top of page

「磨り減るヒト」 オゼキシンヤ

  • ritspen
  • 2020年12月30日
  • 読了時間: 19分

磨り減るヒト

オゼキ シンヤ

真っ青なコート紙に巻かれた万華鏡を覗いて、頭で唱える。朝、回れ! 昼、回れ! 夜、回れ! 回れ回れまわれ……

 回った。世界は回転した。さっきまで、朝の情報番組で、未成年による非行に対して、作られた暗い顔で持論を展開していたコメンテーターは、笑顔で高級店のモンブランを頬張って眼をまんまるにしているし、台風にふっとばされそうだった我が家の窓も、落ち着いて、張り付いていた。変わってないのは、世界で変わっていないのは、俺だけ。たった一人、俺だけはなんにも変わっていない。歯には唾液を含んだスルメが挟まったままだし鼻には相変わらず、赤鼻のトナカイに見えなくもないニキビがくっついていた。

 進み続ける、いや、正しくは回り続ける世界で、俺だけが、回っていなかった。例えるなら、俺を例えるなら、そう、乾パン。缶に入れられて戸棚にしまわれている乾パン。役目の日が来るまで、回るまでずっとずっと、待っている乾パン。他のものは全部回り続けている! ポストも自販機も東京タワーも清水寺もタージマハルだって、もちろん地球だって! 回り続けている。

 この青い万華鏡に出会ったのは、三ヶ月前のことだった。バイト帰り、目に入るもの全てにイライラしていたときだった。歩きながら、思考にモザイクが掛かっているように思えたとき、赤いドアの建物だけがくっきりと見えた。アダルトビデオの導入部分で、街にモザイク掛かっているのを見て、ここ大学生のとき通ったことあるな、と気づいたときのあの感覚に似ていた。急にハッとする感覚。ぼやっとしているはずなのに、輪郭まで容易に想像できた。

 そう思ってから店に入るのは早かった。軽快にドアを開け中に入り、すぐ目に入ったのは戸棚に飾られたたくさんの万華鏡だった。一般的な筒の形をした万華鏡から、トーテムポールを模ったようなものや、細身のエリンギのような形をしたものなど様々だった。中でも興味を引いたのは、携帯用の懐中電灯のように先端がポコっと膨らんでいるものだった。近づいて手にとってみると意外と重くて、ひんやりと冷たかった。貼り付けられているシールには『テレイドスコープ¥5,800』と書かれていた。高いな、これ買うくらいだったらすき家で普通の牛丼じゃなくて、キムチ牛丼頼むよ、とか思っていると、奥のドアが開いた。

 ドアから出てきたのは、黒いカーディガンを着て、腰を曲げているおじいさんだった。おじいさんは、

「いらっしゃい」

と形式的に言うと、カウンターチェアに座って、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』を読みだした。しかも文庫。メガネもせずに文庫本を読みだした。客の前で。テレイドスコープとやらを片手に手持ち無沙汰にしている客の前で。

「あのーすみません」

「なんでしょう」

「万華鏡っていろいろな種類があるんですね。僕、万華鏡ってあんまりどんなものかよく知らなくて、あの、自分お金ないものですからこんな高価なもの買えないからなんですけど」

と言った。すると、椅子から立ち上がり、こっちに来たかと思うと、一つ戸棚から、さっきトーテムポールみたいだと思ったやつを持ってきた。

「これはね、ワンドスコープって言ってね、この先端に取り付けられている筒を動かすことで見ることができるんですよ。」

おじいさんはトーテムポールの腕を上下に動かして、トーテムポールは右腕が短くなったり長くなったりしていて居心地悪そうだった。その後、どうぞ、と俺に渡して、またカウンターチェアに戻っていった。

 しばらく覗いて、きれいだなぁって素直に思えて、心が落ち着いてくるというか冷静になるというか。ていうか、さっきまで音楽流れてたっけ。こんな小気味いいジャズ流れていたっけ。

「あの、めっちゃ良かったです。すごい落ち着てきました」

「イライラすることでもあったんですか?」

「えーっと、まぁそんな感じです」

「そうなんですか」

と言って、ロダンの考える人のようなポーズを取ると、

「話したくなければいいのですが、どのようなことがあったのかとか、聞いてもいいですか?」

と言った。

 少し驚いた。五分前に会ったばかりの人に、愚痴を言わせようとしているのだから。でも、不思議と嫌な気がしなかった。話してみてもいいかなと、思った。

「えっと、バイトで、あ、僕本業は芸人なんですけど、あの、売れていなくて、コンビニのバイトをしているって感じなんですけど、そのコンビニの、後輩というか、バイトの高校生の子に、芸人しているって言ったら笑われて、あの、別にそれ自体にイライラしていたわけではなくて、そう言われっぱなしの自分にムカついて、何も言い返せなくって、ただヘラヘラすることしかできなくて、それが情けなくって」

「そのようなことが、あったのですね」

おじいさんはそう言って、俺に掴まれていたワンドスコープを戸棚に戻し、そのまま外に出て、ガラスドアに掛けられていた「OPEN」をひっくり返した。

 はじめは、聞いてもらわなくてもいいです、と言ったのだけれど、溜め込むのは体に毒だからと、話すように促した。

 最初は比較的、プラスなことを話した。相方が栗原という名前だということ。栗原は明るくて、真面目で、自分とは対象的だということ。とか、色々。

時間が経つにつれ、愚痴もだんだんこぼれてきた。今年二十九歳なのに風呂なしのアパートに住んでいること。友人の誕生日会で、他の人達がハイブランドの鞄や財布をあげている中、自分だけポロ・ラルフローレンのハンカチをあげたこと。その出費が痛かったこと。バイト先の高校生に、名前も覚えられていないこと。劇場で受けなかった時の相方の顔を見ることがつらいこと。高校生がタピオカを飲みながら歩いている時、大学生のころの友人が金欠と言ってSNSに家系ラーメンを投稿していた時、二十代前半くらいの女の子が、プラダのコートを着ていた時、楽屋で千切りキャベツを幸せそうに食べる芸人を見た時、イラッとしてしまったこと。

 とにかく色々話した。僕の不満を話しているだけなのに、楽しそうに頷いてくれるから、肯定してくれていると、思えたから。話せた。しかし一つだけ、散髪屋で「福山雅治みたいにしてください」と言っている四十代くらいのおじさんを見て「ウッ!」と思ってしまった、と言ったときだけは笑わず、「それは違うんじゃない?」と言われた。もしかしたら、このおじいさんも、福山雅治の髪型をオーダーしたことがあるのかもしれない、と思った。

 ガラスドアからオレンジの光が注いで来る時間になった時、頷いていたおじいさんは、突然止まってしまって、壊れた洗濯機のように見えて、心配したけれど、すぐに口を開いて、壊れてなかったのだなと安心した。

「色々話してくれてありがとうございます。少しばかり落ち着いてきたのか顔色が良くなってきましたね。表情も、うん、明るくなっていますよ」

「自分でもわかります。愚痴はほとんど、栗原に言っていたんですけど、おじいさんに聞いてもらえて、なんか本当に良かったです。ありがとうございました」

もう時間もいい頃だから、終わったのかと思い、一礼をして立ち上がろうとすると、おじさんは「ちょっと待っててください」と言って、奥のドアに入っていった。

長い間ぼうっとしながら、整然と並べられた万華鏡を眺めて、ドン・キホーテとは大違いだなとかおもっていると、ドアが開いた。立っているおじさんの手には、真っ青なつるつるした万華鏡が握られていた。そのままの足で座ると、「あなたは、そうですね、自分を俯瞰しすぎなんですよね。俯瞰した自分を、他人と比べて、しまっているんですよ。そして他人が、自分の理想に近かったり、もしくは超えていたりすると、もう手に負えなくなるんです、自分じゃ。あなたの今の状況は、月並みだけれど、水の中でもがき苦しむような、そんな感じだと思いますよ」

「そうですか」

とだけ言って、そう言えば相談みたいな形で話していたことを思い出した。

「それで、その手に持っているのはなんですか?」

「これはね、魔法グッズですよ。これを見ると一日飛ばせるんです」

と言いながらおじいさんは笑っていて、冗談だろうと思った。けれど、こうも思った。冗談を言いそうじゃないなと。急に、わざわざ売り物じゃない万華鏡を持ってきて、これ(を)見れば一日飛ばせます。なんて言うだろうか。

「あの、それはどういうことですか?」

「そのままの意味です。これを覗いて、回しながら、回れ、と唱え続けると、回るんですよ、本当に」

「へぇ、すごいですね、それは。いやーお金あったら買うんですけどね。財布の中には六百円しか入っていないんですよね」

「あ、これをあげますよ。お金はいりません」

「え、なんでですか」

「僕もだいぶ昔に使っていたんだけどね、もう随分昔に使ってから、ずっと箱に入れっぱなしだったんですよ。それで、あなたの話を聞いて、この万華鏡の存在を思い出して、色々僕に重なるものがありましたから」

「え、でも」

というと、おじいさんは付け足すように、

「必要なくなったら返しに来てくださいね。待っていますから」

と言うもんだから返すわけにもいかなくなった。

「ありがとうございます」

と言って頭を下げて、出ようとすると、「あの、すみません」と呼び止められた。

「最後に名前だけでも聞いてもいいですか」

と言われた。

「佐伯です」

とだけ言って、店を出た。名前を聞かれるなんて、大学生以来のことだった。

外は夕焼けの切れ端しか残っていなくて、店に居たときは、暖房がついていたと感じなかったけれどもう随分寒くなってきたのだな。温かい体から、熱が奪われていくと、世界に許容されているのだなと感じる。反対に、暑い時、思いっきり日光を浴びているときは、世界中の人の荷物を背負わされているように感じる。決してそんなことはないのだけれど、全員が平等に暑いと感じているのだけれど、そう感じてしまう。

家に帰る途中、川の流れる音が聞こえた。久しぶりのことだった。いつもは周りの音なんか何も聞こえず、早足で家まで帰っていたから。

流れている川は穏やかで、なんの変化も起きない工場のラインを見ているような気持ちになった。

 そういえば、おじいさんが、今の僕は、水の中でもがき苦しんでいるような状態だと言っていたことを思い出した。僕が溺れているのは、例えば、台風の次の日に見れるようなカルピスとコーラを混ぜたような色で流れる川か。それとも、僕は、工場のラインのように整えられた、今、目の前に流れるような川に飲み込まれているのかもしれない。整えられた川を、うまく泳げていないのかもしれない。

家に帰って、一週間前に買ったカップ焼きそばを、畳に放り投げられていたビニール袋から取り出して、そのビニール袋はしぼんでしまったりして、肉まんから餡を取り出したみたいだなぁと思った。

カップ焼きそばを食べ終えて、なんにもすることがないもんだから、ぼんやりと天井でも見ていると、木目に黒い丸があることに気づいて、あ、そういえば、万華鏡貰ったんだっけな、と思い出して、大学一年生の時に買ったリュックサックを弄り、青い、表面がつるつるとした万華鏡を取り出した。

 本当に一日飛ばせるのだろうか、こんな普通の、柄もない真っ青な万華鏡で、ワンドスコープ、とおじいさんが言っていた、万華鏡のほうが、ずっと、ドラえもんの秘密道具みたいな、可能性を秘めている見た目をしていた。

 でも、飛んでも飛ばなくてもいいというのが正直なところ。飛んだって所詮一日、明日はバイトもないから、別に問題はない。飛んだって、また今日みたいな一日を過ごせばいいだけ。冷えた部屋で、カップ麺をすすることも、もう、慣れた。僕は万華鏡を覗いた。

 万華鏡の中は、ワンドスコープとは比にならないくらい綺麗だった。回すたびに、目まぐるしく景色が変わっていって、渋谷スクランブル交差点の、定点カメラを見ているような感覚。人が、合図一つで、同じようなスピードで道路に流れ込んでくる様は、誰かの意思で動かされているようで、気味が悪い。

 目を離すと、いつもの部屋。壁には賞レースのゼッケンが飾られていた。来年の自分を奮い立たせるという意味で飾ってあるゼッケン。

それを見て、万華鏡を、布団が丸まっているベッドに放り投げた。そしてそのまま立ち上がって、コインシャワーを浴びに行った。

 それから三日後、劇場に出るためのネタ見せがあった。ネタ見せは広めの会議室で行われた。審査員は白い長机に、芸人の名簿と白い紙を置いて座っていた。一つ前のコンビがネタを披露する時には部屋に入ってそのコンビのネタを見なくてはいけない。これは他のコンビのネタを見て、競争心を掻き立てるのと、審査員のコメントを聞いてプレッシャーをはねのける力をつけるためだと聞いたことがあるが、真相は定かではない。前のコンビはネタについてのダメ出しとアドバイスをもらって退出した。

 自分たちの番になり、勢いよくセンターマイクまで駆けて行った。ネタは三分ほどの時事漫才。ネタを書くのは相方の栗原で、完成したネタを二人で確認して、修正している。今回のネタは、かなりの自信作だった。若物を題材にした漫才は、SNSの普及により色付けなしの赤裸々な情報が得られるため、かなりディープな内容になっている。ボケを担当している栗原が若者に対する愚痴をこぼし、それをツッコミの僕が修正するという形。

 漫才を終え、頭を下げると深いため息が聞こえた。それも三個ほど。

「正直ね、ネタはそんなに悪くない、というかネタ以前の問題だね、これは」

乾いた舌に乗っかっていた唾を飲み込む。

「あのね、ツッコミが下手すぎるんだよね」

リーダー格の髪をオールバックにして三本ジワを目立たせてるオジサンがそういうと、ほかの三人も頷いた。

「僕もそう思いました。弱いというか、下手なんですよね。ツッコミきれていないし、ボケの子が言っていることに対して、全然おかしいと思っていないように見えちゃうんだよね」

「これあれでしょ、ツッコミの子が思っていることをネタにしたんでしょ? まぁネタにもなっていないんだけどね」

一番若い短髪の男がそういうと、笑いが起きた。

「うん、そういうことだからさ、他の芸人のネタとかを見て勉強し直したほうがいいと思うよ。あと、時事ネタはもう少し説得力があるような話術を身に着けたほうがいいね。うん、そういうことだから、お疲れ様」

と言って半ば強制的に部屋を出された。栗原は目に見えて落ち込んでいて、いつもは何言われても平気そうに笑っているやつだから、不思議だった。僕はというと、怒りでどうにかなりそうだった。

栗原の提案で近くにあったファミレスで反省会をすることになった。二人ともお金がないから、ドリンクバーと割り勘でポテトを一つ頼んだ。

「久しぶりだね、あそこまで言われたの」

相方はすっかり憔悴しきった顔で言った。

「そうだな、作ったとき結構手ごたえあったんだけどな」

「え、そ、そう?」

「ん? もしかして面白いって思ってなかった?」

「いや、まぁ、漫才としてはおもしろくなかったなっていうか」

「ふーん、そうは思わなかったけどなぁ。てかさ、ネタ書いてんのお前じゃん。お前がもう少し頭ひねって考えればよかったんじゃねぇの?」

「でもさ、今回のネタはほとんど佐伯君が直したじゃん」

「は? もしかしてお前、俺のせいにしてんの?」

「いやそういうわけじゃなくてさ」

「じゃあ、どういう意味なんだよ!」

「あ、あのさ!」

今までで、一番大きな声が店内に響いた。ママ友で集まっている主婦たちが一斉にこっちを見ている。

「僕、もう芸人やめようと思うんだ」

一瞬、栗原が何を言っているのかわからなかった。

「は? 冗談だろ?」

「冗談じゃないよ。僕ずっと迷ってたんだ。やめるか、やめないか。僕たち、もう二十九でさ、周りはもう結婚して家まで建てているやつがいるんだよ。それなのにさ、俺たちはアパートで、しかも風呂なしで、昼飯はファミレスのポテトだけなんて、ほんと、情けないよ」

相方は涙をにじませた声で言った。

「いや、でもさ、今回はやっぱりネタが悪かったんだよ。そうだ、次からはネタ書くとき俺も行くからさ。二人で書こうよ。そうすればさ、もっといいネタ書けるんじゃない?」

「佐伯君てさ、ずっと人のせいにしてるよね」

「え?」

「ずっとそうだよ。ネタにダメ出しされたら全部責任を僕に擦り付けて、自分は知らん顔して。さっき一緒にネタ書こうって言ってたけど、僕がいつ書いてるかなんて知らないでしょ? 夜中の二時とかにファミレスで書いてるんだよ。昼間はバイトして夜はネタ書いて。まともに寝れるのなんて週に二回か三回くらいなんだよ。佐伯君は夜勤にバイトして朝帰って寝たりゲームしたりしてるんでしょ。そんなやつにさ。ネタのこと言われたくないし、一緒に書こうなんて軽々しく言ってほしくない。それに今回は佐伯君もダメ出しされてたのに何にも反省してないじゃん。どうせ自分は悪くないって思ってたんでしょ。審査員がわかってないって思ってたんでしょ。大人が悪いんだって、全部人のせいにして、自分ももう大人のくせに」

僕は何も言い返すことができなかった。冷めたフライドポテトの残りにずっと目を向けることしかできなかった。栗原がここまで感情を露わにしたことを見たことがなかった。

栗原は、物事を卑屈に捉える僕とは違い、前向きな人間だった。些細なことでも幸せを感じ、千切りキャベツも美味しそうに食べるし、ネタにダメ出しされても深くは気に留めず、先輩の芸人にアドバイスを貰いに行っていた。反対に僕は、カップラーメンを食べることに愚痴を言い、栗原に言われたとおり、ダメ出しは全部栗原のせいにしていた。今回自分に直接もらったときもそうだ。自分は悪くない、あいつらがわかってないんだって、思っていた。

 相方は三百円だけ机において、何も言わずに店を出ていった。僕は追いかけることができなかった。僕は、たった一人の、味方を失った。

気を紛らわすために、ブックオフで立ち読みをして、家に帰ると、床に万華鏡が転がっているのが目に入った。憎らしいくらい青くて、拾い上げたとき、壁に投げつけてやろうと思ったけれど、やめた。おじいさんに言われたことを思い出した。この万華鏡で一日飛ばせると言われたことを、思い出した。

 万華鏡を覗くと、変わらず美しい世界が満ちていた。暗がりに桜が咲いているように見え、与謝野晶子の短歌を彷彿とさせたと思いきや、今度は太陽光に焼かれるがごとく佇む紅葉。場面が絶えず変わっていった。

 回れ、回れ、回れ、回れ回れ回れ……

 一瞬、本当に一瞬だけ、意識が飛んだ。

辺りを見ても、何も変化がないように見えた。窓からは、あいかわらずぼんやりとした電灯の光しか入り込んでいない。部屋も変わらず、寒い。

しかし手元に便利な板の電源をつけると、そこには十一月十九日と映し出されていた。

回った。本当に回った、一日だけ。冗談じゃなかったんだ。おじいさんが言っていたことは。回ったことに確信を持つと、途端に空腹に襲われた。そうか、僕は一日何も食べてないgになっているんだ。しかし僕は、空腹に襲われているにもかかわらず、嬉しい気持ちで溢れていた。この万華鏡の効果が証明されたのだから。

僕は只管、回し続けた。

三ヶ月の月日がほとんど一瞬に感じられた。この期間の大部分を暗い六畳の部屋で過ごした。部屋を出たのは食べ物を買いに行く時だけ。それも二週間分くらい買い込むもんだから、インスタント食品ばかりを食べ続けた。

俺はカップラーメンを食べたあとにくる、自己嫌悪がたまらなく嫌いだった。俺と同じくらいの歳のやつは、高級寿司を食べていると勝手に思ってしまうから。

その時間がなくなるのは好都合だった。ご飯を食べて、すぐに回す。これだけで自己嫌悪に陥る時間はほぼなくなった。

バイトも行かなかった。バイトの高校生の顔も見たくなかった。芸人という肩書を奪われた僕は、ただのフリーターになりさがってしまうからだ。店長にやめるという連絡も入れずに行かなくなった。行かなくなった最初のほうこそは店長からの着信の履歴が残っていたものの、一ヶ月経つうちに、それも無くなった。

 親からの連絡もそうだ。年末帰ってくるのか? という連絡で途絶えていた。家賃とか光熱費の滞納の連絡は来ていなかったから、親が生きていることだけはわかっていた。

半年くらい経った。いや、経ったという感覚はないのだけれど、スマホの画面が半年経ったことを、示していた。俺は、何をしているのかと思った。

自分を認めてくれる人なんて、必要としてくれる人なんて、本当に一人もいなかった。相方でさえ、無理して僕とコンビを組んでいたんだ。

なんでもっと相方を大事にできなかったのだろう。失ってから気づくのは遅いというのは言い古された言葉だけれど、ここまで身にしみて感じられたのは初めてだった。そうだ、俺は現実を見ることをしなかったんだ。妄想を描き、夢を現実にあったことのように自分の中で反芻し、何か言われても人のせいにして、直接言葉で殴られても、痣に気づかないふりをしてきた。治そうとしなかった。

絶望しかなかった。この万華鏡を見ることだってそうだ。ただ、逃げているだけなんだ。現実から。

僕はおじいさんに返すことを決心した。おじいさんにこれはもう必要なくなったと、変わる決心をしたと言ってやりたかった。不思議な顔をされたって良かった。言わないよりは。

僕が回さなかったのは、半年ぶりのことだった。深夜に行っても居ないだろうと思って、でもとても寝られそうになかったからずっと起きていた。起きていると自己嫌悪に押しつぶされそうだった。それでも耐えた。じっと耐えていると、カーテンの隙間から、光が差し込んできた。久しぶりに日光を見た。蛍光灯なんかよりずっと明るくて、暖かい光がそこにはあった。それを見ると、居ても立っても居られなくなって、俺は近所にあるコインシャワーを浴びて、その足でおじいさんがいる店に向かうことにした。リュックサックには、半年着続けた下着と、青い万華鏡が入っていた。

コンビニ店員以外の人を見るのも久しぶりで、すれ違う人が俺の顔を見るもんだから、身なりが気にはなったけど、なりふり構わず目的地に向かった。

二十分くらい歩くと、遠くに赤い扉が見えた。またはっきりと、赤い扉が見えた。リュックサックを弄り、万華鏡を手に持って、歩きを早めた。近づいてくるにつれ、呼吸が荒くなるのがわかった。

あと二十メートルというところまで近づくと、張り紙が貼られているのが見えた。紙の四辺はテープで貼り付けられていた。近づいてみると、そこには、

【十二月いっぱいで、閉店することにしました。長い間ご愛顧ありがとうございました。店主】

と書かれていた。

「は?」

という言葉が漏れたけれど、すぐに周りの雑音に消された。

 いや、待ってよ。万華鏡が必要なくなったら返しに来てって言ってたじゃん。なんで居なくなるんだよ。ふざけんなよ、なんでそうなるんだよ! 俺が来たんだぞ、返しに。あんなに親切にしてくれたくせになんで裏切ったんだよ。

 はぁはぁ、という息切れだけが聞こえた。次の瞬間、万華鏡を赤いドアに、投げつけていた。青が割れた。中からは大量のガラスカレットが飛び出してきた。

 どのくらい経っただろうか、ようやく落ち着いてきて、割れた、青い万華鏡を拾った。半年間見続けてきた万華鏡は、万華鏡の形を失ったただの破片でしかなった。破片をリュックサックにしまった。

 次に目に入ったのは、ドアの前に散らばったものだった。目にうつる、ガラスカレットは、色彩を失っていた。あんなに鮮やかな景色を見せてくれたガラスカレットは、透明だった。

コメント


​グレート エスケープ

ご意見などお気軽にお寄せください

メッセージが送信されました。

© 2023 トレイン・オブ・ソート Wix.comを使って作成されました

bottom of page