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「夜明けの朝食」 大保江冬麗

  • ritspen
  • 2020年12月30日
  • 読了時間: 49分

夜明けの朝食

大保江 冬麗

「また新しい彼氏できたの?」

穏やかな音楽が流れる、カジュアルな内装の喫茶店。大学が始まって以来、私にとって唯一の友人であったサチは運ばれてきたモンブランを食べながら、呆れた口調で言った。

「そう。また告白されたから」

 私はどうでもいいことのように言って、ショートケーキの端をフォークで切り崩した。大学から少し離れた喫茶店。二人で会うときは、大体ここで時間を潰す。お互いの家にも行ったことがないし、休日は会うこともない。

 会ってもやることがないのだ。おまけにお互いが一人でいることを苦にしないタイプだったから、単純に会いたいと思うこともない。ただ、同じ授業をとっている日は「あぁ、今日サチと会うな」と思うぐらいだ。

 私とサチは大学の語学の講義で偶然隣になってからの仲で、こうしてぼちぼちの関係を続けていた。今が一回生の終わり頃、来月でちょうど知り合って一年になる。

私はサチのことが結構好きだ。サチは私と積極的に関わろうとしない。

高校の時はいろんな女子のグループが私を取り込もうとちょっかいをかけてきたものだ。私と繋がっていると都合がいいのか、男も女も私を所有したがった。中には普通に友達になろうとしてくれた子もいたかもしれないけど。どちらにせよ付きまとわれるのは嫌いだった。

そういうことをサチはあまりしない。私にほどよく無関心で、対応が適度にドライだ。それでいて、どんな話題でも放置しない。あと、あまり恋愛にも関心がない。なんなら、恋心というのも抱いたことがない、らしい。そういうところが好きだった。

「今回で何人目なの?」

「さぁ、数えてないから」

男たちは変わらず私に愛を投げかけてきた。大学に入ってからは、次から次へと寄ってくる男たちを拒んでいない。そのかわりに二か月の間、彼氏彼女として相手を見て、その男が私を満足させられるかどうかを見極めるようにしている。私が満足できなかったら、当然お別れということになる。

今のところ、別れた男の数は知れないが、どの男も性急で、おまけにそれが当たり前のような口ぶりだった。「彼氏彼女の関係だから大丈夫」と、本気でそう思っているような男ばかりだ。

何度か行為に至ったことはあったが、彼は私を求めているのか、それとも身体を求めているのか判断はつかなかった。それに、好きでもない男との夜は、単純につまらなかった。

「数えてないって……」

 サチはまた呆れ顔だ。私は黒く長い髪を払って、微笑を浮かべながら肩を竦めた。

自分でいうのもあれだけれど、私は結構顔が良いほうだ。そのこともあって告白の回数も多いのだろうが、男と付きあってみれば、

「シズカはさぁ、気付いてないかもしれないけど結構人気あるんだぜ」

 と言う。どの男もそうだ。私と付き合ってからは、そんなことばかり口にしていた。

彼らはどういうつもりでそんなことを言うのか考えたくもない。けれど、私からしてみれば「人気の私と付き合っている俺」という自画自賛的で、優越的な彼の感情が言葉に出てきたものだと見抜いてしまう。

すると、途端に「私はあなたの所有物じゃない」という感情が湧き上がってくる。私にとって誰かの彼女であるとはステータスでもなんでもなかったし、どうでもよかった。

 だから、私の方から捨ててやるという気概が生まれてくる。そして、別れを切り出す。付き合って大体二か月で。

「どうせ別れる男の数をなんでわざわざ数えなきゃいけないのよ」

「でも、それって不誠実じゃない」

「不誠実?」

「元から好きでもないのに関係だけはもって、飽きたらポイしちゃうんでしょ? かわいそうよ」

「全然」

 そんなことない。何がかわいそうなものか、と心の中でも思う。

 本当に不誠実なのはむしろ彼らの方だ。私と本当に一緒にいたいわけでもなく、一緒にいると自分の評価が上がるという道具、手段として利用しようとしているのだから。

 二か月という束の間の愉悦を与えてやっているだけでも感謝してほしいと思う。

「私は、かわいそうだと思うわ」

 サチは私を批判するという様子ではなく、淡々と言った。次の瞬間にはモンブランに添えられた栗を美味しそうに口に放り込んでいる。

「サチは真面目ね」

 恋愛なんてそんないいものでもないのに。こうも純粋に考えられるサチが少し羨ましくもあり、馬鹿らしいとも思う。サチはこれから恋愛をして、現実を知って、きっと傷ついていく。フラれて、浮気されて、未練が残ったまま恋が終わっていく。

サチの今後を思うと、私は本当に救われている。だって、別れた男が別の女の所有物になっていても、私にとってそれはただの使い捨てでしかないのだから。男への未練なんてあったもんじゃない。あの女は私の使い捨てに抱かれているのだ。どう未練を持てばいいのだろう。

 それに私は「不誠実」であることがそれほど悪いことだとも思わない。恋愛とは結果的に、不誠実になってしまいがちなものだ。そういうものなのだと、思っている。

「でも、やっぱり」

モンブランにフォークで切り込んだまま、サチは呟いた。

「あなた、ちょっと変よ」

 そうかもしれない、と私は思った。

 ◇

「お疲れ様でした」

「はい。お疲れ様」

バイト先の店長にささっと挨拶をして、私はすいすいと店の裏口から路地にでた。コートにマフラーと結構厚着をしてきたのに、室内との寒暖差に思わず身震いする。閉めた裏口のアルミ製扉の隙間から、暖気が漏れてくるのを感じるほどだ。

バイトでお世話になっているケーキ屋は『トライアングル』という。大学から少し離れているため、学生はあまり来ないのが気に入っている。後は変哲もないただの小さなケーキ屋だ。

大学生になってから、ずっとこの店でバイトをさせてもらっている。時給はそれなり。一部のシーズンを除いてお客さんもそれほど多くはないから、コンビニのバイトよりかは楽なんじゃないかと思う。より一層、清潔感を保たなければいけないから、色々と手間は多いかもしれない。私の場合は、毎日髪を頭上に結ばないといけない。

 ケーキ屋が最も忙しいシーズンは既に過ぎ去っていたが、お客さんはそれなりに入っていた。最初の一年目のクリスマスを経験して以来、もうクリスマスにはシフトを入れたくないと強く思わされた。

 居心地はいいが、クリスマスはあまりに忙しい。

 ハロウィンで静かに沸き立った街の装飾は十月の末を境に全く見かけなくなり、変わって緑と赤の装飾があわてんぼうのサンタクロースのように動き始めていた。『トライアングル』でもハロウィン仕様のモンブランやカボチャケーキのポスターを剥がし、クリスマスのホールケーキを宣伝している。去年は十二月頭には予約がいっぱいになり、クリスマスに押し寄せてくるお客さんの数を考えては逃げ出したくなったものだ。

 もう一年経つのか、と時の流れの速さに驚きながらも、帰路を歩いていた。その時に、黒いジャンパーを着た男の目がこちらをちらりと見たのが分かった。見覚えのある顔だな、と思ったが興味もなかったので無視した。

「おいおい」

その男が煽るような声をかけてきた。女連れの男だった。知っている顔だ。確か、大学に入って二か月ほどで告白してきた男だっただろうか。詳しくは覚えていない。

男は隣に連れた女をまるでぬいぐるみのように肩を掴んで抱き寄せた。今、自分の女はこいつだと見せつけるように、いや、それが目的だろう。へへ、と汚い笑い声を出していた。

「あら、久しぶりね」

 私はゆったりとして言った。女の方は目尻を少し細くして私を見る。私の知らない女だ。今夜はこんなにも寒いのに素足を外気に晒している。この男にはお似合いな馬鹿な女だ。男は、フンと薄ら笑いをして私を見た。

「聞いたぜ。また男に捨てられたんだってな。まぁ、お前みたいな女は捨てられて当然だ。いい気味だぜ」

 捨てられた? それは違う。私から振ったのだ。

あまりにもつまらなかったから、クリスマスを前に別れることにしたのだ。理由は単純でつまらなかったから、だ。

そもそもつき合い始めた頃から、同じ学年のどこにでもいるような量産型大学生だった。無難な服装、茶髪のマッシュ頭、安っぽいリングのネックレスに、流行のスニーカー、ワイヤレスイヤホンを身に付け、趣味は筋トレと音楽鑑賞、主な移動手段はロードバイクで、そしてなにより自分をまともだと思っている。

私にとって、付き合って二か月は見極めの期間だ。そして、その二か月で出た彼の評価は、つまらない上にろくでもない。彼氏としては無難だ。ただ、それだけだった。

「そうね。捨てられちゃった」

 否定して話をこじらせるのも面倒に思えたので、流すようにそれだけ言った。私が全く相手にしていなことに腹を立てた男が眉間に皺を寄せたが、「行きましょ」と女に袖を引っ張られ、男は苛立たしげに舌打ちをして歩いて行った。

 男はあの女を私に見せつけたかったのだろうか。それとも私とは違う女といる自分を見せつけたかったのだろうか。あのような男の性格上、恐らく後者だと思うが。

「馬鹿ばっかり」

 自然とそう呟いて、青信号が点滅する横断歩道をひょいひょいと渡る。車のライトが流れる夜の歩道をぼんやりと歩き出す。

「彼氏、ねぇ」

 一人で呟く。仕事帰りのおじさんが通りすがりにちらりとこちらを見た。「何?」と視線で返すと、「いやなんでも」というように情けない丸まった背中を見せて歩いて行った。全く活き活きとしていない、よぼよぼした歩き方をしている。あんなのは嫌だなと心底思う。

私はよく男性から告白される。

中学の頃から、私は度々人気のないところに呼び出され、告白を受けた。最初につき合ったのは中学二年生の頃で、名前は確か一成くんだったかしら、と当時を思い返す。

「俺たち付き合ってるじゃん」

 それが彼の口癖だった。というより、私に向けられた中でもっとも多い言葉だった。

クラスのムードメイカーのような存在で明るく無邪気な彼だったが、私に対してはしつこく束縛をしてきた。今思えば嫌な奴だった。

友人関係には口出しをしてくるし、休日も必ず毎日呼び出された。私はしぶしぶ彼の家に向かった。しかし、私が彼の家に行くとそこには彼の友人が来ていて、私は彼と彼の友人が遊んでいるのを見て、作り笑いをしながら眺めているだけなんて日もあった。

呼び出しに断ることができたのは、家庭の事情が絡んだ用事があるときだけ。

彼のわがままに付き合っている内に、元の友人との付き合いも減って、彼を中心にした関係が増えた。とても友人とは呼べない人たちだったけれど、私が彼の彼女であるからか、当り障りのない関係でいられた。そういう意味では居心地が悪いわけでもなかったのだ。

彼との関係は中学三年の夏まで続き、彼の浮気で幕を閉じた。この時、私は彼に捨てられたといっていいのだろう。当然のように腹が立ったし、今までの時間は何だったのだろうと思った。そんな私をよそに、彼は新しい女を連れて悪びれもなく周りに吹聴した。

「やっぱりね、大事なのは性格なんだよ。相性っていうのかな。顔ばっかりよくてもさ、うまくいかないよ。そういうもんなんだよ恋愛って」

 私は「彼氏」という生物が嫌いになった。

それ以降、中学高校の間、私は告白を片っ端から断った。誰かの彼女にされるという体験は今後一度たりとも味わいたくないと思っていた。

しかし、私に告白してきた男たちが、次の週には他の女のものになって幸せそうにしているのを見ると、その節操のなさに虫唾が走った。

『大事なのは性格なんだよ』

 どの口が言っている。私はほぼすべての男が私に対してそう思っているように思えた。

『顔ばっかりよくてもさ』

 うるさいなぁ。

 そして何よりも許せなかったのは、そんな節操もない下等な生物が、新しい女を連れて自分より幸せそうにしていることだった。

 ◇

 二回生の春が過ぎた頃、私も随分と仕事や大学にも慣れて閉店までの時間、シフトに入ることが多くなった。バイトは私にとって息抜きだった。職場はおばさんやお姉さんばかりだったし、お客さんも女性が多いこともあって、男性の視線が少ない空間が自然と私をリラックスさせた。男の店長と男性バイトは厨房にいることが多いのだ。

職場の人はみんな優しかったし、自分が役に立って、必要とされているという感覚が、純粋な自尊心を刺激するようだった。

ある日、「閉店時の片付けの時間もバイト代が出るから、良かったらシフトに入ってほしい」と言われ、片付けのシフトに入ることになった。次第に、店長の宮部さんと二人きりになって色々と話をすることが増えた。初めは些細なことを話していた。私の学校の偏屈な教師のこととか、宮部さんのだらしない上司の話だとか、態度の悪い客のことだとか、主にお互いの愚痴を聞き合っていた。

そんな日々がしばらく続いて、別に私はそういうつもりはなかったけれど、宮部さんはいつしかそういうつもりになっていて、ある日から自然とベッドに誘われるようになった。不思議と悪い気はしなかった。

「宮部さん、こんなことして大丈夫なんですか?」

 私は彼の隣で寝転がりながらいたずらっぽく言った。彼は口に人差し指をあてて、

「内緒だよ。私の家族と、他の従業員にはね」

 まだ三十代に見える顔を笑顔に光らせてそう言った。彼との夜はいつも一時間だけだった。非常に簡単な関係であるように思えた。

「今日はありがとう」

 と言って差し出された封筒を私は受け取らなかった。その代わりに、

「また抱いてくれる?」

 と誘うように言った。宮部さんは爽やかに微笑んで頷いた。そして、私の髪を手で掻き分けて静かに唇を合わせた。

宮部さんは私を酷くは束縛しなった。今日は忙しいと言えば、無理に誘い込んだりはしなかったし、バイトのシフトも気を利かせてくれた。実家に帰省すると言って、二か月ほどバイトに行かず、会うことがなくても私は全く辛くなかったし、宮部さんから連絡が来ることもなかった。

なんて楽なんだろう!

それが私の抱いたこの関係への感想だった。不思議と所有されているという感覚はなかった。そして、宮部さんにも私を所有したいという欲望はなかったように思う。きっとそういう面倒な所有欲や独占欲は家庭の女で満たしているのだろう。私たちの関係は淡々と、けれど充実して過ぎていった。

私が宮部さんとの関係を築いている一方、サチは見違えるぐらいに変わった。大学二回生の秋のことだ。

サチが恋をした。相手は一つ上のゼミの先輩で、誰にでも優しく良い人だという。目を輝かせて、そう言うのだ。

私は正直、落胆していた。サチの恋愛に無関心な所が好きだったのに。これでは、どこにでもいる女と一緒だ。夢見がちで、白馬の王子が現れたと勘違いしている哀れな女。今目の前にいるサチは、私の中でそういう女にカテゴライズされてしまった。

サチは恋心を抱いてからというもの、頻りに私に相談を持ち掛けてきた。けれど、サチは妄想の中で恋愛しているようだった。まだ付き合ってもいないのに、先の話を語りだす。

「デートにはどこに行けばいいのかしら。映画館? 遊園地? きっとどこに行っても楽しいよね」

「手をつないで歩いてみたいって思うの。普通に繋ぐんじゃないのよ。ちゃんと指を絡めて恋人繋ぎするの」

「子供も欲しいわ。彼はかっこいいから、きっと良い子が生まれるはずね」

「あ、結婚式にはシズカも必ず呼ぶわ。唯一といっていいほどの友達だもの」

 狂ってる、としか思えなかった。実際、サチは狂っていたと思う。サチはその男との妄想だけを考えるようになっていた。恋に恋をするとはまさにこのことを意味しているのだろう。私からしてみれば、まるで恋に縛られにいっているようだった。

 普通、恋をすると人は活き活きとしだすと言われている。化粧をしたり、洋服を整えたりして女性は一段と可愛らしく、男性もきちんとしたおしゃれをしだすもの。

けれど、サチは全くそうではなかった。膨らんでいくのは妄想だけで、外見はいつもと変わらない、薄い化粧と派手ではない服装。最初は好印象だったそれらが、今では段々と不気味なものに見えてきた。

 私は意外にあっさりと、サチと縁を切った。

 サチは大学にあまり来なくなった。けれど、私には何の影響もなかった。せいぜいカフェに行く回数が減った程度だ。そもそも、サチがいなくとも大学は退屈ではなかった。授業はそれなりに面白かったし、仲の良い女性はサチぐらいしかいなかったが、男性ならそれなりいたからだ。男性を拒まなくなると、恋愛関係にはならなくとも適度に良い友人が見つかることが分かった。

なんとなく関わりがあった男友達と話している時間は、それほど苦ではなかった。彼らが私に気がないことがわかっていたことが大きい。とは言っても、ゼミの研究仲間程度の関係だった。そのぐらいの関係で留めてくれていた彼らに、私は密かに感謝していたのかもしれない。おかげでゼミの時間はとても過ごしやすく、有意義だった。

サチとの縁を切って数日後、他大学の男性から告白された。一目惚れだという。サチのこともあって、付き合うことに嫌気が差したが、どうせ二か月で別れると思って付き合った。趣味がパチンコで、実力も伴わない画家志望のどうしようもない男だった。

「君の絵が描きたいんだ!」

 男に懇願され、最初はモデルとして座っているだけだったが、少し経てば「君のヌードが描きたい」と言って、度々私を裸にした。そうして、絵のことなんかそっちの気で、裸にした私を抱き始める。吐き気がするような奴だった。挙句の果てには、付き合って一か月ほどで、

「ちょっとお金が足りなくて、ちょっとだけ、ね」

 とへらへらした顔で言われた。当然、お金は一銭も渡していない。パチカスな上に酒癖も悪く、それでいて絵も下手くそ。正真正銘のハズレだ。もちろん、二か月も経たずに別れたが、その間も私と宮部さんの関係は続いていた。

私は浮気をして、宮部さんは不倫をしていた。二か月に満たない期間ではあったけれど、その状況に私は静かに興奮していた。どうせ別れる彼氏に対して、罪悪感は微塵も覚えなかった。むしろ、私に甘美な背徳感を味合わせるためだけにあのハズレは存在していたといってもいいほどだ。閉店の片付けを手伝いつつ、作業が終ればお互いにシャワーを使った。

宮部さんの前で衣服を脱ぎ捨てることは、今の私にとっては非常に自然なことのように思えた。あの画家志望の全身を舐めるような視線と、宮部さんが私に向ける視線は全く違うような気がしていた。宮部さんは、私が服を着ていても裸であっても、必ず私そのものを見ている。そして、今日の服も素敵だとか、いつ見てもシズカの肌は綺麗だとか、当り障りのない普通の言葉を、適切に使って褒めてくれる。その心地よさは宮部さんにしか出せない。

薄暗いダウンライトの光が満たす部屋の中で、私は彼氏ができたということを報告した。

「大丈夫。すぐ別れるわ」

それを聞いて、宮部さんは自然な形で笑っていた。美しいケーキを作る彼の手が私の頬を撫でる。この時、私は自分の肌が卵のように美しくて良かったと心から思う。

「僕たちは恋愛に不誠実だね」

「不誠実?」

 サチの言った言葉が被って脳裏を過った。

「違うかい? 僕は妻を裏切って不倫している。シズカは彼氏を裏切って僕と浮気をしている」

「全然、不誠実じゃないわ」

 私はそう言って彼に口づけする。もしかしたら、彼は妻に対して不誠実かもしれない。けれど私は、自分が不誠実だとは思わない。あんな薄汚い生物に自分が誠実である必要性が全く感じられないのだ。だから、私がこうして宮部さんと一緒にいることは裏切りでもなんでもない。敢えて、言葉にするなら、

「お互いちょっと変なだけよ」

 宮部さんは少し声を出して笑って、すぐに私を抱いた。

 その年はクリスマスも宮部さんと過ごした。昼から閉店にかけて雪崩のように来るお客さんを捌き、閉店の片付けを手伝い、その汗をシャワーで流して、彼とベッドに一時間だけ寝転がって肌を重ねた。

 彼氏のことなんて考えもしなかった。ただ宮部さんのぬくもりと形を全身で感じていた。

 激務だけしか思い出になかったクリスマスが夢の一日のように変わって、過ぎていった。

 ◇

大学三回生の夏。私は就職活動に明け暮れていた。特にやりたいこともなく、用事と言えばバイトとゼミぐらいだった。空いた時間は、説明会やインターンに行って、そのうちいくつかからは仮の内定をもらっていた。

そんな日々の中、ゼミの後輩に告白された。今年に入って三回目だった。どうしてこうも私と繋がりたがるのか理解できない。彼氏と別れたら私の隣は空席同然で、誰でも座っていいと思われているようだった。単純に不快だ。

告白してきた男共は、誰も彼もが一目惚れだと言った。もちろん私は拒まなかった。けれど、就職活動で構ってやる時間があるわけがなかった。そんな私に、

「付き合いが悪い」

 と今年三番目の彼氏はうるさく言い、私のアパートにまで頻繁におしかけようとしてきたこともあって、夏休み前に早々に切り捨てた。しばらく、私の周辺をうろうろとしていたときもあったが、研究仲間の男たちが多少睨みを利かせてくれたのか、すぐに静かになった。

それ以来、告白はされていない。

秋学期が始まってからは、いつも以上に私の周りに人が寄り付かなくなっていた。人に群がられるのは元より嫌だったこともあって、そこまで気にはしなかったが。

「だいぶ前からだけどさ、橋本さんなんか悪い噂流されてるよ。特に後輩の中でさ」

図書館で資料を探しているとき、研究仲間の松本くんが「余計なお世話かもしれないけど」と言いながら、私にこそこそと耳打ちした。私はすぐに何のことか察したけれど、心底どうでもいいと思った。捨てられた男どもの負け犬の遠吠えにもならない噂を気にする必要性が私には全く感じられなかった。

「大丈夫よ。ずっと前からだもの。とっくに慣れちゃった」

 私は「だから気にしないで」というように松本くんに微笑みかけた。

「それならいいんだけど」

 彼は小声で言って、また黙々と資料探しを始めた。

 ◇

 私が男を拾っては捨ててを繰り返しているうちも、宮部さんとの関係は健在だった。それどころか最近はやたらと親密になってしまっているような気がする。宮部さんの前だと何を話してもいいんだと思えるようになった。大学の男たちの話、色目を使ってくる薄汚い教師の話、バカ騒ぎだけしてまともに告白もできないチキンたちの話。

自分を宮部さんに、男性にさらけ出すこと。今までそんなことはしない、とばかり思っていたことを私はしていた。不思議と、そんなに悪い気がしなかった。まるで、そうしていることが当然のような、それでいて素晴らしいことのように。

「最近ね、噂されてるのよ」

「どんな?」

「私が悪い女って噂」

 自分で言って、フフと笑ってしまう。別に嫌でもなんでもなかったのに、急に嫌なことのように話しだしてしまった自分がおかしかった。

「酷いなぁ」

 彼は私の肩をゆっくり抱き寄せた。私は彼の胸に頬を摺り寄せる。頑丈な胸板、太い腕、それでいて彼の筋肉の動きは私を包み込むように安らかだった。

「でもいいのよ。結局は私に捨てられた生物が喚いているだけだもの。全然気にならないわ」

 本心だった。あんな噂も、昔の彼氏とかいう存在も、どうでもよかった。

「シズカはまっすぐだ。とても、ね」

 彼はうっとりするように言った。

「まっすぐ? 私が?」

 驚いた。変な私がどうしてまっすぐなのか、さっぱりわからなかった。

「あぁ、まっすぐで、周りを恐れない。みんな周りを気にして曲がっちゃうんだけど。シズカはそうじゃない」

 彼の言葉を聞いていると、私もそう思えてきた。そうか、私はまっすぐな人間だったんだと。それだけで、私の中が綺麗に洗われたような清々しいほどの爽快感が胸を包んだ。

私と宮部さんの関係は大学三回生の冬まで続いた。お互いに愚痴を言い合いながら性を交わすだけ。それでいて夢のような時間帯でもあった。私が夜のシフトに入る水曜日、その閉店後は私たちだけの時間だった。

クリスマス直前の水曜日にも、きっとベッドに誘われるだろうと思っていた。なのに。

「ごめん。明日は早めに帰らないといけないんだ」

 直前の火曜日。帰ろうと裏口から足を踏み出した時にそう言われた。凍えるような寒さの中、私は薄暗い路地から彼を見つめる視線を動かせずにいた。ざわざわと騒がしい街の喧騒が消えて、耳鳴りが頭の中に響いた。

「どうして?」

耳鳴りが収まった時、私は聞き返していた。私の唇が寒さからか、それとも不安からか、急に震えた。震えた唇が発した私の声は、酷く弱々しい。

裏口に立つ彼は渋い顔をして私を見た。彼が答えるまでの時間が異様に長く感じられる。

「妻がね、最近疑ってるんだ」

その時、私は初めて宮部さんは他の女のモノなんだということに気が付いた。ずっと前からわかりきっていたことなのに。信じられなかった。わかってくれ、というようにポンと肩を叩かれ、店長は店の中へ引き上げていった。

わかってくれ? いや、ちゃんと私はわかっていた。わかっていたのに、さっきよりも異様に寒くなった外にとり残された私は、しばらく裏口の前から動くことができなかった。

ショックだった。

 宮部さんが私よりも妻を優先したことではなく、そうされた私が落ち込んでいることにショックを受けたのだ。自分があれほど忌々しいと思っていた感情を、宮部さんに求めていることが許せなかった。所有して欲しいという、感情を。

 もう宮部さんとの関係を止めよう。その日の帰り道はただそれだけを考えていた。宮部さんは絶対に私より家庭を優先する。毎回、一時間でことを終わらせるのはそのためだとわかっていた。ちゃんと、わかっていたはずだ。

宮部さんは私を所有していない。私はただのお遊びの不倫相手で、だからこそとっても楽だったのに。今更、所有して欲しいなんて。私は、私が馬鹿だったの?

 私は女性専用アパートの白い玄関に今にも崩れそうな足を動かしてたどり着いた。そしてその場で、明かりも付けずに泣いた。鞄を床に落として、立ったまま泣いた。暖房のついてない暗い部屋は、外よりも一層寒く感じられた。玄関の扉に背を預けた途端、膝から一気に力が抜けて、ずるずると座り込んだ。茶色いお気に入りのコートの裾で収まらない涙を拭いた。何度か嗚咽が漏れて、そこからは声を抑えることができなかった。

 彼の肌のぬくもりが一層恋しくなった。

「あ、あぁ……ううっ……」

 ◇

 私はソファの上で目を覚ました。窓の外にはもう日が出ていた。私はずっと泣き止まないまま、ソファに寝転がって、知らぬ間に眠ってしまったらしい。コートも脱がず、鞄は玄関に倒れたままだった。鞄を取りに行く気分には、全くならない。

 洗面所に行って顔を洗おうとして、鏡の前に立つと、もうどうしようもないぐらいドロドロだった。面倒に思えてそのまま風呂場に向かう。

シャワーを浴びて、ボサボサになった髪を洗剤で綺麗にし、化粧も落とした。温かい水が夜中に冷えた体をじんわりとほぐしていく感覚が全身を包んだ。その間、私は目を瞑っていた。

 目を瞑っていると宮部さんのことを思い出す。二人きりの片付け、交わしあった愚痴、交わり合った体、私の気持ち。シャワーよりも熱い悲しみの感情が、頬を伝っていくのが分かった。

そのまま全て、流れてしまえ。そう思った。

お風呂から上がると、昨日のことが嘘みたいに落ち着いていた。固まっていた身体はほぐれ、感情的な高まりは静まり、淡々と自分の状況を確認していた。

ソファに深々と座って、

「宮部さん」

 と呟いた。自然と、息をするように名前が出た。

 好きだったんだ。自分でも知らない内に、好きになってしまっていたんだ。

 馬鹿だな、私。

捨てられることなんてわかってたのに。それでも、宮部さんに恋をしてしまうなんて。本当に馬鹿なことだ。そう思っても、宮部さんへの気持ちが変わるわけではなかった。

朝日が斜めに差す部屋の中で、声が聞きたいと思った。すぐに電話がしたいと思った。会いたいと思った。けれど、どれも行動へ移す気にはならなかった。ソファから立ち上がり、何人目かの彼氏がくれたコーヒーをドリップして入れた。

コーヒーの香りが私をより一層冷静にした。私が淹れたコーヒーはかなり薄かった。砂糖と牛乳を入れると、コーヒーの影はすぐに消えてしまった。

「ちょっと、甘すぎたかも」

 かさの減ったコップにコーヒーを注ぎ足した。それでも、コーヒーの味は薄いままだった。牛乳と砂糖の甘さだけが主張している。またかさが減っては薄いコーヒーを注ぎ足した。ぼんやりとずっとそれを繰り返す。すると牛乳の味も薄まって、ただの水のような味になっていった。

その時には、太陽が一番高いところに達しかけていた。

あのクリスマス以来、暫くは私と宮部さんの夜の関係はほとんどなくなっていた。そのことに、私は心なしか安堵していた。けれど一月末が近付いてきたころ、宮部さんがまたそういう目をしてきた。

私は自分の中で揺れた。甘い欲望と自衛の意思の間で、自分の思いが行き来した。結果として、私は彼と一時間の夜を過ごした。誰もが流れ星を意図的に止めることができないように、この甘く激しい衝動も誰にも止められることはなかった。

行為を終えて寒い外に出ても、私は心も体も火照ったように熱かった。今までの夜とは全く違う濃厚な一時間のように思えた。幸福だった。でもその分だけ不幸になるとわかっていた。

どうしようもなく寂しかった。車に乗り込んでいく宮部さんを見ると、涙が出そうになる。

あぁ、このまま違う人のところに帰っちゃうんだ。

そう思ってしまうと、後はどうしようもない。車の出ていった小さな駐車場にただ暫く立ち尽くして指で目元を拭うことしかできなかった。

こんなに悲しくて辛い恋愛を、私は知らなかった。まるで犬みたいだ。私は宮部さんに赤いロープの手綱を握られながら、一時間だけ散歩させられて、後は犬小屋に返される。そして、飼い主の家から漏れる光の中を想像して、どうしようもなくなるのだ。

もう嫌だと何度も思ったけれど、毎週水曜日は、一時間だけの夜があった。いつものように身体を重ねる一時間。私はそれに縋るしかなかった。

家に帰ってからは、もうここが悪い夢の中なのか、別の世界のように見えて、また来週水曜日の希望だけを見て過ごす日々が続いた。

気が付けば大学四回生になっていた。やることはゼミと卒論と、少々の単位をとるだけ。大学に通う回数が大きく減ったのもあって、告白されることはもうなかった。卒論を考えながら、バイトに通う日々。大学はほとんど私を縛らなかった。

研究仲間の松本くんは、卒論がまとまってきても相変わらず研究に入り浸っているようだった。

「ちょっとまだ調べたいことが……」

 とぶつぶつ言いながら、図書館に行っては籠っているようだった。他の研究仲間たちは就活と卒論を先延ばしにし、あるものは単位が足りないと叫び散らかし、阿鼻叫喚の地獄絵図を校内に描いていたが、私は最低限ゼミに顔を出す程度で、彼らとの関わりも希薄なものになっていった。私の息抜きの場所がまた一つ消えていった。

気付けば一人になっていた。バイトと宮部さんだけが生きがいのような感覚が、私をどんどんと追い詰めていく。そして、私や世界そのものが宮部さんの都合のいいように回ってきているような。

もう、このままでもいい。

私はバイトの日数を増やした。とにかく何もしない時間を過ごしたくなかったのだ。最近はふとした時には宮部さんのことが頭の中をめぐってしまう。

しかし、どれだけバイトの時間を増やしても、私に夜がやってくるのは毎週水曜日の一時間だけ。私はそれだけでは物足りなくなっていた。

暑い夏の日。昼間の太陽の温度をアスファルトがため込んで、夜にもむっとした空気が漂っていた。いつも通りに二人で片付けをしていたその日、私は彼に思い切って言った。

「今週末も会いたいわ」

彼が調理器具を丁寧にしまっていく音がする。相変わらず落ち着いていて、静かだった。けれど、その空気は緊張していた。

「いつ?」

「もちろん、夜に」

 私が言うと、彼は少し黙った。カチャカチャと音が響く。

「無理だよ。僕には家庭がある」

「どうだっていいわ」

 その時、私は涙を流していた。そして彼を見ていた。そんなことどうだっていい。私はあなたと一緒にいたい。ただ、それだけを叶えて欲しかった。それ以外のことなんて、本当にどうでもいいことのように思えた。いや、本当にどうでもよかった。

彼は悲しそうで、それでいて申し訳なさそうな器用な顔をして私を見ていた。

「こんなつもりじゃ、なかったんだ」

 彼は下を向いてそう言った。そして私の横を通り抜けて、片付けを再開する。

私は真顔のまま涙を流した。もう嫌だ。こんなにも悲しいのに、こんなにも怒りがこみあげてくるのに、私がまだ彼のことを諦めきれていないのが、自分でも信じられないぐらいに嫌だった。こんな、こんなどうしようもない男に。

「帰ります」

 絞りだすようにガラガラの声でそれだけ言って、片付けも最後までせずに店を出て、帰路を辿った。家に帰っても一人だった。携帯には着信もメールも何もない。一人は嫌だった。けれど、誰かに会いたいような気分にもなることはできなかった。

『顔ばっかりよくてもさ』

「ほんと、上手くいかないのね。恋愛って」

次の週、一度も休まなかったバイトを全て休んだ。

「シズカちゃん、大丈夫? 先週休んでたから心配したのよ」

 久しぶり話した相手は電話越しのバイト先のおばさんだった。

「店長さんに聞いたら、体調不良だって言うじゃない。それで一週間も来ないなんて珍しいから、一体どうなったんだろうと思ってねぇ」

 本当に心から私を心配してくれている、優しい声だった。

「ごめんなさい。でも、最近ほんとうに体調が優れてなくて」

「いいのよ。ゆっくり休んでちょうだい。これからも休むなら私が店長に言っといてあげるから。今は夏休みでバイトの子もなんとか足りてるからね。ただ私が個人的に気になっちゃったもんだから。お節介かもしれないけれど」

「ありがとうございます。はい、じゃあまた」

電話を切った後でも、おばさんとのやり取りの中で感じたぬくもりが心に残っていた。人の暖かみに触れたのは、本当に久しぶりだ。恋愛のような焦げるような辛さもなく、友人のような平べったい温度でもなく、心の奥がじんわりとほぐれていくような温もりがあった。

 急に人恋しくなって、実家に電話をかける。仮内定をもらった時以来だ。もう実家に戻ったのは二年も前だった。電話には母が出た。少し近況をはぐらかしながら話した後、今すぐ帰ってもいいかと聞くと、

「あんたの部屋なら、いつでも綺麗にしてあるよ」

 と言ってくれた。急に涙が込み上げてくる。それを私は何とか堪え、電話を切った。その日のうちに実家に行く電車に乗った。いつもは鈍行で三時間かけて帰るところを、特急に乗って一時間半で帰った。

「おかえり」

駅には父が迎えに来てくれていた。仕事帰りのスーツ姿だった。前に会った時と少しも変わらない穏やかな笑顔をしていた。

「ただいま。久しぶり」

「さぁ、帰ろうか」

 私は助手席に乗り、父が運転した。車内にはいつの時代かもわからないバンドの曲が流れている。車の中で父は私にとってはなんでもないことを話していた。最近、地区の神社の鳥居が崩れそうなんだとか、ご近所さんの畑にイノシシが出ただとか、田舎らしい話題ばかりだ。けれど、今の私にはそれぐらいの話題が心地よかった。

 家について「ありがとう」と言って車を降りる。父は「車を車庫に仕舞ってくる」と言って、そのまま車を運転していった。

「おかえり」

 玄関を開けると母が顔を出した。「ただいま」と言うと、母は私から何かを感じ取ったのか。電話した時点で既にわかっていたのか。

「お疲れね。今日はご飯食べてお風呂入って寝ちゃいなさい」

 そう言って湯気の立つ台所に戻っていった。

 手洗いうがいをしてから、二階の自分の部屋に行った。大きな窓が付いていて、まだ夕日の光がフローリングの床に射し込んでいる。日向ぼっこでもしようか、と床に寝転ぶ。

私にはそこまでものを持つ趣味をしていなかったこともあって、部屋の中はベッドと学習机が置いてあるだけ。綺麗ではあるけれど、酷く空っぽのような気もした。でも、その雰囲気が心地よくもある。ベッドは今日干されていたのか、まだ太陽の匂いがした。窓越しの夕日に温められて、私はうとうとと眠りについた。

「ごはんよー」

そう一階から呼ばれて、ぼんやりと目を覚ました。もう外は暗くなって、部屋もびっくりするほど寒くなっていた。

急いで一階に降りて食卓についた。お腹が空いていたのだ。晩御飯は私の好きなブロッコリーが入ったクリームシチュー。良く煮込まれた野菜たちが暖かいシチューに絡む絶品だ。三人で「いただきます」をした。窓から吹く夜の涼しい風を感じながら、食卓の周りはぬくもりに満ちているようだった。

食事が終わった後も両親は私に特に何かを聞き出すような素振りは見せなかった。ただ話したければ話しなさいという態度を、ずっと維持しているように思えた。母が食器を洗う音を聞きながら、私は寝転がる父と一緒にプロ野球を見た。阪神と中日が試合をしていた。

私は結局宮部さんのことは話さなかった。もともと話すつもりもなかった。ただ、自分を愛してくれる人の元に行きたいだけだった。

「ねぇ、お父さんってなんでお母さんと付き合ったの?」

 プロ野球を見ながら、私は聞いた。父は「よいしょ」と体を起こしてあぐらをかいた。

「なんでだったかなぁ」

「わからないの?」

「なんだか好きだなと思って、付き合って、気が付いたら結婚してた」

 そんな適当な、と思ったけれど、そういうものなんだろうとも思えた。好きになって付き合って結婚する。何も変じゃない。むしろ、そこに何か理由を求めているからこそ、私は「変」なのではないか。そういう風に感じた。

野球の試合はもう九回裏になっている。バッターが打ち上げたフライをライトの選手がキャッチした。ゲームセット。

「あちゃ、また負けちゃった」

 これで阪神は、また三連敗らしい。

「おやすみなさい」

 そう言って、私は自室のベッドに、両親は敷布団のある寝室に向かっていった。

カーテンを閉めて、明かりを消して、暗闇の中でベッドに入る。すると、いろんなことがフラッシュバックしてきた。今まで辛かったこと、またバイトに行ったときの不安、過去と未来のマイナスな思考が頭を巡回し始めて、私は掛布団を縦に丸めて抱きしめるようにして堪えた。

カーテンの隙間を縫って入ってくる月光が、私の背中を震わせるようだった。二つドアの先にある両親の寝室に逃げ込みたいと思った時には、私は既に枕を抱えてベッドから這い出ていた。

「一緒に寝てもいい?」

恥ずかしかったけれど、両親が寝ている寝室に行って、素直にそう言った。

「困った赤ちゃんだね」

 そう母は言って、私を敷布団に招き入れた。父は黙って寝たふりをしているようだった。三人で入る布団は暖かかった。自然と両親とパジャマ越しに肌が触れた。それだけで、何かに守られているような気がした。

 宮部さん以外にも世界があるような気がした。

 ◇

夏休みが明けて、バイトにも戻った。私が長期の休みを取ったからか宮部さんは暫く私を片付けのシフトに入れなかったし、当然のように夜も誘われることはなかった。

 宮部さんへの恋心が消えたわけではない。けれど、もうあんな辛い思いはしたくなかったし、宮部さんの家族のことを考えると、自分のしていたことの罪悪感がじりじりと私の良心を蝕んできていた。そうした意味もあって、誘われないことに正直安堵していた。

 ハロウィンの季節になって、バイトも忙しい時期になった。夜のことなんてそっちのけで、宣伝のポスターやハロウィンの装飾を作るなど、忙しなく働いた。働いて何も考える暇がないときが、一番心に余裕のある時間になっていた。そして、仕事が終るたびに、もうこのまま宮部さんとの全てを切ってしまおうと思った。

「え? 今月で辞めちゃうの?」

宮部さんは困った顔で言った。私が十一月いっぱいでバイトを辞めさせてほしいと言ったからだ。もう宮部さんとの関係もどうにかしなければいけないと思っていたし、クリスマスまでこの店に居続けると聖夜の空気に流されてしまいそうな自分がいるからだった。

 果たして宮部さんは了承してくれた。とても快くといった風ではなかったけれど。それでも、最後の勤務の日には送別会を開いてくれた。場所は近くの飲み屋のチェーン店だった。

バイトのおばさん達からは沢山の労いや励ましの言葉を貰った。なんだかんだ四年間も一緒に働いてきた人たちだ。頼れる仕事仲間でもあったし、良い話し相手でもあった。私より後に入った後輩の女の子たちも元気に送別会に顔を出してくれた。そう考えると、私はとても素晴らしい場所にいたような、そんな気がした。

 宮部さんとの関係で離れようと何度も思っていたあの場所が、急に愛おしい温かい場所のように思えた。最後に宮部さんから花束を受け取って、みんなから拍手を貰った。その時は宮部さんのこともさっぱり忘れて涙が出た。その涙は温かいまま頬を伝っていった。

バイトがなくなると私の日常は一層淡白なものになっていった。当然と言えば当然だった。しかし、特にすることもなかったので、久しぶりに大学に顔を出した。知り合いの顔を探したが、なかなか見つからなかった。

 ただ研究室を覗くと、相変わらず松本くんがぶつぶつ言いながら作業をしているだけだった。

サチのことを思い出して、いつも通っていた喫茶店にも訪れてみたが、気配すら感じなかった。ショートケーキとホットコーヒーを頼んで、窓の外を見ていた。

窓ガラス越しに何番目かの彼氏が知らない女と手を繋いで歩いて行った。

 私が全く別の世界に取り残されたような、変な気持ちになった。

 ◇

 クリスマスの日はあっという間に近づいてきた。彼氏はいない。でも、そのことで何かを喪失したような気持にはならなかった。別に就職するまでは暇なのだし、実家に帰ってもいいなと思っていた。

 二十二日、クリスマス・イブの前々日。宮部さんから連絡がきた。二十四のクリスマス・イブの日に入る予定だった子が急に来れなくなって人手が足りないということだった。バイト代は出すから、代理で来てほしいと言われた。私は断りたかった。

「はい。わかりました」

 携帯電話の向こうで「ありがとう」と声が聞こえて、はっとした。自分は何をしているんだろうと、すぐに後悔が頭を駆け巡る。

「じゃ、よろしくね」

思考がまとまらない内に、電話は切れた。静かなアパートの部屋の中で、ツーツーという音だけが流れた。クリスマスのバイトだ。あまりいい予感はしなかった。宮部さんが根回ししたかのように、おばさんからも電話が来た。

「来てくれると本当に助かるわ」

本当に感謝しているみたいな声で、そう言われた。もうその日のバイトを断るという選択肢は私の中からは消し去られてしまった。けれど、嫌な予感はぬぐい切れない。宮部さんが私を誘うことではなく、誘われた時にそれにのってしまいそうな私の心が何よりも恐ろしく思えた。

 クリスマス・イブの日。特に忙しくなる昼からバイトに入った。

「お久しぶりです」

 と一人一人に挨拶をした。みんな笑顔で私を迎えてくれた。その笑顔を見ると、やっぱりほっとする場所だと思えた。

「今日はごめんね。よろしく頼むよ」

 宮部さんはそれだけ言って、作業に取り掛かっていった。そこからは、怒涛のお客さん捌きだった。次から次へとやってくるお客さんの相手をする。なんだかんだ人気店なんだなぁとふと呑気なことを考えているうちに、やることがどんどん回ってくる。

 夜の七時を過ぎるとお客さんの数もぐっと減った。もう大体の人たちは予約の品を買って帰って、穏やかな明かりのついた部屋の中で家族や恋人と一緒にケーキを囲んでいる頃合いだ。店内には既にお疲れ様という雰囲気が漂っていて、家庭のある方々は制服から着替えて家へと戻っていった。

 八時が近付いて、

「そろそろ片付けをしようか」

「はい」

 私たちは片付けを始めた。宮部さんの目は揺れながらもそういう目をしていた。私は気にしない振りをして、やり過ごす。でも、向こうから言葉で誘われたらどうしようという不安が私を襲った。

「看板を片付けてきます」

 私は避けるように外に出た。この辺りでは珍しく雪が降っていた。積もるというほどではないが、僅かに白い膜が地面にできているようだった。私はふぅと白い息をついて、看板を片付け始めた。

「あの、すみません」

 声をかけられた。コートとマフラーで厚着をした若い女性だった。心なしか青白い顔をしていた。しかし、手袋をしていない手は赤く光っていた。

「はい?」

 私はできる限り笑顔で答えた。それは女性が、なんだかものすごく悲しそうな顔をしていたからだ。どうしようもないような、それでいて何かに縋っているような。

「ショートケーキの予約をしていたんですが、今からでも受け取れますか」

 もう閉店の準備は始まっているが、私はケーキを渡してあげたいと思った。少なくともこのままこの人を返すわけにはいかないと、私のどこかが思っているような気がした。

「少々お待ちください」

 私は店内に入って調理器具を片付けていた宮部さんに、そのことを話した。

「わかった。準備するから、店内に入って待ってもらって」

 私はあの寒い中、お客さん立たせてしまっていることを思い出し、慌てて店の外に向かった。お客さんは、ぼーっと放心したように降る雪を眺めているようだった。

「寒いですから、入ってお待ちください」

 私が声をかけるとお客さんは頷いて、店内に足を踏み入れた。それから店内をゆっくり、ぐるりと見渡しているようだった。ショーケースに一つだけ残ったミニケーキに一旦目をとめて、そしてまたぼーっとしていた。今日来たお客さんたちとは全く気配が違う。その様子は私を不思議と不安にさせた。

 宮部さんに呼ばれて、予約の品を受け取り、レジに戻る。

「お待たせしました」

 お客さんは、財布を開けながらレジに向かって歩いてきた。そして、痛々しいような笑顔で、

「ありがとうございます」

 と言った。たいていのお客さんなら誰でも言う言葉のはずがずっと重い言葉のように。彼女の雰囲気がそう私に思わせた。ふと、サチの顔が脳裏を過った。あの夢だけを見ているようなサチの顔の形。現実から目を離して、先の幻想だけを語っている時のサチの瞳、口の動き、雰囲気。

 急にサチのことが不安になった。そんな時に彼女から距離を置いた自分に酷い罪悪感のようなものを覚えながら。

「いえいえ。今日は特別な日ですから」

 励ますようなつもりで、なるべく明るく言った。彼女が「ありがとう」と言った顔は上手く作れてない笑顔だった。私はもしかして酷いことをしてしまったのではないかと、身体全体が熱くなった。ショートケーキの入った箱を抱えながら店を出ていく彼女の後ろ姿を私は暫く釘付けになって見つめていた。

「お疲れ様。さぁ、あと少し片付けてしまおう」

私たちは片付けを再び始めた。店の外の電灯を消し、シャッターを閉めて、店内に流れていたクリスマスソングを止めると、急に店内がしんと静まり返って、私は早く逃げ出したいような気持ちになった。宮部さんに何か言われる前に更衣室に逃げ込んだ。私服に着替えて、制服をたたむ。またこの制服を返すためにここを訪れる必要性があると考えると、嫌だった。

 更衣室を出ると宮部さんがいた。私はびっくりして、更衣室のドアに背中が当たった。宮部さんはぼそぼそと言った。

「妻が、疑ってるんだ。まだ」

 宮部さんは黙った。私は何を言えばいいのかわからず黙っていた。ただ心の中では知ったことではないと思っていた。

「だから、最後。これが最後なんだ。だから――」

 宮部さんはそういう目をしていた。ギラギラとした、性急で、私を求めている目。

「いや!」

 私は制服を宮部さんに投げつけて、裏口のドアに走った。足音は追いかけてこなかった。裏口の扉の前でわずかに振り返ると、制服を取りこぼした店長が、ただ下を向いていた。私は扉を閉めて、また走った。白い息を吐きながら、クリスマスに染まる道を走った。雪がわずかに積もって、無数の足跡が付いていた。

どこもかしこも男女ばかりだった。公園のクリスマスツリーが目の前に見えた。青と白の鮮やかなイルミネーションが目に染みるようだった。

 どこにいても耳に触れるクリスマスソングよりも、車道でかき鳴らすエンジン音の方が心地よく感じた。

私はクリスマスツリーを遠巻きに見られるベンチに座った。心臓の音が体の中から耳まで聞こえてきた。息も切れて、落ち着くまでにしばらく時間がかかった。

呼吸が整ってくると、代わりに涙が出てきた。目尻がじんじんと痛む、熱い涙だった。私には分からない。宮部さんに抱いてほしかったのか、そうではなかったのか。けれど、これで良かったと思う私もいた。私の気持ちがどうであっても、彼とは離れるべきなんだということ。それを理解していた私がいた。

けれど、それでも、愛されたかった。どうしても、その気持ちを止めることはできなかった。声を抑えようとして、嗚咽のようなものが出た。私は暫く泣き止むことができなかった。そうして、人の愛が恋しくなって、戻りたいという思いが強まっていく。私を愛してくれる場所に戻りたいという思いが。

もう一度、家に帰ろう。両親に会おう。そして、この心が整理されたら、また何かを始めようと思った。私はベンチを離れて歩き出した。すぐに実家に戻れるわけでもない。とりあえず温かいシャワーが浴びたかった。

街の喧騒に背を向けて歩いた。歩道の端で背を縮めるようにして、道行くカップルの逆方向に進む。誰も彼もが、愛し合っているようだった。

色んな形があった。腕を組む人、手を繋ぐ人、ペアルックの人、人目を気にせずに口づけをする人。嫌でも目に入ってしまう人々を私は避けるように歩いていた。しかし、楽しそうに話しをするカップルの一組が私を見て、ばっちりと目が合った。私はひどく恥ずかしい思いをして、早足になってその場を離れた。

歩道を行く人と目を合わせないように俯いて歩いく。早足になったせいか、看板に足を引っかけて雪の上に転んだ。あまりに悔しくて、もう泣きそうだった。

「おい、大丈夫か」

 と声をかけられる。私はものすごく小さな声で「大丈夫です」と言った。

「あれ? 何してるんだ、こんなところで」

 はっと顔を上げると、生地の薄そうなサンタクロースの衣服を着た松本くんがいた。私は驚いて、黙ってしまった。逆に、なんで松本くんがここにいるのか、という疑問が浮かぶ。それよりも先に私は泣いていた。安堵していた。これ以上ないぐらい。男友達と、こうして出会って、声をかけられて。

「どうした? 大丈夫か?」

 私は首を振った。彼は私の様子に困惑していた。私の肩のあたりで手が宙に浮いて、どうすればいいのかわかっていないようだった。私は彼の左腕の赤い裾のあたりをがっと掴んだ。俯いて顔は見せないようにした。

「今日、時間ある?」

「え、バイトなら九時には終わるけど」

「じゃあ、待ってる」

 と言って私は彼の赤い裾を離した。すると、彼と一緒に店頭でケーキを売っていた男性が彼に声をかけた。

「松本、今日はもうあがっていいぞ。給料はきっちり出してやるから」

「はぁ、じゃあちょっと待ってて。着替えてくるから」

 彼は慌てて店内に戻っていった。彼の働いていた店は大学近くのケーキ屋さんだった。私は一人でケーキを売るサンタから少し離れたところの屋根の下で彼を待った。時々、通り過ぎる人々が私を見たけれど、もうその視線はほとんど気にならなくなっていた。

「おまたせ」

ごてごてと厚着をした彼が出てきた。大学からそのまま来たのか、重そうな鞄も背負っていた。彼は二言ほど店員と言葉を交わしてから、

「どこに行こう」

 そう私に尋ねた。

「あなたの家がいいわ」

 即答した。彼は驚いた顔をしたが、

「散らかってるから、片付ける時間が欲しいけど」

 構わないわ、と言いそうになって自分が随分偉そうだと思った。急に今までの自分が恥ずかしく思えた。

「ありがとう」

 と私は言った。

「近くなんだ。すぐ着くよ」

 そう言って、彼は黒い傘を開いた。まだ白い雪が降っていた。彼は私をちらりと見てから、暫く目を泳がせながら言った。

「入る?」

「うん」

彼は大学から本当に近い二階建てのアパートに住んでいた。大学に通う道沿いにあるアパートで私が何度も通り過ぎた建物だった。大学からの距離は歩いて三分もかからないだろう。彼がしょっちゅう大学の研究室にいるのも納得がいった。

「ちょっと待っててね」

 彼は鍵を開けて、暗い部屋の中に入っていった。外はまだ雪が降っていた。少し前は小粒な雪だったのに、今はもう綿のような雪が降っていた。優しく地面に降り注いでいく景色を見ていると、ぼんやりと綺麗だなぁと思った。そう思えることが不思議なようだった。

「どうぞ」

 扉が開いて彼がそう言った。私は「お邪魔します」と彼の部屋に入っていった。いかにも下宿生といった感じの部屋だった。とにかく狭い、人が二人立ったらいっぱいの台所兼廊下。テレビと机とベッドを置いたら後は人が一人寝れる程度のスペースしかないリビング。

「ベッドにでも座ってくれたらいいから」

 そう言われるままにベッドに座ってしまうほど、その部屋は狭かった。ものが溢れて足場がないとかそういうことではなく、単純に面積が小さかった。むしろ部屋は適度に片付いていたし、生活感がないわけでもなく、部屋の端に積まれたプリント類以外は無難な一室だった。

「何か見る?」

 と彼がリモコンを私に手渡した。テレビはクリスマスの特番や、街の様子など、そういう世間のクリスマスの話で溢れていた。私はチャンネルをぽちぽちと変えながら、最終的に無難なニュース番組を見た。やれ誰が殺されただの、逮捕されただの、ろくでもないことばかりが流れていた。

「晩御飯食べた?」

 私は「食べてない」と答えた。

「じゃあ、今から作るよ。僕も何も食べてないんだ」

「朝から?」

「まさか。昼からだよ。ずっとあそこに立ちっぱなしだったから」

 彼が台所で料理をする音が聞こえてきた。包丁がまな板をうつ音、湯が沸く音、シンクにモノがおかれる音。ニュースを見ていたけれど、その音の方が私の耳にはよく入った。音を聞いている限り、彼の手際は随分と良さそうだった。意外だったけれど、下宿で四年も料理をしていれば、上手くなるのも当然のように思えた。

 シチューの匂いがしてきて、私はテレビから視線を外して台所を見た。

「あ、嫌いな食べ物ってある?」

 今更なことを彼は私に聞いた。私は「ないわ」と答えた。

「よかった」

 彼が作ってくれたのは、ちゃんとブロッコリーが入ったクリームシチューだった。二人でいただきますと言って、隣同士で黙々と食べた。彼はテレビを見ながら食べていたし、私は何故か泣きそうになってしまった顔を隠すように食べることに集中した。

でも、彼はティッシュの箱をこそこそと私の傍に置いてくれた。取ったら負けだと思ったけど、なんで意地張ってるんだろうと思って、ティッシュを目に当ててぐずぐずと泣いた。

「食器洗いは私にやらせて」

 彼は「助かるよ」と言って、洗剤の場所や洗い物の置き場所を教えてくれた。

「じゃあ、悪いけどよろしく」

 そう言って彼は戻ってベッドに座りながら、バラエティー番組を見ていた。冬場の台所は思ったよりも寒かった。出てくる水も冷たくて、手がかじかんできた。

食器の音と、水の音。隣から聞こえてくるテレビの音。ちらりと部屋を見ると彼の横顔が見えた。不思議だった。部屋でテレビを見ている彼がいて、台所で食器を洗っている私がいること。それ自体がすごく不思議なことで、素敵なことのように思えた。

私と彼はまだ体を重ね合ってもいない。なのに、心から染み渡るような暖かさが私を満たしていった。

「ねぇ、今日泊まってもいい?」

 食器を洗い終わったあと、私は特に何も考えもせずに聞いていた。彼はまたあっけにとられたような、困惑した顔をしていた。部屋全体を指すように腕を広げて、

「すごい狭いよ?」

と彼は言った。また構わないわと言いかけて、飲み込む。

「大丈夫。それでもいいから」

 彼は頭をかきながら、「仕方がないか」と呟いた。

「じゃあ、コンビニ行こうか」

「お酒でも買うの?」

 本当はこの時、避妊具でも買いに行くのかと思っていた。

「違う違う。歯ブラシがいるでしょ?」

 私はあっけにとられるのも忘れて、笑ってしまった。二人で買い物に行った。彼は傘を一つしか持っていなかったから、相合傘をした。雪が外灯の光にさらされている部分だけ見えた。近くのコンビニには、外から見てもまだ学生が多くいるようだった。

相合傘して私たちに何度か視線が向けられるのがわかる。でも、私たちは自然だった。相合傘をしていることが私にとっては自然なように思えた。けれど、彼は恥ずかしかったのか少しそわそわして早足になった。

 コンビニもクリスマス仕様になっていた。置き場がないのか、サンタクロースは不在だった。緑と赤の飾りがちらほらと添えられていた。彼が他の商品を見ている間に、私は歯ブラシと下着を買った。彼は飲み物のコーナーを見ていて、コーラを手に取っていた。

「買うもの決まった?」

「えぇ、だいたい」

「他に買いたいものは?」

 私はコンビニを見渡した。飲み物コーナーの隣、一つだけ残った小さなホールケーキがあった。私たちのために残されたようにそこにあった。クリスマスのホワイトチョコカードが乗っているだけの、真っ白なクリームホールケーキだった。

「これ、食べない?」

「まぁ、せっかくのクリスマスだしね」

 彼はそう言って、ケーキを手に取った。私たちは別々に会計した。そして、また傘の下に二人で入って、彼の下宿に帰った。

「ただいま」

 彼は誰もいない部屋に言った。つられて私も、ただいまと言った。

「おかえり」

当たり前のように彼に返されて、この狭い部屋がまるで私の家のように思えた。自分の下宿に戻ったときよりも、帰ってきたという感情が強く溢れた。次第に目尻が熱くなって、彼のことがとても輝いて見えた。

 私は幸せだと思った。誰かと恋愛関係を持っているわけでもないのに。ついさっき、宮部さんとの関係がなくなったばかりなのに。私は男友達とこうして、ただいまとおかえりが言い合えるこの関係に、これ以上ないほどの幸せを感じた。

 小さなホールケーキを二人で半分に分けて食べた。クリームシチューを食べたばかりだったけど、甘いものは別腹に入っていくようだった。

 ふと、今日の最後のお客さんのことを思い出した。彼女はケーキを二つ買っていったけれど、今頃誰かと一緒にこうして食べているのだろうか。そうであればいいなと思いながら。

「おいしいね」

 と二人で言い合って食べた。別にカップルでもなんでもないのに。

『あなた、ちょっと変よ』

 サチが言った言葉を思い出す。私って本当に変だったんだとその時に身に染みるように感じた。私はカップルだとか愛人だとか、そんな関係にときめくことがない。カップルになるのは面倒だし、愛人でいるのはとてつもなく辛い。逆に、こうして男友達と一緒にいることが、私を幸福にさせてくれる。

 ケーキを食べ終えて、お互いに交代でシャワーを使った。いつもなら、裸になった男がベッドの上で待っているようなものだけれど、彼は服を着て床に寝袋を敷いていた。

「ちょ、ちょっと服着て! 服!」

慌てて彼が視線を逸らした。私は裸で浴室から出てきてしまっていた。おかしくてつい笑ってしまった。彼が私から目を背けるように座っている内に、私は服をゆっくりと着た。

「もういいよ」

 私が言うと彼は、ほっとした様子でこちらを向いた。

「さて、歯磨きして寝よう」

 またお互い別々で歯磨きをした。テレビはついたままで、深夜の刺激的なバラエティー番組が流れていた。私たちはそれをぼーっと見てから、電気を消した。彼は寝袋で、私は彼のベッドで寝た。私は寝袋で寝るつもり満々だったのだが、

「女性を床で寝させるわけにはいかない」

 と言って聞かなかったので、ありがたく使わせてもらうことになった。彼はすぐに寝息を立て始めた。静かな寝息だった。思えば、一緒の部屋で別々に男性と寝ることは父親以外では初めてのことだった。ベッドから下をのぞくと、緑色の寝袋から出た彼の顔が、カーテン越しに透き通ってくる光でぼんやりと見えた。疲れているようでもあったし、満たされているようでもあった。

ふと、彼が目を覚まして目が合った。時間が止まったような、そんな気がした。そして、これから何かが起きそうなそんな刺激的な予感が私の中を駆けまわった。

「おやすみ」

 彼は、言い忘れていたことを言えたとばかりに満足そうな丸い笑顔を作って、また静かに寝息を立てた。私は彼から視線を外せずにいた。彼はなんて誠実なんだろう。友達として、その関係に対して頑なに誠実だった。感情や雰囲気、抗えないような本能的予感にすらも、彼は流されなかった。

『それって不誠実じゃない?』

 サチの言葉だ。私は不誠実だったのかもしれない。けれど、彼らも不誠実だった。私を傍に置いておきたいだけだったり、身体だけが目当てだったり、愛人にしといて愛してはくれなかった。だから、私は彼らに対して不誠実にならざるを得なかったのではないか。

 だって今、私の中にはこんなにも彼への誠実な気持ちが溢れているのだから。彼となら上手くいくと思った。お互い就職して離れ離れになったとしても、どこかにデートに行って、身体も交わして、結婚して、きっといい子が生まれてくれる。そんな幸せな予感をベッドの中で感じていた。薄暗い部屋の中で、ゆっくりと瞼が落ちていく。

暖かい希望を胸に抱きながら。

 朝。目が覚めると、部屋にはいい匂いがしていた。朝食の匂いだ。既に彼は寝袋をたたんで、台所で料理をしていた。私はベッドの暖かみに名残惜しさを感じながらも、肌寒い部屋にのそのそと起きた。

「おはよう。まだ暖房付けたばかりだから寒いでしょ」

 彼は私が起きたのに気が付いて、そう言った。私はおはようとだけ返した。それだけで、満たされていく私の心。自分に足りないもの、自分が求めていたものはやっぱりこれだったんだと確信した。

「もう少しでできるから、待ってて」

 私はテレビをつけて、ニュース番組を見ていた。クリスマスの話題がどんどん流れていった。今日の天気は晴れで、気持ちのいいデート日和になるとニュースキャスターが言った。台所で料理をしている彼の背中を見て、いろんなことを夢想した。そして、これからそれを叶えていくのだと。

「おまたせ」

 彼が運んできたのは、ご飯、目玉焼き、茹でたほうれん草、みそ汁だった。シンプルな朝ごはんは余計に自分の家のことを思い出させた。

「いただきます」

 と二人で手を合わせた。彼は目玉焼きを食べながら、

「僕、目玉焼きを二つ焼いたのなんて初めてだよ」

 そう言って、幸せそうに笑った。

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