流れるだけだった。
七
青天霹靂。
「―――村井彩佳?うちに、そんな学生はいないはずだが」
翌日、研究室へと赴いた豊は、教授に事の仔細を報告していた。
混乱しながら言葉を紡ぐ豊に、教授はそう言い放った。
立ち眩みをしたような、しなかったような。
どうやって話を繕って研究室を出たのか。
それすらももはや、覚えていなかった。
彩佳が、いない。
存在自体が消えたのだ。忽然と、自分の目の前から。
そんなことがあるのだろうか。
夢か。そうかこれは夢だ。
先日の悪夢を喰い損ねた獏が、どうもこっちの悪夢もまた取りこぼしたらしい。
しかし、今回の悪夢もまた強烈だな。
カロリーが高すぎて、ダイエット中の獏も嫌って喰わんといったところか。
ふらふらとした足取りで、豊は図書館へ向かう。
何ということはない。
夢の中の図書館にも、ちゃんと本はあるのか。
夢から覚める前に見てやろうと思っただけだった。
そんな曖昧な思考が舵を取り、豊の行く先を決定したのである。
図書館にはすぐ着いた。
「おかしい」
やっぱり。
「おかしい」
もう一度、独りごちる。
ちゃんと財布の中に学生証と、図書館の入館証が入っている。
曜日もしっかりと合致している。
烏野から帰ってきて、きっかり一日。
学生や職員とすれ違うたびに、冷たい風を感じる。
どうにもこうにも、夢ではないらしい。
儚い現実逃避は終わりを告げたようだ。
しょうがない。帰ろうか、とも思った。
が、一つの疑念が去来する。
彩佳の失踪前、嫌な感じのしたあの烏野神社。
その鳥居の前で見かけた、「例大祭」についてだ。
ついでに烏野地方の伝統行事について調べることにした。
八
「時は徳川の世と伝わる。
ある年の烏野は酷い凶作であった。
冷夏が続き、また城下を流れる烏川の氾濫も相まったのである。
殊にその氾濫は酷いもので、田畑は家々とともに悉く流され、また作物も同様であった。
路頭に迷う者。娘を身売りする、若しくは子どもを手にかける親。
生活が立ち行かなくなり村を去る者。
そして、それら努力も実らず、餓死する者。
――烏城下は、阿鼻叫喚の生き地獄と化した。
人々は、それを『水神様』の怒りだと考えた。
もとより烏野地方の伝承に、城の北側にある「鏡湖」の水面の向こう側には
神の住まう世である『白鷺野』がある、というものがあった。
その白鷺野のヌシが、この世との境界たる水面を司る水神様なのである。
しかしそれまで、明確に水神様を祀る神社は無かった。
そこで、烏城の北隣に広がる湖の畔に『烏野神社』を建立し、水神様を祀ることとした。
神社では十年に一回、例大祭を執り行った。
その目的の一つとして一連の凶作、並びに水害犠牲者の供養。
二つに、城下の再興と発展。
そして例大祭後、水神様に『供物』を捧げる『ニエの儀』が存在したらしい。
例大祭は現代まで、実に三百年もの長きに渡り存続している。」
これが、豊が古文書まで漁り調べた大まかな内容だった。
「供物」についての言及はあまりなかった。
というよりも、その内容については忌避されているようにすら感じた。
中世日本におけるこの手の「供物」には、少なからず「人柱」つまり「生贄」も絡む。
余りにも突飛な思考に、豊は自身を疑った。
確証はない。
が、すべての不可解な出来事は、この「例大祭」と関係があるような気がしたのである。
また烏野へ旅立つことに決めた。
今度は、十月十七日。
「烏野神社例大祭」当日である。
九
それは、「祭り」と呼ぶにはあまりにも小さすぎた。
屋台など出ていようはずもない。
なにせ寂れた一地方の、一神社の祭りである。
それも納得だ。
例の鳥居の前まで、例の如くほとんど誰ともすれ違わずに来ることができた。
「例大祭」の上り旗は寒空の下、何処か寂しげに靡いている。
時刻は午後四時半を少し回った頃。
西の空に、オレンジの大輪が傾いていた。
意を決し、豊は鳥居をくぐる。
あの高札も立っていた。
―――と。階段の中段に人影を認める。
白い神官装束。
物憂げな顔。そして目。
あの時会った、例の神主に相違ない。
何も言わず、豊は階段の一段目に足をかける。
「ようこそ。烏野神社へ。」
相変わらずいけ好かない声だ。
「何か、当社にご用件でも?」
当たり前だ。そも、「例大祭」と堂々と幟を上げておろうに。
「ええ、相談事がございまして。この霊験あらたかな烏野神社までお参りに」
ここは下手に出てみる。
「ほう、それはそれは。して、その相談事とは?」
杉が階段に黒い影を落とし始め、彼の顔も見にくくなってきた。
「最近、この烏野の地で私のパートナーが行方不明になりまして。
それから変な夢を見ることもありました」
「それはお気の毒に。さぞ、お辛かったことでしょう」
含んだような、含まないような返答があって、数秒。
「私は、それについて知っている」
あっさりとした告白。
殊更はっきりと、杉の林に響いたその声は、豊の平常心を削ぐには充分だった。
「では、この『例大祭』は?」
どうしても声が震える。
「そのような疑問があなたの口から出てくるなら、大体の予想はついているのでしょうね。
隠していても、結局あなたも関わることだ。しょうがない」
そう言うと神主は続けた。
「彼女―――村井彩佳さんには、生贄になってもらわなくてはならない。
そしてこの『例大祭』自体、その生贄を捧げる儀式『ニエの儀』が主な祭事だ。」
ここに、不幸にも。
豊の突飛な推察は正しいことが証明されてしまった。
「三百年続く、十年に一度の例大祭。生贄の伝統はその間、ひっそりと受け継がれてきた。
私の名は。洗馬という。あなたにはこの先起こること全てを、受け止めてもらわなくては
ならない。では、場所を変えようか。ここにいては誰に聞かれるか分からないからね」
そう言うと神主―――洗馬は階段を登り始める。
「この階段を登り切った先に本宮がある。その正面右脇に階段があるはずだ。
その階段を降り切った先にある場所で、待っているよ。」
洗馬の足音が遠ざかる。
豊も遅れまい、と追いかけた。
が、登れど登れど洗馬に追いつくことはなかった。
長い階段を登り切り、今度は本宮の裏手の階段を駆け下りる。
日は遠くの山の向こうへ沈もうとしていた。
嘘であってほしい。そもそも、なぜ彩佳がニエにならねばならぬのか。
様々な思いが駆け巡る。
それを燃料にするように豊は走りつづけた。
五
どれほど走ったか。
急に開けた場所に出た。
一面、山に囲まれた湖が見える。
それが鏡湖だ、とすぐに分かった。
その畔に、松明が並べられた小さな祭壇のような広場が見える。
中央に、ガラスのような透明の棺が置いてある。
その中に、見覚えのある女性が横たわっているのが見えた。
――彩佳だった。
すぐに駆け寄ろうとした、そのとき。
広場に洗馬が現れた。
「もう君は、知った。知ってしまった。これは代々伝わる神聖な儀式だ。
今更、私の裁量で止めることもできない。無論、君はあの女に語りかけることも能わぬ」
なおも駆けようとしたそのとき。
「――ッ」
足が竦んで、豊はその場にへたり込んだ。
洗馬の背後、湖の中央の水面から何かが突き出していた。
それは、豊の知らない女だった。その体は光り輝いている。
ただ彼に、ソレが人ならざるものであることだけは分かった。
「私自身が望んでこれをやっているわけではない。――実に辛いものだ」
洗馬は呟く。そして続けた。
「今から、君が知らないことを話そう」
「――知らないこと?」
なんとか声を絞り、聞き返す。
「君もご存じの通り、烏野神社例大祭は鏡湖の向こう側におわす
水神様を祀るためのもの。そしてそこには、ニエの儀――生贄を必要とする儀式も介在する」
「それに彩佳が選ばれてしまった、と。」
「そうだ。ただ、知っているのはそこまでだろう?」
「――隠したいのは、その『ニエの儀』だけではないのということか?」
「察しが良いな。」
否定しない。
それどころか、テストの解答を教えていく先生のように、その先へ導こうとしている。
洗馬はにやりと笑う。
かがり火に映る彼の顔に、濃い影が浮き上がる。
「生贄には、必ず互いを深く愛し合う男女のペアが選ばれる。
つまり今の君と向こうの棺の中にいる女は、その状態というわけだ。
が、今日君は死なない。いや、死ねない。
この神社の神主は、十年毎に交代する。その意味が、君には分かるかね?」
「まさか」
「そう。もう一人のニエは神主自身、だ。」
頭が混乱する。
ただここで、「何故?」は通じないとはっきり分かった。
何も問い返さない豊を一瞥し、なおも彼は続ける。
「何の因果か分からぬが、祭事からまた十年経つと必ず男と女がペアでこの神社を訪れる。
それも次の祭事の数日前に、約束されたかのように、だ。
二人のニエが烏野神社の境内に足を踏み入れた時に、呪は発動する。
例大祭が終わった後にあるニエの儀において女と、十年間身を清め、神に仕えた神主がこの
湖に身を投げる。
そして次の神主には、残った男が選ばれる。
次の例大祭のある十年後まで、神主となった男は神社から外に出ることはできない。
その呪から解き放たれる時は即ち、己がニエとなるその時だ」
洗馬の語る口ぶりは、次第に重く、湿ったものになっていた。
――そうか、つまり奴も。
奴も十年間、その呪に耐えてきたというのか。
「知らなかったであろう。なにせ門外不出の定めだ。どんな資料にも書いていまい。
この神社の資料でさえも。
―――以上が、すべて君に知っておいてほしかったことだ」
そう言って歩き出した洗馬は、彩佳の入っている棺の隣に立った。
それまで湖の中央に立っていた女性が、いつの間にか畔まで来ている。
「水神様のお使いだ。十年前にニエとしてささげた女の姿で現れるというが、まさ
か本当に―――」
夜の帳が完全に落ちた鏡面に、光るその女は、菩薩のような笑みを湛えていた。
神々しい、その光に照らされ、洗馬は泣いていた。
それまで耐えてきた苦しみが、全て溶け落ちたような顔だった。
女が、やさしく洗馬に向かって手を差し伸べる。
彩佳のガラスの棺も、宙に浮いていた。
「待て! やめてくれ!」
豊の叫ぶ声は、次の瞬間立った大きな水音にかき消される。
紅葉がひとつ、揺れる水面にはらりと落ちた。
互いを恋う男女のように、水面を揺れるそれは紅かった。
―――次の瞬間、残っていた太陽の最後の一かけらが沈んだ。
この世浮世や幾年か
行きたし見たし白鷺に
烏鏡みて飛び込まん
烏鏡みて飛び込まん
この世憂世や生き地獄
生きたし見たし白鷺の
烏水から飛び込まん
烏水から飛び込まん
七
祭りが、近い。
住民たちも浮足立っている。
―――そうか。
あれから、もう十年経つのか。
来週には、前宵の集いがある。
再来週が例大祭。
前宵の集いまでに、見つけねばなるまい。
いや、見つけるまでもない。
ニエはどのみち「来る」のだ。
慈悲などかけていられぬ。
この神社の神主としてやらねばならぬことなのだから。
恨んでくれるな。
―――私の呪はもう解けようとしている。
ずっと、待ち続けた時が近づいている。
あの時と同じように、山は紅葉の盛りだった。
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