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「みぞれと血」 汽包

  • ritspen
  • 2020年12月30日
  • 読了時間: 17分

 みぞれと血

汽包

透明なグラスにみぞれは音もなく沈み、凍空の下。氷の熱が指先を侵して、焼け付く痛み。ユキの体は彼女の意識から離れたところで独りでに震える。目は安堵に似た仄かな光を宿して、唇は淡い紅を残す。

灰色の街にみぞれが降る。みぞれが降る日、彼女は庭へ出る。凍える雨風にその身を浸して、みぞれをグラスに汲むために。下着の上に丈の長い白シャツを一枚だけ着て、裸足の足で泥を踏む。体の芯まで悴んで、ただ痛みに狂う手足の先をなおも冷たい冬空に染める。そして、澄んだ水をグラスの半分まで汲み終えると、それを母の化粧台に供えて、バスタオルに身を包んでたっぷりと溜めた湯につかる。彼女の家族はその儀式を目にしても何も言わない。それはみぞれの降る日には必ず行われる。

ワタルが帰ってきて、庭先から風呂場へ続く水滴を尻目に二階へ上がっていく。母は彼が幼稚園に入る前に死んだ。弟は母の化粧台に近づこうとはしなかった。グラスは今までに何度か替わった。全て透明で何の変哲もないグラスだった。みぞれを集めた日、姉は寡黙になる。普段それなりに話し、機嫌のいい日には騒がしい姉もみぞれの日だけは違う。雨が窓を打つならまだしも、みぞれが雪になって街の喧騒をそっくり吸い尽くしてしまう日には、食卓は海の底みたいな静けさになる。テレビの音はその厳粛な沈黙を破るどころか、一層深めるように感じられたので、その日は誰かが電源を落とす。

テレビが消えてひっそりとしたリビングに入ってくると、父は何も言わずに、買ってきた惣菜を食卓に並べた。夕方、オフィスの外を降っていたのは、あれはみぞれだったのか、と妻の化粧台のグラスを一瞥した。ワタルは父が帰ってくるとすぐにリビングに下りてきた。「ユキは?」と問うと、ワタルは「もう来る」と言って先に箸をつけ始めた。やがて部屋着用のワンピースに白いセーターを着て、ユキが下りてきた。いつもはジャージ姿のユキがその日だけその恰好なのもいつものことだった。ユキは真っ赤に霜焼けした指先で危うげに箸を運ぶ。大学に上がってから化粧をするようになったユキは、みぞれを汲んだ日だけ夕飯の席にも薄化粧をして現れるようになった。潔白な肌と衣服に、唇と指先だけ赤く染めた姿はどこか妖艶で、弟はその姿に無自覚のうちに心を奪われていた。彼はなるべく姉と顔を合わせないように食事を済ませると、足早に自室へ帰って行った。ワタルは父に訊いてみたことがあった。なぜ、何のために姉はみぞれを集めているのか。父は首を振った。あの儀式は父でさえその意味を知らないのだ。

父は横目に娘をずっとうかがっていた。彼女は緩慢な動作で冷めた料理を口に運んでいた。それはどこか苦しげで、食事という生き物にとって全く自然な行為が分不相応な労働であるかのようだった。細かく崩したジャガイモを大儀そうに咀嚼する。今日の料理当番は娘だった。だが、みぞれの日には彼女は何も作らなかった。料理らしい料理を作れるのは彼女だけだったから、男二人にとってそれはいくらか残念なことだった。

「大丈夫か、食欲がないのか」

父はいつもの質問を投げた。ユキはうなずいた。父の言葉によって何か許しを得たように、彼女は静かに箸を置くと、合掌して席を立った。これもいつものことだった。父は深いため息をついて自分の食器を下げた。エアコンの駆動音がうるさくリビングに響いていた。

 ★

ユキが玄関の戸を閉めると、リビングの方で物音を聞いた。父でも弟でもない、と彼女は瞬時に悟った。家族が立てる音と、それ以外の人間が立てる音は明確に何かが異なっている。忍び足でリビングを覗くと、そこには一人の少女がいた。

弟の中学校の制服だった。知らない子ではなかった。弟が何度か自室に連れ込むのを目撃したことがあった。靴は隠してあって、彼はバレていないつもりだろうが、週に一、二回も連れて来れば自ずと知れてしまうものだ。父に言いつけようかと考えたが、自身の中学時代の繊細な心を思い出してそれはやめておくことにした。弟は物静かで、母親譲りの整った顔立ちをしていた。学校ではその温厚さも相まってなかなか人気があるらしかった。

それにしても、それにしても、と、ユキは思った。リビングを所在なげにうろつく少女は途方もなく美しかった。おそらくはクラスで、いや学年で彼女の右に出る者はないだろう。理想的な造形と細部にわたる完璧さが、その部分部分を記憶させない何かしらの魔術的な効果を生んでいた。中学の頃、ダサいからと毛嫌いしていた制服は彼女の瑞々しい体を包み込んで初めて、その清廉で素朴な美を成していた。

ユキは数秒のうち、少女に見惚れていたが、やがて踵を返して部屋に向かった。見なかったことにして、後で弟をおちょくってやろうという悪戯心が芽生えた。

しかし、階段を上る途中、ふとした違和感に袖を引かれた。リビングの隅の母の化粧台、そこには昨日のみぞれが溜まったグラスがあったはずだ。ユキの心のすき間にかすかな動揺が忍び込んだ。

彼女は階段を下りていた。その足運びはゆっくりと、確かな意思を持っていた。リビングにいる少女のことなど忘れて戸を開け放った。

少女は撃たれたように振り返ってユキと相対した。彼女はその驚きに見開かれた目を気にも留めずに、吸い込まれるようにして化粧台に駆け寄った。

グラスの中身がなかった。

「あの、はじめまして、私、ワタル君の友達で――」

少女が立ち上がって挨拶を始めた。ユキは何も聞いていなかった。ただリビングの戸をゆっくり閉めて、その前に立った。彼女は何か意味不明な感情によって震えていた。少女も彼女の尋常でない様子を見て、口をつぐんだ。

「あの……どうかなさいました――」

「水」

絞り出した声は一転して落ち着いて、冷ややかな言葉が部屋に響いた。背景に暮れなずむ街の影が伸びていた。

「――水?」

「そこのグラスはもともと空だったかしら」

絶壁の淵で理性が彼女を押さえつけていた。目の前の光景は現実から乖離していた。少女と少女に相対するユキと、ユキ自身を観察するもう一人のユキ。少女は不思議そうに首をかしげるだけで、何らおびえる様子も見せず、言った。

「ごめんなさい。どこに片づけたらいいか分からなくて」

そう言って、慌てたふりをしてグラス伸ばした腕を、握った。

軽く腕を引いただけで少女は簡単に転んだ。少なくともユキにとってはそう感じられた。実際には肩を脱臼しかねないほどの全力を込めていたが、彼女にはもう分からなかった。

悲鳴を上げて尻もちをついた少女のもう一方の腕を掴んで床に組み伏せる。少女の腹に馬乗りになって体重をかけると、声にならない悲鳴が上がった。爪が柔らかい肌に食い込んで指先が青ざめていく。

「水を飲んだのね」

狂気の眼光が少女を射抜いた。そこで初めて少女の顔は恐怖にゆがんだ。

「ごめんなさい。しらなくて――、ごめんなさい」

涙目で訴える少女の謝罪などユキには聞こえていなかった。

殺そうと思った。少女の細い首ならば両手にすっぽり収まって、簡単に絞め殺せる。少女の顔を見た。驚きと戸惑いの色を、恐怖が塗り潰していた。小さな唇にうるんだ目、床にぶちまけられた髪が艶を帯びて広がっていた。

顔を徐々に近づける。少女の唇が何かを呟いている。

もし、彼女の唇の下の黒子がもう二ミリでもずれていたら、もし彼女の瞳の色がもうワントーンでも明るかったら、殺していたかもしれない。

唇と唇を重ねる。歯と歯がぶつかる。必死に逃れようと暴れる体に全身で覆いかぶさって、髪を鷲掴みにして床に押し付けて細い顎をこじ開けた。悲鳴を上げる喉をふさぐように舌を差し込んで口の中を蹂躙する。唾液が溢れて口元を汚した。

少女は何度も舌を噛んで抵抗しようとした。その度に髪を掴んだ手が頭を床にたたきつけて、舌が喉の奥にもぐりこんだ。

どのくらいそうしていたか、少女は途中から抵抗を止めてされるがままになった。息が苦しくなって唇を離したとき、少女はぐったりとしていた。目は犠牲者としての恐怖と諦めに暗く沈んで、涙の筋が何本も顔に刻まれていた。荒い呼吸を繰り返す口元は血と唾液に塗れて、呆けたほうに開いたまま赤い舌をのぞかせている。

日は落ちて、リビングには冷ややかな沈黙が満ちていた。ユキの理性は呼吸に合わせて冷静さを取り戻していった。目の前の光景は現実感を抜き取られていた。それはどこかのポルノ映画の一場面のようにその両目に映った。ユキが感じるのは鉄臭い血の味だけだった。

ユキは立ち上がって少女を解放した。少女は震える足を何度も滑らせながらよろよろとリビングを出て、家を出て行った。

玄関からガチャンと扉の閉まる音が響いた。

周りを見渡して、痕跡らしい痕跡がないことを確認すると、ユキは二階の自室に帰っていった。

少女との再会は意外と早く訪れた。ユキはあの日以来、家に引きこもって食事もろくに取らなくなった。その間に何度かみぞれが降ったけれど、彼女が庭へ出ることはなかった。家族が出払った、まだ早い午後、空腹に耐えかねてリビングに降りたところへ、インターホンが鳴った。画面を見ると、そこには少女が立っていた。ユキは青ざめた。少女が親を連れてあの日のことを聴取するために来たのかと思った。だが、少女は一人のようだった。ユキがどうすべきか悩んでいると声がした。

『お姉さん。お姉さんしかいないのは分かってて来ました。私、謝りたくて……。お話しできませんか?』

少女はあの日とは違って厚手のコートを着込んでいた。学校は休んだらしかった。

ユキは少女のことが恐ろしくなった。あれだけのことをされて、単身でやってくるなど、それは勇気ではなくて狂気だ。

『みぞれ集めたんです』

そういって少女はカメラに手を近づけた。握っているものはマグカップだった。指先は赤く、痛々しく震えていた。

少女は明らかに常軌を逸していた。だが、弟と同じ中学二年生であることを思えば、あの日の出来事が少女の中で何か屈折した心情を生み出したとしてもおかしくはなった。

部屋に入ると少女はベッドに座った。手に持っていたマグカップは机の上に置いた。中身を見てもそれはただの水で、みぞれかどうかは判別がつかなかった。

「私、誰にも言ってません」

少女はユキの胸の内を読んだかのように、初めに断った。ユキは安心していいのか、むしろ何らかの脅迫材料として使うつもりなのか、計りかねて、閉口した。ただ、一般的な礼儀として謝罪しなければと思った。

「この前は本当にごめんなさい。……えっと、名前訊いても?」

「アイです」

「アイちゃん。……ケガは大丈夫?」

そう尋ねると、少女は首をかしげて不思議そうにした。忘れてしまったということでもないみたいだった。

「ケガなんてしてないです。痛かったし、苦しかったけど……、ケガしたのはお姉さんの方でしょう?」

まさか、とユキは記憶を振り返った。あの日、細腕に爪を食い込ませて怒りのままに少女に暴行した。大ケガはないとしても打撲や切り傷はいくつも負わせた、はずだった。しかし、それも少女は否定した。

「初めは髪を掴まれて、押さえつけられて苦しかったけど、でも私が暴れるのを止めたら、お姉さん、優しくなって、頭をなでながら……、その――」

キスしてくれたじゃないですか。と、最後は頬を赤らめて呟いた。少女の中で記憶が改ざんされたのだろうか。いや、あのとき冷静さを失っていたのは私の方だ――。ユキは記憶を反芻しようと試みたが、やはり何も思い出せず、残っているのは少女の柔らかい体と、濡れた舌の感触だけだった。

それが本当だとして、少女はいったい何をしに来たというのだろうか。

「お姉さんは返して欲しかったんですよね。お母さんのために集めたみぞれを、私が飲んじゃったから」

少女はユキの手を取ってベッドに誘った。隣に座ると、少女はその肩に頭を預けた。艶やかな髪がほどけてユキの胸の上にこぼれた。何が起こっているのかわからなかった。

「だから、私、謝りたいんです。でも謝るだけじゃなくて、ちゃんと返したいんです。お姉さんのお母さんのみぞれを」

少女は耳元で囁くように言うと、ユキの目をまっすぐ見つめた。その澄んだ水晶玉の奥には瑞々しい光が満ちていて、一片の曇りもなかった。それでいて、何か魔術的な文様が瞳孔の奥でうごめいて、視線を呑み込んだ。あのときユキが自分のことを殺すかもしれなかったなんて、考えもしない。瞳は全面的な信頼と情愛を伝えていた。

ユキはだんだんと少女のことを理解してきた。きっと彼女は今の今まで誰にも傷つけられた経験がないのだ。その可愛らしさと、愛嬌のために、あらゆる人から愛され、求められ続けてきたのだ。だから、あの暴力さえ、愛の一種だと勘違いしてしまったのだろう。

「違います。勘違いじゃないです。お姉さんは私に優しくしてくれました。私分かるんです。お姉さんほど経験はないかもしれないけど」

いつの間にか少女の顔が近づいてきて、唇が頬に軽く触れた。

「だから、もっとしてください。飲んだお水を返すことはできないけど、お姉さんのキス……気持ちよかったから」

今の中学生は一体どうなっているのだろうか。これが普通なのだろうか。ユキは半分可笑しいような、恐ろしいような気がした。

「いや……、私が言うのも何だけれど、そういうのはもっと大事にしなきゃダメ。それに、ワタルに悪いでしょ? アイちゃんはワタルの恋人なんだから」

肩を掴んで引き離す。少女は俯いたままボソッと何かをつぶやいた。「ん? 何?」と聞き返すと、次は明確にこう言った。

「してくれないなら、ワタル君に言います。母と父にも言って――、困るでしょ? お姉さん」

呪いの言葉だった。私は深いため息をついた。

 ★

少女はワタルのいない時間を全く正確に狙って、家にやってきた。そして、ユキの部屋に入るや否やすぐに服を脱いで、ベッドに横たわる。

少女の体は感嘆を禁じ得ないほどに完璧で理想的だった。ユキより一回り小さな肩幅に、ユキの倍以上も容積のある乳房が美しい均整のもとに膨らんでいる。背中から尻にかけてのラインは画家が執念を込めて引いた艶美な曲線だった。

ユキは同性に対して性的な興奮を覚えるわけではなかった。少女の勘違いはやはり勘違いのままだった。だが、少女と体を重ねている時間はユキにある種の満足感を与えた。それはその後の渇望やさらなる欲求を引き出すことのない、奇妙な満足感だった。それはまるで、少女の言う通り、あのグラスのみぞれを少しずつ返すかのような、徐々にたまっていくような不思議な満足感だった。

少女も同性との行為はユキが初めてだったらしい。

「ワタルとは、しないの?」

ユキが恐る恐る尋ねたことがあった。少女は首を振って答えた。

「ワタル君とは、まだ……。きっとしないと思う。――ワタル君ってかわいいんです。ちょっとほっぺにチュッてしてあげるだけで、真っ赤になっちゃって!」

ユキは安心とともに、弟を憐れんだ。少女の豊かな乳房と桃色の乳首はユキの手の中に納まっていた。男の子なら、これはどんなに魅力的な代物だろう。もったいないような気がして、ふと尋ねた。

「他の男の子とはしたことあるってこと?」

少女の脇腹に舌を這わせると、仄かに甘い匂いがした。

「え? はい」

少女は当たり前のように首肯した。胡乱な目がまつげを重たげに持ち上げている。しばらく見つめていると、少女は突然、目を見開いて起き上がった。

「で、でもっ、お姉さんがいいんです! お姉さんがいちばん上手で、だから一番大好きなんです! リョウタ君よりも、シズカ君よりも、アオイ君よりも……」

少女は涙目でユキに抱き着いて、弁明を繰り返した。

「……そう、ありがとう」

ユキはそれ以上考えるのをやめた。

少女はユキとの性行為にどっぷりとはまって、何度も家に通った。ユキは同性との経験などもちろん無いから、その愛撫は不器用でたどたどしかった。それでも少女は行為中、何度もイった。毎回、下着がびしょ濡れになるせいで、ユキが帰りの下着を貸すこともしょっちゅうだった。少女はユキの服も脱がせようとして、何度も彼女の性器に手を伸ばしたが、ユキは頑なにそれを拒んだ。

少女はユキに対する執着を強めていった。どうしても父やワタルがいるときには自分の家に呼び寄せることもあった。少女の家は住宅街の中にあった。庭は手入れされ、クリスマスにはイルミネーションの飾りつけが燦燦と輝いていた。部屋には女の子らしい小物がたくさんあって、少女は少女漫画を好んで読むらしかった。

年末が近づくとさすがに人目を憚って会うのも難しくなって、正月明けまで会わないことになった。その年の最後の逢瀬、シャワーも済んで少女と添い寝していたとき、それまで眠っていた少女が目を覚まして、ユキの肩をたたいた。見ると、少女は涙を流していた。

「どうしたの?」と訊くと、一言、「お母さんが死んじゃう夢を見たの」と言って、わんわん泣き始めた。ユキが慌てて背中をさすったりしてなだめたけれど、少女は十分くらいの間ずっと泣き止まなかった。ユキの服がびしょ濡れになって、着替えなければならなくなるくらいだった。ユキは少女の背を撫でながら、そういえば母が死んだとき、自分が泣かなかったことを思い出した。少女はその日、帰るとき、「もう来ません」と言って、そう言ったきり、年が明けても連絡が来ることはなくなった。

「お母さんって、どんな人だったの?」

日常の静けさが戻ったある日、夕食の席でワタルが尋ねた。ユキは咀嚼を止めて、弟を呆然と見つめた。ワタルが母のことを姉に訊くのは初めてだった。

「そんなこと、お父さんに訊けばいいじゃない。私だって、小さかったし、ワタルを産んでからはほとんどずっと病院にいたから――」

それを聞いて、ワタルはしばらく黙って食事を続けていたが、食事が終わった後、ユキが食べ終わるまで席で待っていた。

「みぞれは?」

と、姉が箸を置いたのを見て、言った。ユキは、「ああ」とだけ言って、化粧台を見やった。そこには朝汲んだ水道水がグラスの半分を満たしていた。

「みぞれは最近取ってない。どうして?」

「みぞれの日は姉貴がおかしくなる。でも最近は普通」

ワタルはスマートフォンの画面から目を離さずに言った。

「え、そう? みぞれ取った日って私おかしいの?」

「は? おかしいだろ。何もしゃべらなくなるし、ご飯も作らないし、あと……、変にめかしこんで晩飯食ってるし、気持ち悪ぃよ」

食卓に静寂が下りた。ワタルはまずいことを言ったかと、画面からやっと顔をあげて姉を見た。しかし、姉は普通だった。何かを考えこんでいる様子だった。

「気持ち悪い? いっつも見てるくせに?」

ユキがそういうと、弟は慌てて携帯を取り落とした。

「え、や……、見てねぇし! ――てか、みぞれだよ。なんでやめたの?」

「死ぬ気がするの」

「え?」

ユキがテレビのリモコンを弄んで、ソファに放り投げた。

「みぞれが降った日は、死ぬ気がするのよ。だから、ちょっと化粧して、なるべくきれいなまま……って、そんな顔しないで」

ワタルは自分がどんな顔をしているかは分からなかった。しかし、姉から出た言葉にわずかに安堵する部分もあった。死にたくなる、じゃなくて良かったと思ったのだ。

「夢を見たんだよ」

ワタルが呟いた。

「何の?」

「母さんの夢。透明なグラスにみぞれを集めて、入院してる母さんに持っていく夢」

ユキは目を丸くして沈黙した。

「あれは姉貴なのかな。それとも俺が勝手に想像したのか――」

「お母さんはね、詩が好きだったよ。日本のも、外国のも。一人のときはずっと読んでたって」

「は? 詩?」

「みぞれが冷たくて、全身濡れてて、お母さんに怒られると思ってた。『お水もらってきて』って、お母さんがコップを私に渡してね、看護師さんに言えばよかったんだけど、私は分からなくて、その日ちょうどみぞれが降ってたから。おかしいけど、お母さんはね、喜んでくれた……のかな。ずぶ濡れの私を見て何も言わずに、みぞれを飲み干して――」

「変な人だったの?」

ワタルはわざとぶっきらぼうに言った。

「変な人ではなかったよ。私たちのことずっと心配してた。病院に来たら病気になるからって、お見舞いのたびにすぐに私たちを追い返してた」

ボツボツと、雨音が聞こえた。部屋の外は真っ暗で、でも音から察するにそれはみぞれだった。

あの日を思い出していた。母はずぶ濡れのままグラスを差し出したユキを見て、言葉を失った。痩せこけた頬に虚ろな目が浮かんでいた。そのとき、彼女と母の間のあらゆる関係性はほどけて、ただ、差し出されたグラスだけが二人を映していた。受け取るときに母は何と言ったか……。

「おいで」

そう言って、ユキは弟の手を取った。余った手でガラス戸を引いて、庭へ連れ出した。

「さむ! 何してんだよ、姉貴! みぞれはやめたんじゃないのかよ」

裸足の足が泥に沈んだ。ユキは久しく忘れていた感触を思い出した。この痛みと、この震え。

「アイちゃん。可愛い子だね」

「……!?」

「キスしたでしょ」

「は? キスなんて、ずっと前にしたことあるし」

「じゃなくて、舌をこう、するやつだよ?」

と言って、ユキは弟の口に指を差し入れて、舌を撫でた。

「え、何で知って……って、え? アイと知り合いなの?」

「それは、どうかなー」

ユキはわざとらしく意地悪な声で笑った。

「おい! 教えろよ! いつから知ってたんだよ」

さあねー。と、ユキが夜空に向かって口を開けた。みぞれは二人をぐっしょり濡らして、ざんざん降るのに口へ入ってくるのは、ほんの少しだけだった。

「さむい……。さむいね、ふふっ」

「当たり前だろ。こんな薄着で……、早く中入ろう――?」

ふわりと、優しい匂いがワタルを包んだ。それは冷たいみぞれをはじいて、柔らかいぬくもりを彼に分け与えた。自分と似ているようで、少し違う匂いがした。

「……姉ちゃん?」

ユキは弟を強く抱きしめて、髪を撫でた。その頭はいつしか自分の背より高いところにあった。

「へへ、お母さんごっこ」

 濡れた声。

「何だよ、それ」

みぞれが背中を重たく濡らした。二人は互いの体を引き寄せ合った。凍える冬空の底。

おわり

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