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「凪の花束」 汽包

  • ritspen
  • 2020年7月26日
  • 読了時間: 17分

更新日:2020年7月30日

暗い病室。

規則的な電子音。

冷たい血液と押し黙るリノリウム。

カビ臭いカーテンに、

影さえ落とさず。

彼女はもう目覚めない。

チューブで命をつなぎとめて、

その日に流れ着いた。

午前零時のたましい。

桜の葉が風に揺れ、列車が通り過ぎた。薄桃色の花びらがぽつりぽつりと降り、コンクリートに水玉模様を作った。人はそれぞれの速度で改札を抜けていく。一人、少年がベンチで眠っていた。誰も気に留めることはなかった。遠くで警笛が鳴った。

ゆっくりと夢の底から浮かび上がる。意識が体につながって、けだるい四肢の感覚がほのかな熱とともに伝わった。強い光が瞼の向こうから視界を赤く染めていた。僕はいつの間にか眠ってしまっていたようだった。

いくつかの背中があった。刺繍の入ったセーター、厚手のパーカー、背広。まばたきするたびに現実がはっきりと輪郭を取り戻した。慌ててまわりを見渡したが、誰も僕を見咎める者はいないようだった。ため息をついた。滑り落ちそうな腰を背もたれの奥にやって、姿勢を正した。

列車が駅に滑り込んで止まった。開いた口から人影がするりと現れては、改札に消えていった。誰一人ホームには残らなかった。僕だけが列車と向かい合って、間の悪い沈黙が漂う。「お前は乗らないのか。そこで何をしているのだ」と列車が僕を責め立てた。

どうしても、列車に乗る気にはなれなかった。夢の名残がまだ僕を固いベンチに縛り付けていた。列車は沈黙を吐き出して、僕を飲み込もうとした。ただうつむいて、列車が行くのを待った。長い間、列車はホームにだらしなく口を開けていたが、やがてあきらめて去っていった。エンジンの駆動音がむせび泣くように、耳を貫いた。

列車が去って、二本の線路が足元に見降ろせた。僕は何のために駅に足を運んだのか。構内アナウンスもケータイも春風も、何も言わなかった。

目を閉じる。僕はトンネルの突き当りに立ち止まっていた。目の前ではショベルカーが緩慢な動作で壁を掘削し、道を拓いている。僕はそれに合わせてゆっくり前へ歩いていく。時間は遅くも早くも進みはしない。不幸なことはなかった。ただ胸の片隅に小さな息苦しさを抱えていた。

風が止んで、ふと、気配を感じた。雲の奥に光る月のような、かすかな気配だった。

隣のベンチに一人の女性が座っていた。ワンピースに白いセーター、足元のサンダルさえも白く、腰にかけては濡れるような長い黒髪が垂れていた。つい今しがた、モノクロームの世界から抜け出してきたような色合いだ。彼女は何かを胸に抱えて、うつむきがちに列車を待っていた。

奇妙だった。列車は今しがた駅を発って、ホームはもぬけの殻になるはずだった。しかし、運命的な力が働いて、二人が残った。都合のいいことに向かいのホームにさえ人影はなかった。

 僕はふと、彼女に声をかけたいと思った。それは不思議な欲求だった。しばらく迷ったが、僕はえい、と立ち上がった。

「列車には乗らないんですか」

 自分の声が反響して、駅の隅々に響き渡る気がした。わずかに白い肩が震えた。

「えと、あの……ちょっと待ち合わせで」

 彼女はうつむきがちな前髪で顔を隠したまま、つぶやくように言った。薄い唇はすぐに固く閉ざされた。僕から隠すように、腕に抱えたものを強く引き寄せた。

「そうですか」

 頭から胸へ血が下りていく感覚がした。息が詰まって、ため息さえ漏れなかった。

 もう帰ろうと思った。次の列車が来るまでのわずかな時間も駅には留まりたくなかった。そもそも、列車に乗るつもりもなかったのだ。

しかし、去ろうとする僕の背に彼女のかすれた声が届いた。あれ? と髪に手を差し入れて、耳を触っていた。イヤリングでもなくしたのか、と僕が振り返ると、自分の足元に光るものがあった。

それはあまりに意味ありげなタイミングで、僕は一瞬ためらった。何かが僕の裾を引いて、どこかへ連れて行こうとしている。今日という日があまりにもけだるく、時間を引き延ばしたものだから、普段ずっと後ろについて回っていたものが、ついに僕に追いついたのだ。そんなことを考えた。だけど、落とし主と落とし物を目の前にして、それらを放っておくほど僕の良心は荒んでいなかった。

拾い上げてみると、鈍く光るものは真珠だった。目立つ装飾のない簡素な真珠のイヤリングは、若い彼女には上品すぎる気もした。

「これですか?」

と差し出した手には少し汗をかいていた。

「あっ、ありがとうございま――」

 彼女は反射的に顔を上げた。化粧のない青白い肌に、薄い唇が半開きのまま、白い歯をのぞかせていた。彼女はあっけにとられたように僕を見つめた。大きく開いた目の奥に、吸い込まれそうな黒い瞳孔があった。頬を伝う黒髪の先が骨ばった胸元に影を落としている。彼女はかすかにほほを緩めた。黒い瞳が僕の視線を飲みこんだ。

「あなたを待っていたの」

細い腕には枯れた花束を抱いていた。

 そのほほえみは親しげで、瞳は穏やかな好意を秘めていた。一瞬、本当に彼女と待ち合わせしていたのではないかと、記憶を疑った。

「さっきは気づかなくて、ごめんね」

 そう言って、彼女はベンチの端に詰めて、一人分の席を空けた。青いプラスチックの背もたれが僕と向かい合った。僕は一瞬その行為の意味が分からなかった。

「座らないの?」

彼女は僕を待ち合わせの相手と信じて疑っていないようだった。僕は急に恥ずかしくなって、急いで首を振った。しかし、どうしてか言葉が出なかった。

「私のこと覚えてない?」

 ほら、小学六年のとき、クラス一緒だった○○よ。と、続きそうな調子だった。

 僕は彼女の目をまっすぐ見返した。そして、記憶の断片と彼女の顔のパーツを照合しようと試みた。……やはり、彼女に見覚えはなかったし、ましてや、待ち合わせの約束などしていない。そもそも、僕は散歩をしていて、たまたま思い立って駅に足を運んだのだ。

「ごめんなさい。思い出せない。……どこかで会いました?」

「違うの、あなたが覚えてるんじゃなくて、その……」

 彼女が首をかしげると前髪が顔を覆って、表情が隠れた。落としたイヤリングを付け直すために両手を耳元に添えると、膝に乗せた花束が危うく揺れた。

僕は今からでも彼女を置いて帰ってしまうべきだと思った。しかし、そうするには、彼女の言動はあまりにも謎めいていて、同時にわずかに窺える表情の奥には素朴な親しみがあった。そして、彼女は特別な相手にしかその微笑みを向けることはないと、なぜか知っていた。

「じゃあ、初めまして。少し話したくて、あなたを待ってたの」

「何か話すことが……?」

「いろいろあるわ。今日は特別な日だもの。あなたにとっても、私にとっても」

 そう言って、立ち上がり、軽くおしりをはたいた。彼女は何かを知っているようだった。

「ねえ、本当にこんなことして大丈夫かな」

 菜の花が一面を黄金の海にしていた。線路は単線で、あぜ道のように盛り上がって、先のトンネルへと消えていく。それは春によって祝福された道だった。ただ、道のりはあまりに長く、線路は誰もいない岬のように孤独だった。

「ここを歩く限り、私たちはどこへも運ばれないの」

 僕たちは線路の真ん中にいた。彼女は後ろで結んだ髪を揺らして、砂利の敷かれた線路を細い足と頼りないサンダルで器用に歩いていく。彼女は謎めいた言葉を唱え、僕はその意味を考えた。

「大丈夫よ。誰にも見つからないわ」

 冗談を言っているようには聞こえなかった。淡々と事実を述べている証拠に彼女は今まで一度も振り返ったり、周囲を気にしたりしなかった。実際、これまで列車が往復一本ずつ通ったが、運転手をはじめ、誰も線路わきに立つ僕たちに気づかなかった。

「君は幽霊か何かなの?」

 昼間に白いワンピースと白いセーターを着て、枯れた花束を抱えて歩く幽霊――。あまりに意味深な存在なのに、誰も気づかない。誰にも見つけてもらえない幽霊なんて、存在意義はあるのだろうか。

「そう。私は幽霊で、あなたも幽霊」

 ふっ、とからかうように笑った。

「僕も?」

 僕は幽霊じゃない。少なくとも、そのつもりで今までの十六年間を生きてきた。彼女はなだめるように「今日だけね」と付け加えた。

 そこへ丁度、列車が向こうからやってきた。

「試しに轢かれてみる?」

 と、今度はさすがに口元に悪戯っぽい笑みを含んでいた。彼女の頬にえくぼができて、僕はふと目を惹かれたが、その提案には首振った。僕たちは菜の花畑に下りて、列車をやり過ごした。茎の背は高く、彼女の肩まで黄色い花を届かせていた。列車の連れてきた風が吹きわたって、花畑にさざ波が立った。彼女は抱えた花束を風から守るように列車に背を向けていた。

 彼女は立ち上がると、線路に降りようと言った。立ち話も何だからと、家に招き入れるように、それは自然な誘いかけだった。僕は迷わず首を振った。[HA1] 「じゃあ、あなたは駅で何をするの?」と先に降りた彼女が僕を見上げて言ったとき、その目には憐れみがあった。心はどこかへ行きたがっていた。でも、どこもかしこも行き止まりだった。時間は一定の速度でしか流れないのだ。この日から抜け出すためには待つしかない。ならば、どこで時間をつぶしたところで問題はなかった。それが線路の上であっても。

僕は彼女に訊きたいことがたくさんあったけれど、どれもそれほど重要とは思えなかった。彼女が僕を待っていたことも、真っ白い服を着て、枯れた花束を持っていることも、線路を歩くことも、ただ世界がそうあるからそうなのだ。

「線路を歩くのは初めて?」

 彼女の白い指が髪を梳いた。風が吹くせいで、整えてもすぐに前髪が彼女の視界を奪って、厄介そうにしていた。

「もちろん。線路は歩くところじゃない」

「いやだった?」

 今更思い出したかのような口ぶりだった。僕が嫌だと言ったらどうするつもりなのだろうか。

「法律に違反してる」

 そう言ってはみたものの、空虚な言葉だと思った。僕たちはもうルールから最も遠ざかったところにいる、そんな気がした。

「でも法律は人に適用されるものだから、幽霊には関係ないわ」

「それは――」

「本当よ」

 そういって彼女は僕に向かって手を差し伸べた。セーターの袖から白く小さな掌がのぞいていた。握れということらしかった。少しためらったが僕は言われたとおりにした。彼女は幽霊だから、僕の手は差し出された手をすり抜け、空しく宙を掻くのだ。

 僕は吸い込まれるようにその手に触れた。彼女の白い小さな手は冬の名残のようにかすかな冷たさを伝えていた。

「え――」

 呆気にとられた僕の手を、彼女は逃がすまいとぎゅっと握った。左手だけ手首から離れて別の生き物になったかのような不確かな感覚を伝えた。僕は棒立ちになってその手を見つめた。彼女はくすぐったそうに笑った。

「どうして触れられると思う?」

「……君が嘘をついたからだろ?」

 左手の神経から麻酔が流れ込んで、思考が鈍っていた。映画の一場面を見ているようだった。遠くの世界で僕の知らない男女が手をつないでいるのだ。

 彼女は首を振った。

「二人とも幽霊だから。言ったでしょ?」

 それも、冗談ではなかったようだった。幽霊と人は触れ合えなくても、幽霊同士なら触れ合える。世界にはそういうルールがあるのだと知った。

「大きな手……。昔はあんなに小さかったのに」

 ぼんやりと独り言ちて、彼女は握った手を見つめた。

「トンネルの中は暗くて危ないから」

 彼女はもっともらしい言い訳を付け加えて、歩き始めた。

「うん――、いや、えっと、僕たちどこかで会ったことがあるの?」

「会ったことはないけど、でもあなたは私を知ってるの」

「でも、ごめん。本当に知らないんだよ。思い出せない」

 そう言うと彼女は困り顔で笑った。彼女はいろんな笑顔を使い分けることができるようだった。

「あなたが知ってるんじゃなくて、たましいが知っているの」

「たましい?」

 目の前でトンネルが黒い口を開けて、奥に深い闇がたたずんでいた。

「十六年前の今日のこと、教えてあげる」

 トンネルの中には本物の暗闇があった。湿った空気が肺を満たすと、自分の輪郭があいまいになって周囲に溶け出していく気がした。トンネルはどこかで曲がっていて、出口の小さな光さえ届かなかった。手をつないだのは正解だった。

「十六年前? 十六年前なんて、君は――」

 彼女はどう見ても、僕と同い年かその前後だった。僕たちが出会うことなんてないはずだ。まさに十六年前の今日、僕は生まれたのだから。

「十六年前の今日、私は死んだの」

 トンネルにかすれた声が反響した。言葉はあるべき適切な重みを欠いたまま、僕の鼓膜を揺らした。左手に伝わるぬくもりに意識を集中した。しばらく足音だけがうるさく響いた。

 冗談よ。あなたは何でもすぐに信じるから、からかっただけ。彼女がそういうのを待ったけれど、返ってきたのは残酷な沈黙だけだった。僕は心のどこかではその事実に納得していた。彼女の言葉を借りるならば、たましいがそれを受け入れていたのだ。

「それは私が死んだ日」

 演劇の冒頭、語り部が主人公の運命を予言する厳粛な言葉。暗闇の中、現実はどこかへ置き去りにされて、別の物語が進行していく。

「暗い部屋。何もかも冷たくて、息をするたび私のぬくもりは奪われていった。誰もいなかった。犬の吠える声が遠くから聞こえて、それだけ。ずっと、意識の海を浮いたり沈んだり。でも、ある日、意識は沈んだまま戻ってこなくなった」

「それからは夢を見てた。長い夢。はじめに音があって、それから光があって、愛があった。全部忘れて、別の誰かになって、怒ったり泣いたり、笑ったり――。忘れたことさえも忘れて、ずっとずっと遠くに。そう、時間でも空間でもない、遠く」

「でも、さっき、思い出してしまった。決してあるはずのない記憶。イランの羊飼いがニュージーランドの漁師の夢を見るくらいあり得ないこと。私たちは出会えないはずだった。地球の反対側に行ったって会えない。ずっと、ここにいるけれど」

 僕は耳を澄ませて、イメージの中に沈んだ。時間は正しい方向を失って、闇の中をさまよっていた。長い沈黙があって、僕は言葉を探した。

「でも、今日君と僕が出会ったのは良いことだ」

 告白でもしたみたいに、心臓がうるさくなった。冷たい風が顔を撫でた。

「うん。私も、あなたに会えて良かった。もう、二度とこんな――」

 と、言いかけた言葉は詰まったまま、声にならなかった。左手が後ろに引っ張られて、彼女が立ち止まったのだと知った。その理由はすぐに気づいた。

 前方に小さな光があった。目を凝らすと、それはゆっくり大きくなっていくようだった。それに合わせてトンネル全体に低いうなり声が満ちた。光は僕たちに向いていた。列車だった。

逃げられない。僕たちは蛇に睨まれた蛙だった。狭いトンネルでも退避できる空間はあるはずだった。足を数歩運べばいいだけなのに、光が、僕たちの目を射抜いて、足を縫い止めた。

「早く、こっち――」

 叫んだ時には列車は目の前だった。息を吸う暇もなかった。二人は互いの手を強く握った。

光と音の洪水だった。全身の骨を震わせてなお、余りある衝撃が脳を揺らし、意識が遠のいた。叫び声が聞こえた。列車が僕たちを貫く間、それは永遠のような一瞬だった。

 列車が通り過ぎても、音と光が体内を暴れまわって、しばらく動けなかった。全身のこわばりが解け、目を開いたとき、地面は足元にはなかった。僕たちは尻もちをついて、座り込んでいた。

 心臓の音が遠くから聞こえた。手をつないだままだったせいか、受け身が取れなかったらしい。お尻から鈍い痛みが伝わってきた。それに伴って、肢体の感覚が戻ってきた。

「あーっ、びっくりした」

 しばらくして、彼女は深い潜水から帰ったダイバーみたいに大げさに叫んだ。それからおなかを抱えて笑った。僕もつられて笑ったけれど、声は出なかった。

「ね、言った通り」

 努めて明るく装っても、声は震えていた。

「うん。まさか幽霊っていうのは本当だったんだ」

 やっと漏れた声も情けないほど震えていた。暗闇が平衡感覚を狂わせるせいで、立ち上がろうとしても地面をうまく踏み込めなかった。やっとのことで立ち上がると、前方に光が見えた。さっきの光が網膜に焼き付いたせいか、その光が本物か確信が持てなかった。

「ほら、前を見て。出口じゃないかな。――立てる?」

 暗闇に手を伸ばすと、彼女の手がちょうど触れた。

「ありがとう。私、腰を抜かすって初めて」

 左手が強く引かれて、サンダルが地面を危うげに踏みしめた。

「急いでトンネルを出よう。列車が体を通り抜けるなんて、二度とごめんだ」

「怒ってる? 私、光を見たら体が動かなくて、わざとじゃないわ」

 彼女は急にしおらしくなって謝った。

「僕もそうだよ。……人生で一度きりなら、体験しても悪くなかった」

「そうかもね。ずっと、手を握っててくれてありがとう」

 彼女はそう言うと歩き始めた。僕は急に恥かしくなって、どんな顔をすればいいかわからなくなった。初めて、暗闇に感謝した。

 そのあと、僕たちは他愛のない会話をした。僕が冗談を言って彼女が笑った。好きな食べ物の話をして、嫌いな食べものの話をした。二人には似ているところと似ていないところがあった。

「きれい――。夕焼けってこんなにまぶしかったのね」

トンネルの終わりに差し掛かかって、二人は目を細めた。彼女の顔から影が引いて、白い肌が橙色の光に染まっていた。西の山際の少し高いところで、夕日が大きく輝いていた。花畑は終わって、眠たげな田園が線路の両側に広がっていた。線路も木立も鉄塔も、みな一様に長い影を背負って、太陽を仰いでいた。しばらくトンネルの出口でまぶしさに目を慣らしてから、僕たちは歩き始めた。

「さっき、言いかけたこと」

 するりと、つないだ手がほどかれた。僕の手は無意識に彼女を追って、宙を掻いた。彼女は線路脇の桜並木の方を向いた。僕は彼女の背中を見つめた。

「あなたは私の生まれ変わりなの」

 そう言って、彼女は気恥ずかしそうな笑顔で振り返った。表情は半分影に隠れていた。

それでも彼女のことを思い出すことはできなかった。もう二度と彼女のことを忘れないために、目に焼き付けた。

「ほんの少し、残った記憶があなたを呼んで、あなたが答えたの。今日は特別な日だから」

 彼女は花束を両腕で抱きしめて、目を閉じた。

「記憶も、遺伝子も、生きた時間も、何一つ繋がってなくても、私はあなたを知ってたの」

 今なら分かった。僕が今日散歩に出たこと、駅に立ち寄ったこと、夢を見たこと、列車に乗らなかったこと、全ては彼女が僕を呼んだからなのだ。

「うん。でも、あなたも私を呼んだのよ。独りで寂しいよって」

 彼女は不満げに顔をしかめて、また笑った。

「ありがとう。来てくれて」

「うん。どういたしまして」

「あーあ、ミステリアスなお姉さんのつもりだったのにね」

 と、彼女は茶化して言った。

 トンネルを抜けてすぐ、駅があった。駅は無人で、僕たちを見咎める人はいなかった。町の無線放送から、「埴生の宿」が流れ始めた。ここで終わりだと、僕は悟った。

「着いたね。思ったよりも長かったから、疲れちゃった」

 線路から眺めた駅はみすぼらしかった。ひび割れたホームは、トタン屋根を目深にかぶって、うつむきがちに二人を見下ろしている。

「帰るんだね」

 夕焼けに目が痛んだ。彼女は黙って、うなずきもしなかったけれど、それは何よりも強い肯定だった。軽く結ばれた唇も、眠たげな目元も、控えめに突き出た鼻先も今は何も語らなかった。僕はその横顔をずっと眺めていたかった。

 駅のホームに差し掛かり、ちょうど真ん中辺りで彼女は足を止めた。無線放送が最後の響きを歌い終えた。二人は夕日を背に彼女と向かい合った。やはり、その顔に表情らしきものはなかった。その目は僕を見据えていた。僕は彼女の瞳の中にいた。

 その瞬間は永遠になって焼き付いた。どれくらい見つめっただろうか。風がワンピースの裾をふわりと持ち上げて、元に戻った。それは、僕が彼女に恋をするのに十分な一瞬だった。

「じゃあ、最後に、ね」

 そう言って、彼女は微笑んで、改まったように背筋を伸ばした。両手を背に隠して、上目遣いに、瞳が夕日を映した。心臓がはねた。

「え――?」

「わかるでしょ? 今日は大切な日だもの」

 わざとらしい咳払いの後、照れくさそうな笑顔を作った。

「誕生日おめでとう。あなたを愛してる」

 真っ白な言葉だった。世界の誰も否定することはできない言葉。

そのとき、世界は二人を祝福していた。差し出された花束は痛々しいくらい軽く、脆く、僕はできるだけ優しく抱きしめた。トンネルでこけたせいか、それは茎のところで二つに折れていた。

「私を送るときにみんながくれた花。白い花がほとんどだったけど、できるだけきれいな色の花を集めたの」

 花束は茶色や白に脱色されていたが、その濃淡からかつての色合いが想像できた。

「これは象徴なの。私たちがつないできた、たましいの象徴」

 彼女はかみしめるように言った。僕はその意味をすべては理解できなかったけれど、ゆっくりうなずいた。

「ありがとう。花をもらったのは初めてかも――」

 そう言い切らないうちに、彼女の手が伸びて、僕の頬をぬぐった。白い掌が濡れていた。彼女は正面から僕を見据えた。

「私はもう帰るけれど」

その声は強く、温かく耳に届いた。

「あなたはできるだけ遠くに行くの」

「うん」

「もうあなたに借りてたものは返したから、列車にひかれたら死んじゃうからね」

「うん」

「知らない女の子と手をつないじゃダメよ」

「うん。――それは、君が言えることじゃないな」

「そうね。じゃあ、さよなら」

「――うん」

名残惜しそうな瞳に、僕の視線は吸い込まれた。

「最後に、名前を教えてよ」

 情けない鼻声だった。彼女は目を丸くして笑った。

「ふふ、今更聞くなんて。おかしいね。――ナギサ。私の名前」

 もう二度と呼ばれない名前。

「それでも、覚えてるよ」

「うん。ありがとう。じゃあ、さよなら」

 涙をぬぐうと、彼女はもういなかった。

 夕日は雲に赤い輝きを託して、山並に沈んだ。東から夜が染み込んできていた。

 列車を待つ間、一人の老人がベンチの隣に座った。僕は腫れた目を隠すようにうつむいていた。老人は杖を置いて空を仰いだ。しわに影が深く刻まれて、老人は笑っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。

 しばらくして、ふと、老人がこちらを向いた。重たくふさがった瞼を持ち上げて、また目を細めて、笑った。

「きれいな花だねえ」

 老人には枯れた花束が何に見えているのだろうと、視線を手元に落とした。

 目を疑った。僕はそのとき、彼女の言葉の意味を理解した。

 花束は生き返っていた。萎れ、ひび割れた花は、今や生命力に満ち溢れてはちきれそうだった。赤、橙、ピンク、薄紫――、色とりどりの花が重なり、目眩がするほどの美しさだった。端には一番新しい黄色の花が添えられていた。

 言葉を失って、代わりに温かいものが体に流れ込んだ。

「――大切な人がくれました」

 視界がぼやけて、色が混ざり合った。僕はそれが惜しくて、何度も何度も目をこすった。

 遠くで警笛が鳴った。十六歳になった少年が立ち上がって、線路の先を見つめる。胸には満開の花束を抱えていた。

おわり

 
 
 

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