「花鳥種の宴」 S氏
- ritspen
- 2020年12月30日
- 読了時間: 9分
花鳥種の宴
S氏
この町は十年に一度、空から音楽が降ることで知られている。楽器でも声でもない音が旋律と共に町を覆う。人々はその日山の淵に太陽が触れてから見えなくなるまでの数刻、正装を身にまとい山の方角に祈りを捧げる。この音楽を奏でるものに対する崇拝として古からの伝統だが、誰が奏でているのか、どのような仕組みで町に行き渡るのか、真実はごく数名の者しか知らない。
王宮からの帰り道、碧の吟遊士は大きく溜息をついた。夕暮れ時、沈みかけの太陽が静かに彼を見つめている。今頃王宮では他の吟遊士たちが飲めや歌えの真っ最中だろう。一人くらいいなくなっても誰も気づくまい。
吟遊士は番をつくってはいけない。恋は詩境を彩るのに重要なもの。燃えるような恋慕も張り裂けるような悲哀も、全ては詩境を飾る要素になる。しかし特定の相手をつくると、平穏な感情を手にすると吟遊士は歌を歌えなくなる。よって吟遊士は番をつくってはいけない。
この古くからの言い伝えを町は忠実に守っている。恋は必要。だが愛はいらない。だから王宮は満月の夜に町中の吟遊士を集めて宴をする。貴族やその親族から拐ってきた娘や少年を飾り立てて踊らせ、吟遊士には酒を与えその気にさせる。
碧の吟遊士はこの因習をひどく嫌っていた。この種族で良かったことなど一つもない。吟遊士と恋人の間にできる男子は、例外なく次の吟遊士として中央音楽堂で育てられる。望まれない命である彼らは、その音楽堂で一切の感情を本や歌を通じて学ぶ。実際に経験したことのない名ばかりの、虚構の感情である。その偽物の感情で恋をして、破れて、自分が傷ついて相手が傷つくのが怖い。その恐怖さえ歌にしてしまう自分が怖い。彼は育てられた音楽堂を出てから今までなるべく他人と合わないようにしてきた。森の中にある自分の音楽堂で自然ばかり歌ってきた。感情を知ることなど、今までもこれからもない。そう思っていた。
脇の木々に目をやって、碧の吟遊士ははたと首を傾げた。咲くはずのない花が咲いていた。枯れ木に若葉が芽吹いていた。冬眠しているはずの小動物が顔を出している。葉の緑が濃い。土が潤っている。花の香がいつもより、甘い。
耳が音を拾った。人の歌だ。優しくて鮮やかで甘い歌だ。それは碧の吟遊士を一瞬で支配した。声が小さくなる度その声を欲し、大きくなる度近くで聴きたくなった。旋律は彼を包み胸を痛いほど締め付ける。独り占めしたくて仕方がないのだ。この声を、この歌を、どうか自分のそばに。自分だけのものに。それだけが彼の心をかき乱して止まなかった。
気づくと彼は自分の音楽堂の前に立っていた。歌はこの中から響いてくる。甘く煽情的な声が彼を支配していた。口からは自分の声が調べを紡ぎ、寄り添うようにその歌と調和する。あまりの快楽と胸の痛みに呑まれ朦朧とする意識の中、碧の吟遊士はその扉を静かに開いた。
木の長椅子に座っていた一人の青年がこちらを向いた。歌が途切れる。それと同時に碧の吟遊士は自分を支配していた力が弱まるのを感じた。世界が急速に色褪せて自分を繋ぎとめているものを見失いそうになった。紛れもない恐怖だ。彼はそれに抗うように震える声で叫んだ。
「歌って」
瞬間の沈黙の後、青年はまた堰を切ったように歌い出した。重厚で力強く雄弁な青年の歌は碧の吟遊士を満たし、その高揚感と充足感に呼応して彼の声を一層大きくする。彼の持ち得るもの全てが青年との歌のためにあった。虚構の感情で生きてきた吟遊士にとって、彼の生は夢物語でしかなかった。それがついに現実に覚める。自分は現実に生きることができるかもしれないのだ。舞うように揺れる青年の声に身を委ね本能のままに歌っていた。歌うほどに独占欲は広がり、歌うほどに貪欲になっていった。もっと、もっと歌って。俺だけのために歌って。俺だけのために。
それから彼らは声が枯れるまで歌い続けた。夜が明けて空が色を取り戻すまでずっと。限界が来た時、二人はもつれるように倒れ込んだ。熱を持った息と高鳴る心音を肌で感じ、彼らはたまらず唇を重ねた。最上級の調べを紡ぐその口を自分のものにしたくてたまらなかった。ただその甘い味を貪るように堪能した。彼らの意識が事切れる寸前、碧の吟遊士は擦れる声で小さく呟いた。
「愛して」
青年は隣町の出だと言った。今回の宴のために踊り子として拐われたが、盲目であることが露呈し王宮へ行く道中あの森付近で捨てられたのだという。
「僕の目はね、普段は何も見えないけれど、それは本当に必要な時のためにとってあるんだそうだ」
青年はそう言って目の辺りに手をやった。覆い布はしておらず見た目はほとんど健常者と変わらなかったが焦点は定まっていないようだった。この辺りでは見ない薄い緑色の瞳をしている。カンラン石のようだと褒めると、青年は少し寂しそうに眉を寄せた。君が褒める色が見えないと残念がるので歌にしてやったらとても喜んだ。誰かのために歌をつくるのは碧の吟遊士にとって初めてだった。
碧の吟遊士は青年によく歌をせがんだ。ただ聴いているだけの時もあれば、旋律を重ねる時もあった。吟遊士という種族は大抵寂しがりだ。心に隙間の多い彼らは誰かからの感情を欲しがる。その隙間を埋めることが、吟遊士たちの生存本能なのである。欲しがって与えられて引き裂かれる。恋をして傷ついて、傷つくために恋をする。
青年は碧の吟遊士の欲求に素直に応えた。よく移り変わる青年の表情は、碧の吟遊士に本物の感情を一つずつ教えていった。満月の日には二人で狂ったように歌い続けた。彼らの感情に比例するように、あの時感じた花の香りや緑の青さは徐々に彩度を上げていった。碧の吟遊士は恋より先に愛を知った。青年のためだけに歌をつくり、青年は碧の吟遊士のためだけに歌った。夢物語から覚めた現実はあまりに夢のようで、彼らは充足した多幸感に満ちていた。
二人が出会ってから十年が過ぎた。変わらず二人は互いのために歌い続けていた。碧の吟遊士は以前より格段に表情が増えた。嬉しいも悲しいも興奮も嫉妬も全て青年が与えてくれた。彼の書く歌はより豊かに繊細になっていった。全て青年に向けられた歌だ。自分のつくった歌を青年が歌う時、碧の吟遊士は恍惚とした表情を浮かべてそれに聞き入った。自分たちの作る空気の中に閉じこもることが、彼らにとって至福だった。
満月のその日、いつもなら口をついて溢れてくる歌声は響かなかった。日頃豊かな青年の表情も今はぼんやりとしている。ただ彼に嵌め込まれた緑のガラス玉だけは爛々と窓の外の森を見つめていた。碧の吟遊士もつられて同じ方を見る。彼もまたなぜか今日は歌う気になれなかった。頭からつま先まで甘ったるい感覚に支配されていた。彼らは二人抱き合うように寄り添って、官能的な空気に包まれながら一言も発さずに過ごしていた。
日が傾き始めた頃、青年は徐に立ち上がって碧の吟遊士の手をとった。そのまま音楽堂を出て森の奥へゆっくりと進んでいく。彼らの行く道は甘く暖かな香りに包まれていた。これは二人の香りだ。愛おしい互いの空気に包まれて二人は相好を崩す。香りは奥に行くほど強くなっていった。まるで何かに憑かれたかのように、二人は手をとり合ったままその場所を求めていた。
青年が足を止めた。彼の視線をなぞり見えたものに、碧の吟遊士は息を呑んだ。
地から上を目指す何本もの細い幹が幾重にも絡まり、地面から少し離れた場所に巨大な球をつくっている。生茂る鮮やかな若葉たちは、傾きかけた日の光を受け艶やかだ。花はどこにも見当たらないのに、今までで一番強い匂いがする。空気を吸う度体の力が抜けていった。甘い。くらくらする。もっと見ていたい。
「これが、僕の鳥籠」
碧の吟遊士は声のする方を見た。舌足らずな声。目は籠に魅せられて潤み、緑色の光が今にも溶け出しそうだ。この光があの木に宿れば今よりもっと美しくなる。碧の吟遊士はそう思った。青年の双眸はしっかりと対象を捉えている。然るべき時がきた証拠だった。
青年が手を離した。掌の温もりがなくなって碧の吟遊士はどうしようもない寂しさに襲われた。寂しいも青年がくれた感情だった。青年が木籠に向かって歩を進める。たった今離された手をもう一度掴みたくて、その背中に今にも抱きつきたくて、でもそれは叶わないことなのだと碧の吟遊士は本能で知っていた。溢れそうな涙を必死で堪えた。碧の吟遊士が泣くと、青年は困ったように笑うから。その代わりに彼は歌を歌った。次の満月の夜に一緒に歌おうと書いた、青年と、自分のための歌だ。
その声を聞いて青年は足を止めた。もう木籠の目の前だ。木籠が青年を受け入れるための隙間を作り始めた。中には彼専用の空間がある。熱を持った緑色の瞳が碧の吟遊士を捉えた。
「僕を見つけてくれてありがとう」
碧の吟遊士はまばたきを二回した。耐えられたのはそこまでだった。
「愛してる」
木籠が飲み込むようにして青年を取り囲む。青年は慈しむようにそれを撫でると、碧の吟遊士に一度だけ微笑んで球の中に入っていった。
木籠が完全に閉じた。暗い空間の中で、青年の瞳は最後の一瞬まで光を放っていた。碧の吟遊士は歌い続けた。心に太い杭が打ち付けられているようだった。それは歌う度に重くなっていった。独りなのだ。愛した人は愛してくれた人は、もう自分の手をとってはくれないのだ。もうあの声を聴くことはできず、声を重ねることもできない。歌を書いても、もう歌ってくれないのだ。水滴がつたう。止めどなく流れて頰を濡らす。困ったように笑ってくれる人は、もういない。
太陽が山の淵に触れた。泣き疲れ歌い疲れた碧の吟遊士に、耳慣れた音が届いた。それは確かに目の前の木籠から響いていた。音はだんだん大きくなっていく。紛れもなくそれは、碧の吟遊士が青年に書いてやったカンラン石の歌だった。枯れていたはずの涙が溢れる。喉の痛みなど忘れていた。体がその歌を欲している。口が自然と調べを紡ぐ。声を重ねる。自分の書いた歌がこんなにも甘やかで暖かいものだったことに、碧の吟遊士は今更になって気がついた。一曲歌うごとに木籠に一輪の花が咲いた。彼らは歌い続けた。全て碧の吟遊士が青年に書いた歌だった。
山が太陽を隠した。空が色を失う。木籠は隙間なく色とりどりの花でいっぱいになっていた。一つの隙間もない花籠を見る。花の一つ一つが青年との時間であり青年のための曲だった。碧の吟遊士は十年間青年に歌を書き続け、青年は十年間碧の吟遊士に歌を歌い続けた。その全てがこの籠を飾っていた。
月が顔を出した。今夜は満月だ。月光が花籠を照らす。碧の吟遊士は最初に咲いた花に口づけをした。風が彼を撫でる。花が揺れ、籠の上部が開き始めた。突然のことに碧の吟遊士は驚いて花籠を見上げた。黙って見ていると球の中から大きな蕾が一つ姿を現した。月の光を受け、蕾が静かに開き始める。歌が聞こえた。それは紛れもなく碧の吟遊士が青年と自分に書いた最初で最後の歌だった。
この町は空から音楽が降る町として知られている。満月の夜二人は狂ったように歌い続けた。翌朝の沈黙の中、碧の吟遊士は歌えなくなった花籠を見た。花籠に最後に咲いたのは碧色をした大輪だった。
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