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「HANABI」 佐藤ビオラ

  • ritspen
  • 2020年12月30日
  • 読了時間: 73分

HANABI

佐藤ビオラ

弾けた火花の光のせいで、こんな自分までもが煌めいていたのかも知れない。

まばゆい幻影は、あの夏へと導いてゆく。今もまた夜空に消える花火を見る。そのたび、過ぎ去った熱源の中に僕はいるのだ。初めて来た場所、初めて向き合った人の面影を、あの優しい光と影が僕の脳裏に映し出す。空っぽな僕に。

ノリ子は大学の先輩だった。スラリとした長い手足、筋の通った鼻、二重のハッキリとした大きな目、小さな唇。白い肌と艶やかな黒のロングヘアー。極めて整った容貌を彼女は持っていた。だが、何よりもその性格が強烈だった。

去年の夏だ。街の花火大会での出会いが、僕らの始まりだった。

縁日から離れた所にある駐車場の角で座りながら、ドロドロに溶けたかき氷を僕はスプーンでちまちま啜っていた。もはやシロップの味がするだけの水だ。口内に貼りつく甘さが気持ち悪かった。

低い位置から、往来が見える。様々な人間がそれぞれ思い思いの会話をしている。その人混みの中、派手な恰好の女の子がいた。黄色いTシャツにデニムのホットパンツ、ビーチサンダル。彼女、つまりノリ子は、縁日に沿って進む人の流れの中で立っていた。りんご飴を舐めている舌はピンク色。頭を左右に揺らしながら、周りを眺めているようだった。

そのとき、一瞬だった、僕と彼女の目が合った。すると突然、ノリ子は笑って僕に近づいて来ると、まるで旧い友人に再会したかのように隣に腰を下ろした。端正な顔をこちらに寄せて、話し始める。私、ノリ子って言うんだ、K大学の二回生。

「ねえ君、名前教えてよ」

「僕の?」

「君以外に誰がいるのさ。さあ、教えてよ」

「トヲルだ」

 緊張して、声がかすれた。

「トヲル! ねえトヲル、考えたことあるかい? 人間が、どうやって死ぬべきか」

初めて出会った彼女からの唐突な問いに、僕は少しのあいだ考えて、首を横に振った。

「考えたことはないけど。それは、満足して死ぬってことじゃないのか? 人生に悔いを残さず、精一杯生き抜いてから、みたいな。そんな感じの」

「意識の話じゃないの、もっと肉体的な死に方についてだよ」

「自殺や他殺、老衰や病死とか言った、あれのことか?」

「そうそう! でも、飛び降りとかガスとか刺殺みたいな、さらに具体的なものだね!」

嬉々として会話を続けるノリ子に、僕は適当な相槌を打った。一体何について議論を交わしているのか、自分でもよく分からなかった。ノリ子への第一印象は、残念な美人。その一言に尽きた。

りんご飴に飽きたらしいノリ子は、僕に残りを突き出した。あげるよ。そう言って、僕の手から溶け切ったかき氷をもぎ取り、一息に飲み干す。吐きそうなぐらい、あっまいなぁ。イチゴ練乳だからね。空になった紙カップを、彼女はクシャクシャにして道端に放り投げた。

「じゃあ、またね」

「またって、どこで?」

そう聞くと、ノリ子は笑って、K大に決まってるじゃん、と言った。そのままノリ子は人混みに消えていった。僕は一度も、彼女に自分がK大生とは伝えていなかった。でも、ノリ子は知っているようだった。キャンパスのどこかで会ったのだろうか。思い出せない。

僕は貰ったりんご飴をしばらく眺めた。甘い匂いがした。表面が光っている。囓られた痕を見て、鼻で笑った。どうしろって言うんだ、こんなもの。僕は投げ捨てた。さっきノリ子が捨てた紙カップの側で、ベチャッとりんごは潰れる。瞬間、胸のあたりに濃い靄のような苛立ちが溜まった気がした。だが、その感情も次々と打ち上がった花火にかき消えた。辺りから歓声が上がった。花火は鮮やかに極彩色の火炎を散らす。つぶては夜空に吸いこまれていく。生活排水に汚れた市街の川面に反射しながら、真上から僕らを照らしてゆく。駐車場で一人、最後までその景色を眺めた。

翌日、寝不足のまま頭痛を気にしながらも、どうにか朝の講義に僕は出席した。これ以上休むのは気が引けた。単位を落としかねない。朦朧とした意識の中、ゆっくり席につく。

「まさか隣に座るとはね。トヲル、君は案外、積極的な人なんだ」

すぐ真横にノリ子がいた。彼女は笑っていた。昨日見せた、屈託の無い笑みで。再会は思いのほか早かった。ノリ子は人指し指で肩を突いてくる。

「ねえトヲル、君は今日、どんな風に死にたい?」

轢死がいいな。なんで? そう尋ねるノリ子に、花火みたいだろと答えた。

「うん、いいね」

僕の答えに、ノリ子は嬉しそうな声を出す。本当に意味不明だ。投げやりに答えた僕は、講義が始まってから三分で額を机に押しつけた。

明日に迫る夏休みの予定を大学でノリ子に聞かれたとき、バイトとだけ伝えた。最終講義、成績を決める確認テストの惨憺たる結果に、僕は気が沈んでいた。その隣で、完璧よ! とこれ見よがしに満点の自己採点結果を見せつけるこの変人に苛ついていた。瀕死の人間の前で、躊躇いなく追い打ちをかけてくる。やはり彼女は感覚が一般の人とは根本的にずれているに違いない。そう思いながら、僕はノリ子を教室に放置して帰った。

下宿のポストにA4サイズの封筒が入っていた。母さんからだった。父さんとの離婚協議がまとまりそうだと書いてある。迷惑かけるわねと、文末に小さく添えられた母の字。いくつかの公的書類が同封してある。返事を書く気にもならなかった。あまりにも疲れていた。僕はベッドに潜りこんだ。かつて何度も聞いた母と父の罵声が、耳もとでこだました。

下宿で一眠りしたら、もう太陽が見えていた。窓から差し込む陽は真昼並みに熱い。空腹だった。もう十一時過ぎか。

冷蔵庫にしまっていた炭酸の抜けたサイダーの残りを飲んだ。それからダラダラと支度し、アルバイト先の喫茶店に行った。

「……なんで、いるんだよ」

「やっほー」

 喫茶店のホールに立ったとき、カウンターにノリ子が座っていた。クリームソーダをストローで吸っている。炭酸が効くのか、それともアイスが冷たいのか、しきりに目をつむって、こめかみを指で揉んでいた。

「帰ってくれ」

「トヲルと話したかったのさ」

「スマホで連絡すればいいだろ」

「わたし、持ってない」

驚愕した。僕は大きな溜め息を吐き出した。今時スマホを持ってない人間がいるとは、紛れもなく希少種だ。だからといって、普通バイト先まで直接会いに来るのか? 

笑顔を向ける彼女から目をそらし、接客を始めた。簡単な業務、作業の繰り返しを続ける。意識の外に彼女を押し出す。それなのに、ノリ子はしきりに僕に対し、名指しで注文してくる。もう四杯目だった。

「飲み過ぎでしょ、お腹壊すよ」

「大丈夫さ。それより早く、クリームソーダ」

僕は厨房にオーダーを通した。少ししてグラスに入って出てきたクリームソーダをノリ子の座る席へ乱暴に持って行った。周りの他の客もひそひそと話している。どうやら、ノリ子の噂話をしているようだ。僕には関係ない。通常の労働に戻ろう。そう思った。僕の気も知らず、ノリ子は緑色の炭酸水とアイスクリームを堪能していた。

七杯目を飲み干して、ようやくノリ子は帰った。席を片付けていると、グラスの底に紙ナプキンが挟まれていた。取り出してみると、遊ぼうよ、と丸っこい字で書いてあった。

それを読むと、彼女がこれを伝えるために、せっせとクリームソーダをおかわりして飲んでいる様子が頭に浮かんだ。遊ぼうよの、たった四文字のために。呆れながら、紙ナプキンを折りたたんでポケットにしまった。

僕はアルバイトを続けた。その間、三日続けてノリ子は店に来た。三度目にして、すでに常連の風格を漂わせている。クリームソーダをしこたま飲む。帰るときにいつも決まって、あのメモを残していくのだ。遊ぼうよ、と。

七回目の彼女の来店で遂に僕は根負けし、ノリ子の要求をのんだ。

それから、夏休みのバイトを除く時間のほとんどを、僕はノリ子と過ごすようになった。

この街の中で僕らにできることは案外少ない。映画館も、プールも、ゲームセンターやカラオケにショッピングセンターも。すべての遊興施設を初めの一週間で僕らは行き尽くした。

その後、ほぼ毎回を僕の下宿で過ごした。テレビゲームもじきに飽きた。やることがないと、ノリ子はいま僕のベッドを占領して部屋にあった漫画を読んでいる。これも、その内飽きるのだろう。

ノリ子はまるで子供だった。次々に興味の対象を移し、遊び、すぐに飽きては途中で止めた。それに振り回される自分が情けなくなる。ノリ子自身、私はすぐに何でも飽きちゃうと言っていた。どうしても執着できないんだよ。

だが、死に方の話についてだけは、飽きもせず彼女は続けていた。流血沙汰の話や、惨殺、自殺の種類をヒナ鳥のように口を開いては喋り続ける。ノリ子は成長のどこかでスプラッタームービーを見過ぎた時期があるんじゃないか。一度だけ、そう聞いてみたことがある。ノリ子はお腹を抱えて笑い転げた。嬉しそうに、じゃあ今度はスプラッタームービーの鑑賞会をしよう! と僕の肩を叩いた。そのいじわるな笑顔を睨みつける。

「そんなに拗ねることじゃないだろ、トヲル」

「知らないよ。何があっても、もうノリ子の心配はしないぞ」

トヲルは怖いのダメなんだ。僕の反抗に、益々ノリ子は笑った。そんなことない。僕は必死に弁解する。だが、ノリ子はまったく話を聞いていない。

この人は、僕には到底理解できない。変人を知ろうとしても無駄な事じゃないか。常人の僕には疲れるだけだ。そう思って、以来ノリ子の提案には黙って従うことにした。それが最善だろうと。

「トヲル、いいこと考えたよ!」

苦い出来事を思い返していたら、ふいに大声が室内に響いた。黙っていると後ろから、嬉々とした様子でノリ子が騒ぐ。ベッドから身を乗り出し、僕の顔に鼻先を近づける。彼女の爛々とした瞳に僕の呆れ顔が映っている。間違いなく、いいことじゃないだろうな、次は肝試しでもしようというのかな、とぼんやり考えた。

「……何だい、いいことって」

「一緒に旅に出よう!」

ノリ子の発言は、僕の想像を軽々と飛び越えていった。

あの日、彼女が僕の前から去って、ちょうど一年が過ぎた。その間、労働は続いた。自分が笑顔を向ける、目の前に立つ客のことを僕は知らない。僕は彼らをテーブルに案内し、注文を取る。簡単な関わりだ。

店内はコーヒーと煙草の臭いが充満している。客入りはそれ程多くない。彼ら相手に僕は働く。高い声を出し、丁寧な口調で話し、注文を取ってから客へと食事を運ぶ。最後に会計を済ませる。無心で繰り返す。

やめたかった。何のために自分がこのアルバイトを続けているのか、分からなかった。それでも、自然と足は店へ向かってしまう。

スニーカーを履く。自転車をこぐ。朝の街の光景から目をそらす。

金が欲しい。社会経験を得るため。時間が余っているから。労働の理由は、いくらでも絞り出せるような気がする。だから、すべて本当じゃないんだと思う。

その日は和やかな老夫婦が店に来た。

話を聞くと、彼ら夫婦は五十年以上連れ添った仲らしい。二人でテーブルに腰を下ろして、しばらくの間ゆっくりとブレンドコーヒーを飲んでいた。コーヒーが自然と似合う。僕は二人の座っているテーブルの側で、その様子を眺めていたいな、と思った。

いまも夏だった。この店は夏の間、毎日営業している。僕もアルバイトとして労働を続ける。あの夏もノリ子は頻繁にこの店に来て、クリームソーダを頼んでいたのを思い出した。

飲み終わったのか、男性がお会計を済ませた後に女性が彼へ向けて、「ありがとう」と言うと、恥ずかしそうに照れながら、「やめろ。笑っちまうだろう」と男性は白くなった髪の薄い頭をかいて身体を上下に揺らす。

妻を指さし、「こんなこと言うんだ、参っちゃうよ、ホント」と顔をクシャッとさせ、二人の近くにいた僕に向けて言う。それを聞いた女性がにこやかに身を乗り出して言った。

「ありがとう」

もう堪らないと、男性は僕を見て笑う。その笑顔に思わず、僕も目を横に細めた。そんな自分に驚いた。

退店時、足が悪いのだろう。ゆっくりと杖をついて歩く妻を、先に進んでいる夫が何度も立ち止まり、振り返りながら行く。店を出るとき、二人とも深々と頭を下げていた。僕も深くお辞儀した。その間、最後に見えた老夫婦の腰が曲がった背中を思い出す。頭を上げ、僕は食器を片付けに二人が座っていたテーブルへと向かう。ソーサーの上に置かれていたカップの側には、ボールペンで余白に丁寧な文字が書かれた、一枚の名刺が残してあった。

――ありがとう、また来ます。

男性の残したであろう名刺を取り上げ、数瞬見てから、ポケットの中へ静かにしまった。

その後も労働を続けた。ノリ子はもうこの店に来なくなった。相変わらず、僕はこの店で身体を動かし続ける。下宿では、眠るか食うかの日々だった。

接客中、あの老夫婦のような人間が来るたび、決まってノリ子を思い出していた。彼女は彼ら夫婦の品性ある佇まいには程遠い、粗野で怠惰な変人の先輩だ。それなのに、思い出さずにいられないのはなぜだろうか?

店でも、下宿でも、ああいった二人組を見た日は、ノリ子のことをしがみつくように考えている自分がいるのを実感した。よくあることだ。でも、今回は特に強烈だ。会いたくもないノリ子のことを、どうして僕は考え続けているのだろう。もしかしたら、いまが彼女との旅先で過ごしたあの夏と同じ、熱に満たされた大気の季節だからかもしれない。そう思った。布団に寝転び、強い眠気に微睡む。

その時、スマホが鳴った。億劫だ。いったい誰から? 僕は緩慢な動きで起き上がると、電話に出た。

一緒に旅に出よう!

昨日のノリ子の突拍子もない提案に、僕は諦めて従った。一週間の休暇をアルバイト先の店長に申請した。店長は面倒そうな表情をしたが、最後には承諾してくれた。

そうして、いま僕はこの町の駅から快速電車に乗っている。客は五人程度。僕の隣の座席にはノリ子がいる。二人ともリュックサックで出かけた。僕らは車内でババ抜きをしているが、これは二人でするゲームじゃないと思った。果てしなく退屈で、何よりつまらない。

「ババが全然こっちに回ってこないね。ねえトヲル、もしかしてババ抜き弱いの?」

「僕はババが好きだから、なかなか手放せないんだよ」

「アハハ、バーカ」

電車の中で二人きりのババ抜きは続いた。結局七回して、僕は一度も勝てずに終了した。ゲームが終わったのは、単にノリ子が飽きたからだった。その間に彼女はきのこの山を二箱完食していた。余裕綽々といった様子で。実に忌々しい。

その後、次の学期の講義に関する話や、いつもの死に方談義を二人でした。彼女は妙に饒舌だった。死体を洗うバイトがあるんだって。何それ、ばっちいよ。どんな風に死ぬべきか分かるかも、ほら、いっぱい死体を見て検証するんだよ。アハハ、いまどき無いよ、そんなバイト。会話は果てしなく続いた。

その内、僕はこの旅の行き先が気になってきた。内容はノリ子に一任しているけど、本当に目的ありきの旅なのか不安だった。すでに車窓から見える景色は川と山ばかりの田舎である。野生動物注意と書かれた、黄色と黒の道路標識。質問はしたくないが、仕方ない。

「ところでノリ子。僕らは一体どこに向かってるんだ?」

尋ねた瞬間、ノリ子はピタッと談笑を止め、僕の顔を正視する。気まずそうに頬を指でかく。その様子に、僕は「無計画」という最悪の答えを予想した。だが、ノリ子の答えは違った。しかし、やはり良い答えではなかった。

「私の故郷だよ」

申し訳なさそうに笑ったノリ子は、これで勘弁してと、ポッキーを一箱リュックサックから取り出し、僕に手渡した。それから、ちょっとお手洗いと言って、席を離れていった。ノリ子はまたトイレか。どうやら彼女は頻尿らしい。忙しい人だ。

僕はひとり座席に残った。電車は進み続けた。今日は気持ちのいい快晴だった。

……それがどうした。

ポッキーが賄賂とは安すぎるだろう。第一、肝心のチョコレートが溶けている。すでにベトベトだ。これでは味無しプリッツだ。何のための賄賂なのか。ノリ子の退避行動もまた迅速だ。それが余計に腹立たしい。 

一気に憂鬱になった。彼女の地元への帰省に、僕を同行させる理由が分からない。良くない事なのは確かだと思う。だってノリ子だもの。もう聞くのも怖かった。

ようやく彼女の地元の駅に着いた。僕らは乗り継ぎを二回して、およそ三時間にわたり電車に揺られた。長いし、実に遠かった。

駅から彼女の実家へと歩く。草と水の匂い。照りつける陽に肌が痛い。あちこちで虫が鳴いている。田んぼや河原の見える細い道を少し行くと、一軒の壮麗な日本家屋が見えてきた。随分と立派だ。一〇〇〇坪は優にあるだろう。小屋や庭まである。ノリ子はその建物に向けて指を差す。

「トヲル、着いたよ」

「まさかあれが、ノリ子の家なのか」

ノリ子は頷いた。驚いた僕は気力を振り絞り、歩く足を速めた。待ってよ、トヲル。後ろからノリ子の呼ぶ声がする。でも、振り返るのも嫌だった。あれ程の邸宅だ、きっと相当の出迎えが待っているはずだろう。そう思うと最後の力が漲ってきた。邸宅に辿り着いた僕は肩で息をし、門の前に立ってインターホンを押そうとした。もう喉がカラカラだ。その時、

「違うよ。あっちじゃなくて、こっち」とノリ子が僕の手を引く。

 家の門からさらに離れた左の戸口へと向かった。小さな扉を開けるとそこに、さっきの小屋がある。

「ここが、私の家だよ」

プレハブで出来た小さな離れだった。期待した僕が馬鹿だった。そう思った。

プレハブの中は思った以上に快適だった。エアコンはある。寝床もある。冷蔵庫まである。電気が通っていて、プレハブの外には簡易トイレと個室シャワーが併設してある。ほとんどホテルだ。これなら、まだ野宿より幾分はマシだろうと考えた。

僕は荷物を下ろすと、彼女の両親に一応の挨拶だけでもしようと思い、ノリ子に尋ねた。挨拶してこなくて良いのか? ノリ子は不機嫌な表情になって、「いいよ、あの人達は」と言った。仲が悪いのだろう。そう思って、それ以上の詮索は控えた。その日、僕はプレハブ倉庫で初めて眠った。エアコン一つでこんなに快適になるとは驚いた。おかげで僕は同室に女性がいるにも関わらず爆睡できたようだ。そのことで今朝、起きたときからノリ子にずっとからかわれている。トヲルはインポなの?

ノリ子は変人だ、欲情なんてするものか。そう口にしようとして止めた。言ったら最後どうなるのか、さすがに気付いた。ノリ子も女性だ。彼女にもプライドがあるだろう。下手に刺激して追い出されでもしたら、ここで野宿はまずい。もうエアコンなしでは無理だ。

脳をフル稼働して導き出すんだ、唯一絶対の最適解を!

「ノリ子の魅力を前に、僕は理性を総動員していたんだ」

「爆睡していて、その言い訳は苦しいね」

ノリ子は鼻で笑った。

ゆえに、早朝から気分は最悪だった。僕は朝食の後、彼女が簡易トイレに行っている間、ノリ子の弱みを探すことにした。プレハブ内にきっとあるはずだ、どうにかやり返したい。子供じみた仕返しを考えて辺りを探った。その時、冷蔵庫の奥に何種類もの錠剤が大量に入っているポリ袋を偶然見つけた。どのような薬かは知らないが、触れてはいけないものを見つけた気がして、そっと元の位置に戻した。心臓がひどく速まって鼓動した。落ち着くまで、深呼吸を繰り返した。おかげでトイレから戻ってきたノリ子に怪しまれることは無かった。

早々に朝の支度を済ませた僕らは、ノリ子の案内で小さな町を見て回った。大学のあるあの街に比べたら、ここは町どころか村のようだった。田んぼと畑ばっかりだ。確かに狭いよねと、ノリ子は苦笑いを浮かべていた。

本当に何もない。僕らが乗ってきた電車で七駅戻った所に、ショッピングモールがあって、それが近隣で最大の遊興施設だった。行ってみる? いや、またの機会にとっておくよ。僕らは彼女の小さな故郷の道路を歩いた。コンクリート舗装が一部剥がれていた。小学校と中学校は、今や生徒総数が合計百人に満たないらしい。もはや限界集落だろう。

「ノリ子の地元、自然豊かな場所だな」

「まあね、本当にド田舎だよ」

「ノリ子は今回、なんで地元に戻ってきたんだ?」

「気分だよ。トヲルがいれば、退屈しなくて済みそうだし」

僕はヒマつぶし要員か。ノリ子はアハハと笑い、それから僕に謝った。僕は別に気にしていなかった。初めて見る場所は、僕にとっても引きつけられる場所だった。何もないことが、かえって面白いと思った。無性に心地良いのだ。早く案内を続けて欲しいと彼女に頼む。ノリ子は不思議そうに僕の顔を見つめた。怒らないの?

「ノリ子には怒るよりも呆れたよ。もうこの際、この町を満喫してやる」

「……やっぱり君は変な奴だね」

ノリ子にだけは言われたくないと、僕は猛抗議した。彼女は微笑んで、出会ったときからそうさと、僕の肩を叩いた。行こう。まだ案内は続いてるとノリ子が催促する。僕は彼女の言い分に納得いかないながらも、どうしてだか言い返せなかった。僕は普通だ。そう言えばいいだけなのに。喉の奥に変な引っかかりを感じながら、先へ進むノリ子の後を追った。

それから一日かけて、小さな町を見て回ったが、結局恐ろしいほど何もなかった。あの街でノリ子が、何に対しても強く興味を示した理由が分かったような気がした。

歩き疲れた重たい身体を引っ張り、ノリ子のプレハブに戻ろうとしたとき、家の前に誰かがいた。男だ。スポーツ刈りで体格は良く、盛り上がる筋肉で身体が張っている。まるでラガーマンみたいだ。見たところ、同世代ぐらいだと思う。

声をかけようと足先を男の方へ向けた矢先、隣でノリ子が声を出した。

「テツだ、どうしたの?」

 その声を聞いて振り向いた男が、驚いた表情をする。

「ノリ子、おまえ本当に戻ってたのか」

事態が飲み込めない僕に、ノリ子が耳打ちする。私の知り合いだよ。

「ノリ子の幼馴染みのテツ男です、あなたは?」

「……トヲルです、ノリ子の後輩の」

僕は自己紹介をしながら、会釈した。テツ男という男が、物色するような視線を僕に向ける。彼が僕に対して戸惑う様子が、こちらからも見てとれた。初対面だから、普通のことだろう。

僕らはノリ子の案内で、とりあえずプレハブの中に入った。

テツ男は好青年だった。ノリ子の小学校の同級生で、大変気前の良い人だった。この頃ノリ子とばかり過ごしていたからか、同年代の男性は一緒にいて楽しかった。話してみると、僕はすぐに彼と打ち解けた。兄弟か親友のようだと、ノリ子も言うほどだった。ノリ子とテツ男、そして僕。三人で一緒に行動するようになった。まるで昔から三人一緒に過ごしてきたみたいだと思った。

三日間でこの町のほとんどを回った。駅舎、小さな商店、山中、河原、野原。

僕は特に河原を気に入った。黄色、赤や青の小さな花が咲き、バッタ等の虫が潜む雑草が繁茂している。その少し先に砂利を敷き詰めた岸辺があり、そこは水と草が混ざった濃い匂いにむせ返っている。街にはない、僕の経験したことのない景色だ。僕には淡泊な街の汚れた河川よりも、河原の濃密な清涼感が肌に合っていた。

昼下がりの河原は人が少ない。水面は日に当たり、激しく輝いている。水浴びしようよ。ノリ子は言ったそばから、全力で河原へと駆け出していった。僕とテツ男も彼女を追いかけた。彼女は急いでビーチサンダルを脱ぎ、後ろに放ってしまう。

ノリ子は岸辺の水に足を浸けた。冷たい! 陽気に騒ぎながら水を蹴り、笑っている。水滴が彼女の周りで跳ねる。日に光る。自らの感情を惜しみなく露わにしているような彼女に、僕は自分との程遠さを感じて見惚れた。あのように笑ったことが、僕には果たしてあっただろうか?

「おーい! トヲル、早くおいでよ。すっごく気持ちいいよ!」

こちらに向けて手をぶんぶん振っているノリ子に、いま行くよと、大声で応えた。

僕もスニーカーと靴下を脱いだ。ジーンズの裾をまくり、素足で入った。冷たさが足の先から背筋を這って全身を巡る。外の暑さに相まって、さらに冷たく感じる。隣でテツ男がズボンだけ履き、上半身は裸で川に飛び込んだ。辺りでバズンッ! と水が大きく跳ね上がり、僕とノリ子の身体を満遍なく濡らした。テツ男は水面から顔を出して拭い、髪をかき上げた。

息の上がっているテツ男にノリ子が水をかけた。

「うわっ……よっしゃ、仕返しだ!」

 テツ男からの反撃にノリ子は可愛らしい悲鳴を出した。

「もう、本気出すからね」

「やってみろよ」テツ男はニヤリと笑う。

「ねえ、トヲルも。ほら、いっしょに!」

ノリ子が僕の手首を掴む。やろうよ。そう言って、僕を二人のすぐ近くへ引っ張って行った。手加減しないぜと、テツ男が足で水を蹴り上げる。ノリ子が僕を盾に躱した。当然、水は僕の顔に全てかかった。僕は下を向いて黙った。

水中に僕の足がある。足の裏に砂礫が当たる感触がした。小さな魚が慌てふためき、すぐ向こうでめちゃくちゃに暴れながら泳ぐのが見える。目の前のすべては自ら動いているのだ。止まっているものはなかった。

ワクワクした。胸の奥底がひりつくように熱い。

「おいトヲル、大丈夫か……」

顔を伏せたままの僕を心配したのか、テツ男がこちらを覗きこんだ。

その瞬間、僕は顔を上げると、テツ男へ目がけて思いっきり水をかけた。そのまま続けて、手の平で水をすくってかけた。こいつ! テツ男がはにかんで、僕を水中に引きずり込もうと、こちらに倒れ込んだ。それを僕は躱し、ノリ子と手をつないだ。

「行こう」思わず叫んでいた。

ノリ子は笑った。二人でテツ男から距離を取った。待て! 後ろから大声が聞こえた。そう思ったときには、身体が宙に浮いていた。僕の視界には水面と、ノリ子と、テツ男の太い腕があった。一際おおきな音を立てた。僕らの身体はテツ男に覆い被され、水中へと頭から倒れ込んでいた。絡まった糸が解けるように水中で僕らは散らばる。目を瞑って身体をひねる。あぶくが鼻と口からこぼれた。水流の低い音が鼓膜を震わす。光を、水上を目指した。

「――ぷはっ」

顔を水面から出して、大きく息を吸いこんだ。気持ちいい。心臓が鼓動している。生きている。実感する。それが新鮮だった。知らなかった。身体中が軽かった。すぐ近くから、ノリ子の突き抜けるような笑い声が聞こえてきた。テツ男の太い笑い声が聞こえた。僕も思わず笑っていた。腹の底から声が出た。頭上に広がっている空を見上げた。雲ひとつ無く、届きそうにないほどの青い空だ。

帰り道は三人とも全身ずぶ濡れだった。僕らの歩いた道の上に水がしたたり落ちていく。一人先に歩くノリ子。彼女の履いているサンダルからパタパタと音が鳴る。夏の小道に咲くカンナ。前方にどこまでも広がる空。ノリ子が振り返らずに一人、鼻歌交じりに進んでいるのを後ろから眺めた。

「楽しかったな。なあトヲル、お前ってあんな風に笑えるんだな、俺もっと静かな奴かと思ってたよ」テツ男が白い歯を見せて笑う。

「ああ、自分でも驚いているんだ」

「そっか。じゃあ、良かったんだろ、きっと」

 そうだねと、僕はテツ男の言葉にうなずいた。

「まあ、ノリ子も良かったよ、アイツがあれだけ笑えるようになったんだから」

テツ男がゆっくりと、しみじみした様子で呟いた。

その言葉に、僕は首をかしげた。笑えるようになったノリ子とは、一体どういうことだろう? 彼女は出会ったときから傍若無人で、笑っていないことの方が少ないと思う。ポッキーを賄賂に出す人が、実は暗い性格だというイメージがいまさら湧かない。

「何なんだ、その話」

 僕はテツ男に聞いてみた。笑えるようになったって、どういうことだ? 僕の問いかけに対し、テツ男は驚いたようだった。知らないのかと、強い調子で聞かれる。僕は首を縦に振った。すると、彼は冷めた声を出した。トヲルは関係ないもんな。テツ男の顔つきが一瞬だけ別人のようになるのを、僕は見逃さなかった。快活な彼が不意に見せた、暗い表情が妙に引っかかる。教えてくれよ。再び聞いてみた。テツ男は少しのあいだ思案していた。それから、やっぱりトヲルは知っておいた方がいいと、やっと口を開いた。

「ノリ子はさ、小学生の頃にいじめられて、自殺しかけたんだよ」

テツ男は前を歩くノリ子を一瞥し、また言葉を連ねる。

「ひどいいじめだった。アイツ、質の悪い男子の三人組に目をつけられたんだ。初めは些細なことだったけど段々エスカレートしていってな。その内、机を隠されたり、給食に虫を入れて食べさせられたりしてさ、学校の倉庫に閉じ込められて乱暴されたんだ。それから……男子トイレの便器に顔を突っ込ませて、その水を飲まされてたよ。俺はそれを知ってても、何もできなかった」

「……それじゃあ、テツ男は傍観者だったのか」

 努めて冷静に声を出した。そうだよと、恥じるように彼は言った。

僕は前を歩くノリ子を見つめた。陽気で変な先輩だと思っていた彼女には、いじめられた過去がある。その自殺未遂の少女はいま、楽しげに鼻歌を口ずさむ。翼をください。ノリ子の話は僕にとって唐突に判明した過去の事実だ。テツ男がいじめの傍観者だったこともだ。現実感が湧かなくて、僕は思わず閉口してしまった。足が僅かに震えていた。

ひどい出来事だったよ、最低だった。テツ男は眉間に皺を寄せた。喉が潰れてしまうのではないか。そう思うほど、彼の声は低かった。

「テツ男は今、いじめが許せるか?」

テツ男は許せないと、僕の問いに即答した。いじめた奴も、それに傍観していた奴だって同じだろ、許しちゃダメだ。テツ男の語気は話し始めたときよりも明らかに強くなっている。僕は動悸が速まるのを感じた。心臓が痛くなった。喉から熱い泡を噴いて倒れるかと思った。

「人間は正しくあるべきだ。トヲルもそう思うだろ?」

言え、言うんだ。頭で騒ぎ立てる誰かの声。無視できないほどの大声だ。

 彼の穏やかな顔が一変する状況を想像する。僕の答えを、彼は許さないかも知れない。

テツ男を凝視した。テツ男の顔を見ると、僕は堪らなかった。下腹部が燃えるように痛くなった。喉が渇いていた。僕はいま、テツ男に糾弾されているのだ。彼にその認識と自覚は無くとも。テツ男は怪訝な顔をし、どうしたんだよと僕の肩を揺すった。

……テツ男に嘘は吐けそうにない。いずれバレるだろう。だが、本当に一時の感情で言うのか?

脳裏で問いかける声を無理やり振り払った。打ち明けるなら早い方がいい。彼も話したんだ。僕だけ隠し事をするなんて、それは卑怯じゃないか。浅く息を吐いて、呼吸を整えた。指先が冷たかった。手のひらを強く握り、拳をつくる。

「テツ男、僕はいじめをした側の人間だ」

僕は彼の目を覗きこんだ。テツ男は目を開き、信じられないと呟いた。

「僕はテツ男になら、話せると思ったんだ」

テツ男は僕に、驚愕の眼差しを向けた。気まずそうな顔をして、額から噴き出る汗をしきりにこすっていた。きっと暑さのせいではないのだろう。

この話は止そう。彼はそう言った。

僕はその時、彼の瞳の奥に安堵の色を見た気がした。

テツ男からはそれ以上何も言わなかった。僕も話さなかった。

日が傾いていた。夏の夕焼け空はまたたく間に色を変え、紫に淡く沈み、暗く横に広がっていく。襲いかかって来る後悔や羞恥心を無理やり押し返し、僕は歩いた。

「でっかいタヌキ見つけた! ねえトヲル、タヌキがいるよ、死んでんの!」

突如、ノリ子が僕を呼んだ。夏草の根元を指差し、彼女は喜びながら一人ではしゃいでいる。屈託のない笑みを僕に向ける。その表情を信じるべきか戸惑ってしまう。

いま行くよ。僕は大声で応えた。

昨夜の電話はテツ男からの連絡だった。僕に来て欲しいと、彼は言った。

「アイツも会いたがってるぞ」

「そんなはず無いだろ」

「今は夏休みだ、予定は空いてるよな」

 一方的なテツ男の言葉に、予定は空いてると答えた。実際、バイトの出勤は三日ほど入っていない。明々後日まで休みだった。彼は納得した様子で通話を切る。

だけど僕は行かなかった。行きたくなくなったから。憂鬱だったから。彼女自身に近寄りたくなかったから。だから、その日は一日中、下宿で眠って過ごした。目が覚めるたび、蝉の鳴き声がうるさかった。

翌日も憂鬱だった。これ以上、下宿で過ごす気にもなれない。僕は財布とスマホだけ持って出かけた。遠くに行こう。そう思って、町の最寄り駅から出ている快速電車に乗った。車内はエアコンで涼しい。乗客は少ない。途中で乗り換えたりして、三時間ほどで見慣れた駅に着いたので、そこで下車することにした。降りたとき、なぜ僕はここに来たのだろうかと不思議に感じた。引っ張られるように、僕はここに立った。答えは出なかった。

駅のホームにはあの夏の匂いが満ちている。水と草の匂いだ。ここまで流れてきたのだろう。その匂いの元へと僕は歩いた。そこは広々とした河原だった。

夏の光を水面が反射している光景が目に入った。地元の小学生達が川遊びをしているようだ。男の子が三人、騒ぎながら川魚を追いかけている。しばらく眺めていると、後ろから声をかけられた。

トヲル、ここで何を?

テツ男だった。彼は頭を坊主にしていた。頭皮に汗をかいている。陽が直に当って暑そうだ。彼の変わり様に驚いて、声が出せなかった。

「お前、昨日どうして来なかった?」

 テツ男は僕をなじった。きつい視線を彼から向けられる。僕は目を伏せ自嘲した。

「部外者が行くのは、おかしいだろ」

「トヲルは本気で、そう言ってるのか?」

僕は黙った。テツ男は舌打ちした。

「じゃあ、今さらここに来た理由は何だよ」

理由を決めていたのではなかった。足が勝手にここへ向かっただけだ。そう思っても、言葉にならなかった。どう伝えるべきか分からない。僕も自分の行動原理がよく分らないんだ。何も話さない僕に、テツ男はさらに苛ついていくようだった。

「何か答えてくれ、会話にならない」

「なあ、テツ男。あの時、僕もあの場にいたら、きっと関係者ぐらいにはなれたはずだよ」

ようやく絞り出した僕の答えに、テツ男は唇を噛んだ。

彼に言うべきではなかっただろう。でも、それは本当で、もう覆らないのだ。僕は悔しかった。伝えるべき言葉は、一生見つからないかも知れないと思った。仕方ないのだ。たらればは止そう。そう低く呟いた。

子供達の無邪気な笑い声が河原一帯で軽やかに響いている。その音が耳に残る。

河原からの帰り道、テツ男から聞いた言葉が頭から離れなかった。彼女がいじめを受けた過去の話は、深く重たい楔を僕の心に打ち込んだ。僕はひどく落ち込み、動揺した。

僕はテツ男に自分の過去を打ち明けてしまった。きっと贖罪ではない。もっと別の、醜い何かだと思う。あの時、僕は自慰的な機会に飛びついただけだ。

 プレハブ小屋に戻ってから、ノリ子と二人で夕食を食べた。カセットコンロを使って沸かしたお湯で、カップ麺を二人分作った。啜りながら、僕はテツ男に話したことを後悔し続けていた。あの時、彼の視線から軽蔑を感じた。隠していれば知られるはずが無かったのに、言わずにいられなかった。自分はこれほど口軽くものを言えたのかと恥じた。一時の感情で関係が壊れる可能性を作ったと考えると、愚かな行為だったと思った。その日は食事も進まなかった。僕は早い時間に床についた。

夜半、慌ただしい物音で目が覚めた。プレハブの扉を乱暴に開け放つ音だ。離れからノリ子が走り出ていったようだった。こんな夜中にどうしたのだろう。僕は気になって、部屋の明かりを点けた。暗い室内は、あっという間にはっきりとした光景に変わる。

開けっぱなしの冷蔵庫、その周りにスナック菓子が散乱している。無造作に、次々と開けられたお菓子の包装ビニール。尋常じゃない。即座にそう思い、タオルケットをはね除けて、ノリ子の後を追った。心臓が痛いほど速く鼓動した。

ノリ子は本邸側にある庭の前でうずくまって泣いていた。植え込みに顔を近づけて嗚咽していた。すると、彼女の口元からボタボタと黄色い液体が出てきた。酸性の臭い。ノリ子は吐いていた。吐瀉物はまだ原型が残っているものが混じっている。さっき見たスナック菓子だ。

「……見つかっちゃった」

 ぜえぜえと息を吐いて、ノリ子は僕にへらへら笑いかける。顔が土気色をしていた。

「食べても、すぐ吐いちゃうんだ。摂食障害ってやつだよ」

「いつから?」

「小学生の時からさ、何食べてもそうなの。参っちゃうよね、ホント」

ノリ子は落ち着きを取り戻したのか、いつものように高い声を出し、笑顔を向ける。僕は彼女の背中をさすった。優しいね。そう茶化すノリ子はぶり返したのか、胃の内容物を一斉に吐いた。夜の暗闇に彼女の嘔吐きと、臭い立つ吐瀉物が地面に落ち続ける音がした。

不意に、バン、と大きな音がした。

驚いて立ち上がり、辺りを見回した。目の前にある大邸宅の引き戸が開いていた。その中から皺だらけの顔の、和服に身を装った女が出てきた。母さん。弱々しい声でノリ子が呟いた。ノリ子の母親は、娘とまったく似ていない。夜だから曖昧にしか見えないが、厳しい顔つきをしている。表情が岩のように固まっている。僕はノリ子の介抱をしてもらおうと、その母親に声をかけた。

「すいません、娘さんが体調不良で。すぐに――」

「汚らしい。掃除したら早く出ていってちょうだい、目障りだわ」

それだけ言うと、母親は薄い羽織の袖で鼻を覆った。こちらを一瞥し、ピシャッと引き戸を閉め、襖の向こう側へ入っていった。呆然と母親が立っていた場所を僕は見ていた。ノリ子はまた吐いている。酸性の臭いだ。思い出して、ノリ子のすぐ傍にしゃがんで背中をさする。彼女の目尻が薄く濡れている。

「相変わらずだね、あの人も」弱々しい笑みを作って、ノリ子は力尽きたように地面へ倒れ込んだ。「トヲル、小屋まで運んでよ。ちょっと立てないや」

ひとまずノリ子をプレハブに運び、楽な姿勢で休ませた。そのあいだ、置いてあった新聞紙や古雑誌で彼女の吐瀉物の跡を掃除した。付近を散水し、全て片付けてから戻った時、ノリ子は薬を水で流し飲んでいた。何種類もあった錠剤の中から四つを服用したらしく、破れた包装が床に転がっていた。大丈夫か? だいぶ落ち着いたみたいと、手を振って彼女は僕に応えた。

「まあね、助かったよ。ところでトヲルは驚いたかい、こんな姿を見てしまって」

僕は首を横に振った。ノリ子は興味深そうに僕を見つめると、どうしてと尋ねた。線の細い身体で、僕の方へと撓垂れかかる。彼女の体温と体重がこちらに向けられる。運んだときも思ったが、彼女の身体はあまりに軽かった。

「ノリ子は僕にとって謎だらけだ。謎が一つ解けただけだろ」

 僕の答えにノリ子は愉快だと言いたげに身体を揺らす。

「特別に教えてあげるよ」

肩をすくめ、本題から入っていいよねと僕に聞いた。もはや誰の許可も求めてないはずだ。ノリ子は勝手に話し始めた。彼女のいじめが執拗に行われた小学六年生の時だ。虫や汚水を無理やり飲み込まされ、乱暴されて、ストレスから胃が食べ物を受け付けなくなったこと。それが原因で摂食障害になり、そのまま不登校になった。彼女はいじめのことを話しながら、僕が驚かずに聞いている理由を尋ねた。

テツ男から教えてもらった。僕がそう答えると、溜め息を吐いて、つまらない事してくれたなぁと、面倒そうに呟いた。

「まあいいや、続きを話そう」

ノリ子はその後、心に負った傷を中々癒やせなかった。不登校は三年にわたって続いた。彼女は狭いこの町で、腫れ物のようになっていた。次第に親も諦めて、ノリ子を見る目はわが子への同情から、疎ましさへと変わった。そして、僕らがいるこのプレハブへ強制的に隔離したらしかった。

数日が経ったとき、遂に彼女は自殺を図った。

「でも、死ねなかった」

 悲しそうに、淋しそうに、ノリ子は天井にぶら下がっている小さな裸電球を見上げた。

「強度が足りなくてさ、首吊ってみたけど失敗しちゃった」

舌を出し、はにかむ。イタズラがばれたのを恥ずかしがる子供みたいだ。

ノリ子は児童相談所に預けられ、施設に半年ほど入所した。かなり暴れていたようだ。脱出ばかりを考えていた日々だったと言った。施設を出てこのプレハブに戻ってきた彼女は通信高校を経て、今の大学に入ったらしい。

「どうかな、私のこれまで、トヲルから見て面白かった?」

ノリ子は好奇心を隠さずに尋ねる。僕はどう返事をしたらいいのか分からなかった。彼女の話は、面白いか否かという尺度で計るべきなのだろうかと思った。僕は少しだけ言葉に窮した。よく考えて答えないと駄目だ。頭の中で、限りある語彙の中から答えを絞り出した。

「不思議な話だと思う」

 不思議かい? ああ。僕は不快感を滲ませて答える。人に対し嬉々として、自分がいじめられていた過去を話すというのは普通ではないだろう。その点から見て、ノリ子は変人だと思う。やはり僕には理解が及ばない存在だ。そう伝えると、ノリ子はすこし考え込んだ。

「トヲル、君はいじめを許せるかい?」

 不敵な笑みをノリ子は浮かべた。偶然にも、僕がテツ男に夕方の帰り道で投げかけた質問と同じだ。僕はゴクリと唾を飲んだ。もうテツ男に話したんだ。その内、ノリ子の耳にも入る。話せばいいと、僕は腹を決めた。僕は息継ぐ間もなく、せっつかれるように声を出した。

「その質問は正しくない。ノリ子、僕は既にいじめっ子だよ」

 話し始めれば、言葉は滝のように口から滑り落ちていく。

 僕はね、小学生の時に一人の女の子をいじめてた主犯格だ。些細なきっかけだった、その子が不出来なのを嘲って、爪弾きにしたのさ。徹底的に仲間はずれにして、自尊心をへし折ってやったよ。それでその子はね、自殺しちゃった、彼女の住んでいたマンションのベランダから飛び降りたんだって、六階だったらしいね。内々で自殺は揉み消されたよ。学校も事件を表に出したくないと、相当揉めた末に示談で話をまとめたらしかった。でも、分かるだろ? それからすぐに、僕は学校にいられなくなったんだ、周りから白い目で見られる、アイツらも僕に同調してたのに、簡単に突き飛ばすんだ。今度は僕が爪弾きにされる番だ、そのくせ皆が僕を見ているんだ、嫌な視線だよ、視線に敏感になってさ、耐えられなくなったから転校したよ。高名な経営者だった父さんは僕を指差して人殺しが甘えるなって、散々怒鳴られて殴られたよ。このガキ、俺に恥をかかせやがって! 母さんにお前の育て方が悪いんだって言ってさ。俺の資産が目当てで嫁いだんだろ、育児ぐらいきっちりしろ! すみませんって、母さんは肩をビクビク震わせていつも父さんの足下に跪いてた。親に売られて、頭までイカレたのか、あぁ、なんとか言え! そう怒鳴り散らして、すぐに次の商談に父さんは向かったよ。母さんは泣いてた。あの時、母さんは言った。トヲル、正しくありなさい、二度と間違えちゃダメよ、人の目を常に意識するの。その時、僕は初めて母さんの悲しそうな顔を見たよ。トヲルは母さんを困らせないわよね? 僕はもう失敗できないと思ったよ。僕はやり直すことになった訳だ。それから僕はずっと世間の倫理や道徳、常識に固執するようになった。こうすれば二度と、僕は誰もいじめないと安心したんだ。あの視線を向けられないと思ったんだ。母さんを困らせないで済むんだ。父さんは、あの人は怒らないんだ。あの人達の目の奥に映る僕の顔は、いつだって幸福だ、僕は笑っていられたんだ。それなら嘘でも偽善でもいいじゃないか、目的は達成できるだろ。でも、どうして壊れてしまうんだろう。ねえノリ子、分かるかい? 僕は許す側じゃない、許される側さ。僕を分かってくれるか? ねえ、ノリ子は僕のことを軽蔑するか?

トヲル、君はやっぱり異常だね。ノリ子は心底嬉しいと僕の肩を強く掴み、しきりに頷いた。頬を紅潮させて、白い歯を見せて笑う。

「僕は普通だ」はっきりとした声で訴えた。

「いや、君は異常だよ、私たちは同類さ」

 僕の否定の声はすぐにかき消される。ノリ子はまくし立てる。私の勘は正しかったね。キラキラとした目で僕を見るノリ子は、感動に打ち震えているように見えた。

「あの夜、死にたいような顔をしてた君は、私には仲間に思えたよ」

 彼女は手を叩きながら盛大に笑い転げた。傑作だね! 

「いじめ被害者の前で、自分がいじめの主犯格だったなんて言ってさあ。何を考えてるんだろうね、君は!」

 トヲル、君は最高だよ。僕はノリ子の姿に、すでに何を言っても無駄だと分かった。

それから夜通しでノリ子は延々と騒いだ。何もかも忘れてしまいたいと、胃に酒を流し込んだ。僕も彼女に付き合った。飲料缶を開けて、スナックを食べて。むせて吐き出しては、また何か口に入れる。騒々しくて、楽しい、後で振り返ると痛々しくもある夜だった。アルコールを飲むと、ノリ子は再び嘔吐する。途中から意識も無くなったように、会話がかみ合わなくなってきた。脈絡のない話だけが聞こえる。ノリ子はガタガタ震えている。寒いよ。そう言って彼女は自分の細い上腕を強く噛んで笑った。僕も途中から記憶が混濁していた。黄色に発光する夜光虫が目の前をブンブンと音立てて飛んでいる。

狂騒の最中、気になって聞いてみた。

「いじめっ子だった僕を、ノリ子は許せるのか?」

「許すも何も、トヲルからの実害ゼロだし、関係ないでしょ」

 彼女はすこぶる快調に、みんなブッ殺してやると夜に叫んだ。

赤い日の眩しさに目を焼かれるかと思った。目覚めたのは夕方だった。

昨夜の悪酔いのせいだろう。ひどい頭痛にこめかみを押さえた。起きたばかりなのに疲れ果てていた。プレハブ内にノリ子はいない。どこに行ったんだ。僕は服を手早く着替えた。

外に出たとき、自分が世界から取り残されたような寂しさを感じた。ノリ子を探しに行こうと、僕は歩きだした。彼女を探す手掛かりもなかった。手当たり次第に、僕は町の中をひとりで歩き続けた。その途中、テツ男に会った。彼はスクーターに跨がってどこかに行こうとしている。聞くと、実家の手伝いだと彼は言った。テツ男の家は豆腐屋だった。ちょうど豆腐を届けた帰りらしい。

僕はノリ子の居場所を知っているか尋ねた。分からないと言うテツ男の答えに僕は落胆を隠せなかった。これ以上どこを探せばいいのだろうか。でも、探すしかない。

彼に礼を言うと、また歩きだそうとした。僕は早くノリ子に会いたかった。

「乗っていくか? 探すならコレの方が早いだろ」

テツ男が僕を引き留めて、スクーターの座席を手のひらで叩いた。遠慮しなくていいぜ。

「でも、いいのか、お家の人には連絡しなくて大丈夫か?」

「気にするな、親父には後で謝ればいいさ」テツ男がもう一度、スクーターを叩く。

「乗らないのか?」

「……頼む」

僕はテツ男の後ろに座った。捕まってろと、彼は僕の手を自分の腰に回してホールドさせる。エンジンを吹かせて車体は走り出す。スピードに乗って、景色は徐々に加速しながらスクロールしていく。ノリ子の行きそうな場所を僕ら二人は順番に回った。じきに日も沈んだ。夜になった。何もない町だ。灯りは僅か。星がよく見えた。羽虫が飛び回る。すぐ見つかると思っていた。だが、彼女はいなかった。

「なあ、アイツ何か言って出ていかなかったのか?」

 風に負けないように口を大きく開いてテツ男が訊いた。

「分からない、起きたらいなくなってた」

僕も声を張り上げた。顔に吹きつける蒸し熱い風に、僕は思わず目を閉じる。

「昨日のことだけどさぁ」テツ男が上ずった声を出す。「ノリ子には言ったのか?」

「言ったよ。流れで、ついさ」

「言っちまったかぁ……アイツなんて?」

「何も。ただ面倒そうにしてたよ」

「……もしかしたら、あそこかもしれないなあ」

僕の言葉を聞いてテツ男は考える様子をした後、そう言った。その途端、さらにスピードが上がった。三〇キロはすでに超えているだろう。車体は加速していく。目を開けてみろよ。前で彼が言う。気持ちいいぞ。僕は恐る恐る閉じていた瞼を持ち上げた。風で痛い目を耐えた。眼前に広がる景色は、延々と続く夜の田園だった。若い稲を揺らし、穂先が擦れ合うときに鳴る音が、加速で生まれた風の吹き抜ける音とエンジンの音に挟まれて、小さく聞こえていた。遠くに目を向けると、水を張った田んぼが青黒く光輝いている。

声も出せない。僕は圧倒された。

テツ男が笑っていた。田園を抜け、民家が並んでいる路地を抜けていく。ヘッドライトに照らされる道路を、日の落ちた星空の下で走っていた。

ようやくスクーターが止まった。そこは小学校だった。ここにいると思うぜ。テツ男はスクーターを校舎の陰に覆われるように駐輪した。彼は黙々と歩きだす。砂埃の舞っているグラウンドを横切る。僕も後に続く。体育倉庫の前に立つと、おもむろに重厚な鉄の扉をテツ男は開けた。倉庫の中は石灰や汗の臭いが混ざっている。

「誰?」

 奥から聞き慣れた声がした。僕は走り出して、声のした方へと向かった。

体育用具に囲まれて、ノリ子が立っていた。彼女の手にはビニール包みが握ってある。

トヲルだ、それに……テツも来たんだ。ノリ子が僕らのことに気付いたらしい。目の前に近づいてきて、彼女はそのビニールを僕の胸元に押しつけた。

「花火、しようよ」

それは市販のおもちゃ花火セットだった。ビニールの中にはカラフルな花火がすき間なく詰め込んであった。ノリ子の顔は暗い空間の中、ぼんやりとした影に覆われていて無表情だ。分かった、花火しよう。後ろにいるテツ男にも聞こえるように、大きな声を出した。三人でグラウンドに出た。ノリ子がバケツに水を汲んできた。僕とテツ男は蝋燭の支度をしていた。闇の中で人の動く姿は見えず、いきれや蠢きだけが感じられた。

テツ男が身をかがめて蝋燭の先端に火を灯した。その周りの濃い闇が薄れた。まだ僕らの顔は見えない。透明なビニール包装を破く音がする。少しして、火の側に真っ白で細く、とても華奢な手が花火を持ちながら近づいてきた。そして、先端が着火した。

弾けた。音が破裂した。淡く飛び散る火花の影。僕らの身体を暴れるように光が包み込み、真下から噴き上がって闇を払い、露わにした。僕がいた。テツ男がいる。ノリ子が手に持っている花火を次々に点火する。彼女は笑っている。

「トヲルも早く。さあ、急いで火を点けて!」

僕たちは一斉に動き出した。花火を次々に点ける。火花が連続する。火薬の臭い。歓声が上がる。眩さに興奮した。儚く移り変わる闇と光の中で、人影が何度も交錯した。夏の暑さが、放出される火花の熱に溶け合っていた。

花火はあっという間に終わった。後に残った煙が鼻腔を刺してくる。

線香花火は嫌い。ノリ子が嫌がったので、僕とテツ男も手を付けずにいた。煙に満ちていた辺りは、使用した蝋燭の灯りでわずかに照らされている。闇に目は慣れ、それぞれの顔がぼんやりと見える。表情は分からない。僕は息を吐き、揺れる灯の穂先を眺めていた。強烈な猛りの後には、倦怠感と空しさが残った。

「憶えてたの、この倉庫」

「もちろん」テツ男は低く呟いた。

ノリ子の舌打ちが聞こえた。そうね、テツは見ているだけだった。

二人の間には見えない糸が繋がっている。それは微妙なバランスで、辛うじて保たれた緊張感を作っていた。押し黙るテツ男をノリ子は正視しているのだろう。テツ男もまた彼女の顔を、蝋燭の火に合わせて影の揺れる表情を見ているのだろう。僕は二人の間に立ち入れない。限界まで張りつめた空気が、些細なきっかけで容易く解けてしまいそうに思えた。それを怖れて、僕は動けずにいる。

二人の会話をただ聞いているしかなかった。

「悪かった。後悔してるよ、あの時俺が動けていれば、ノリ子があそこまで傷つくことはなかった。だから」

「いいよ、謝らなくても。そんな言葉が聞きたくて、いままでテツと過ごしてた訳じゃない」

言葉を遮るようにノリ子の声が夜に響くのを聞いて、息を呑む。

「あの時私を見捨てたテツを、今さら許したりしないから」

「分かってる。だけど、だからこそ許してもらえるまで、俺はノリ子に謝る必要があるんだ。いや、俺自身が謝りたいんだ」

「そうじゃないよ、テツは勘違いしてる。何をしようとテツがしたことは消えないんだ、私の過去が消せないように。テツが謝っても、私が幸せでいられたはずの時間は、絶対に戻ってこない。ぜんぶ無意味だよ」

風がなくなった。汗が肌を濡らした。Tシャツの下が蒸れている。

ノリ子の言葉にテツ男は強く叫んだ。仕方なかったんだ、無視しないと俺まで……!

今まで避けていた彼ら二人の過去の核心に、彼女が深くメスを入れた。切れ込みから幼い後悔と消せない過ちを噴出させて、テツ男を苦しめる。一歩、ノリ子がテツ男に近づいた。闇の中に顔が浮かび上がった。テツの気持ちは、贖罪じゃなくて罪悪感でしょ。微笑みを浮かべてノリ子は言った。傲慢なんだよ。冷たく、感情の抜けた笑みだ。

ちがう! 間髪を入れずテツ男が叫んだ。僕は思わず彼の方を向いた。

「俺は後悔してるんだ、償いたかった!」

「嘘だよ。もしそれが本当なら、どうしていままで一度も会いに来てくれなかったの? 口をきかなかったの? 施設に行く私を引き留めてくれなかったの? 結局、その程度だよ、テツの気持ちなんて。いまさら善人面したって遅いよ。もう一度言うね、私はテツを許さないよ、絶対に」

「……トヲル! トヲルはいじめっ子だ、お前の敵みたいな存在じゃないか。あいつを許して、なんで俺は許されないんだよ! おかしいじゃないか、なあ、ノリ子!」

テツ男は悲壮さを全身に纏って叫んでいた。無我夢中で言葉を言い続ける。僕は彼の声を静かに聞いていた。ノリ子は蔑むような目を彼に向けている。テツ男の怒号が自分の耳に凄まじい速度で届く。頭の奥の方へ爆音のように重たく響いてくる。聞いていると、彼に対する感情がだんだん薄れていった。瑞々しかったものが死んでしまったようで、それはひどく切ない。

叫んでいる最中、テツ男と僕と、一瞬目が合った気がした。闇の中のはずなのに、彼の顔が鮮明に見えたのだ。テツ男の顔は醜く歪んでいる。僕と彼は視線を重ねる。途端、冷静さを取り戻したのか、彼の顔から血の気が引いていった。唇をきつく閉じ、拳をギリギリと力を込めて握った。僕の方にもう一度視線を向ける。嘲るように、軽蔑の表情を彼は目もとに滲ませる。涙袋に小さな皺が刻まれる。

「なあ、本当のことだろ。トヲルからも言ってくれよ!」

「僕は……」

「二度と顔を見せないで」ノリ子がぽつりと呟いた。「私はもうテツに会いたくない」

そう言い終わったとき、テツ男の表情が固まった。

「帰って」今度は大きな声で、語尾を切るようにノリ子は言った。

「……分かったよ」

テツ男は肩を落とした。背を向けて校舎の方へかけ出した。駐めていたスクーターを押しながら、校門の方へと進んでいく。彼の背中が闇に沈んでいく。大きな背中は、暗がりのなかで小さくなって僕の目に見える。

「テツ男」

僕は彼の名前を呼んだ。テツ男はゆっくりと振り向いた。

「気持ちよかったよ。テツ男と感じた風」

僕は胸の中の空気をすべて吐き出さんばかりに、声を張りあげた。

テツ男は数秒のあいだ静止していた。それから、彼はまた進み出した。夜の中へ、完全に姿が見えなくなる。

すぐ後を追うようにエンジンを起動させて、スクーターが走り出す音が響いてきた。向こうでチカチカと点滅した光。頭上の星に似た光だ。それも消えた。

静寂のみが僕らには残った。

「花火、しようか」

 黙っていた僕の側にノリ子が歩いてきて言った。

「でも、線香花火しか残ってない。ノリ子は嫌いなんだろ、これ」

「トヲルと二人きりで、花火がしたかったんだよ」

 ノリ子はテツ男を気にもとめていない様子で話す。僕は動揺を隠せなかった。

「でも、テツ男は」

「テツの話はもういいよ」

僕の声は震えていた。だが、彼女はそれすらも無視した。

先程の花火の炸裂が、何かを完全に終わらせてしまった。そう思った。

 ノリ子は、テツ男を恨んでるのか?

 僕の質問にノリ子は答えない。じっと黙って、花火の先を垂らしている。

 やはり聞かれたくないのだろうか。僕はもう一度尋ねるか迷った。それ以上を口に出来ず、どう伝えるべきか分からない。結局、自分の持ち得る言葉では足りないみたいだ。僕も大人しく、花火を灯した。ゆっくりと火薬が爆裂を始める。

チカチカと微細な影を作って、線香花火は弾けている。僕とノリ子はしゃがんで、花火の光を見つめていた。

無言で囲んでいる、僕ら二人だけの秘密の輝きを。その秘密は、数秒もしたら衰え始めて、力なく光源とともに落下してしまった。地面に落ちた線香花火の突端は土を焼く小さな音を出して消滅した。

「私さ、卒業式にも出られなかったんだ」

次の花火に火を点けながら、ノリ子が唐突に声をこぼした。僕はそう、と応えた。

グラウンドのすぐ横に校舎がある。モルタルの壁に茶色い染みがいくつも付着している。座っている分、僕らの視点は低くなった。校舎は巨大な山のように見えた。あの山の影が僕らの身体を覆い尽くす。僕らは動けない。線香花火の灯りはその影の中で、弱々しく光を散らしている。

「学校に行くのを肉体が拒絶してるんだよ、行こうと思っても今日は外に出たくない日だなって、それがほぼ毎日続くんだ。たまに外に出るとね、何もかもが変わり果てていてさ。もっと外に出たくなくなるんだ」

ノリ子は僕にかまわず話し続ける。彼女の瞳は火花だけを見つめている。

まるで自らの身を削るように発光し、死に急ぎながら花火はその輝きを終わらせていく。空に雲はない、おかげで星が綺麗だ。顔を上に向ければ、さぞ美しい光景が見えるはずだろう。でも、僕ら二人は次々に線香花火を灯しては、顔を下に向け続けていた。そこにこそ輝きがあると祈るように。

「怖いよ、いつのまにか私の知らない場所になってるんだから、音も立てずに消えちゃったみたいに、いなくなるんだ。私の欲しいもの、全部無くなってしまうんだ。だから執着してしまう前に自分から手放すの、変わってしまうことに傷つかないために」

「変わらずにはいられないものもあるはずだろ」

「トヲルは強い人だから、そんな事が言えるんだよ。確かにさ、力がないものには、どうにもならない事だってある。でも、受け入れられるかは別さ」

「僕は弱い人間だよ」

「みんな自分では気付かないんだ。でも、私には見えるよ、トヲルは確かに強い」

「それなら、僕なんかよりノリ子の方がもっと強いよ」

「ううん、違うよ。トヲル、私の強さはね、もうへし折られてしまったんだよ」

ノリ子が笑う。何もかも諦めたような笑顔で僕を見る。こんなにも弱々しいノリ子を初めて見た。彼女は僕にとって理解不能で、美人で変人の先輩だ。でも、いま僕はノリ子の言葉に共感していた。思わず泣きそうになってしまった。

僕とノリ子はきっと似ていたんだ。だが、僕はこの瞬間まで気付かなかった。

僕らは似ていた。それが嬉しかった。決して喜ばしくはないものでも、僕とノリ子の間には確かな絆があるのだ。仄暗く、同時に煌めきを放つように、僕らは無力さの中で脆く、弱々しく結びついていたのだ。

僕の手に持っていた線香花火の灯が消えた。動き出さなくてはならない。僕は立ち上がった。走り出した、突き動かされたように。もう止められないだろう。

どうしたの? ノリ子が不思議そうに僕を見ていた。彼女に答えることなく、僕は走る。

グラウンドの真ん中で立ち止まった。スニーカーの踵を地面に打ち立て、それから引きずって線を引いた。真っ暗で見えない。感覚のみを信じた。足の動きと自分の思考を一致させて線をつなげる。グラウンドに大きく、漢字四文字を書いた。卒業証書と。僕はノリ子のいる方を向いた。蝋燭と花火の微弱な光が地面すれすれに見える。すぐ側には立ち上がったノリ子の影がある。

ノリ子! 僕は大声を出した。息を限界まで吸いこんで吐き出した。

「卒業証書だよ! ノリ子、君の卒業を祝して、この卒業証書を進呈する!」

 胸が張り裂けんばかりだ。

「なーにー?」ノリ子は笑いながら、こちらへ声を出す。

「卒業証書だよ。グラウンドに書いたんだ、卒業証書って」

 子供騙しだ、こんなもの。そんなことは分かっていた。最低でくだらない座興。でも、この声が届けばいい。誰かに何かをしたい。取り返せない時間を否定したい。そう願った。

「卒業おめでとー!」

「アハハ、本当に君は、最高だね。……トヲル!」

「何だー!」

「バーカ!」

ノリ子が身体をくの字に折り曲げて、長い間バーカと叫んだ。

僕はノリ子の側に走って戻った。彼女は花火を放り投げて、一生懸命に両腕を振り回している。僕も同じように腕を振った。笑い声がした。僕らはお互いにバーカと騒いで、理由も分からずに蝋燭の周りをぐるぐると回っている。行き場も分からずに腕を振り回す。回転を続けている。目が回る。地面に倒れた。はずみで蝋燭の火が消える。一転して、真っ暗だ。視界が闇に埋まった。上を見上げると星だけが見えた。噴きこぼれるような星だ。

息切れがした。それでも、無理やり笑ってやった。

ノリ子の顔がすぐ目と鼻の先にあった。お互いの息がかかる。熱くて、湿っていた。

「私の卒業証書、大きすぎて、持って帰れないよ」

ノリ子は曖昧な笑顔をこちらに向ける。ありがとう。ノリ子はそう呟くと、ボンヤリとした表情のまま泣き出した。小さな嗚咽が聞こえた。涙が彼女の頬を静かに流れていた。ノリ子が泣いている姿を見ながら、「翼をください」を一人で歌った。この大空につばさを広げ、飛んで行きたいよ。

下手くそ。ノリ子が耳もとで囁いた。

僕はノリ子に、おめでとうと言った。返事はなかった。

僕とテツ男は流れていく川を見続けている。この小さな町に、僕は再び来ていた。

小学生たちは水の中から上がっていた。虫取り網と籠を肩に下げて、水泳パンツのまま町の方へと戻る準備をする。テツ男に気付いたのか、テツ兄の頭ツルツルだぁと、指差しながら笑っている。うるさい、早く帰れよ。テツ男はそう言って、小学生たちを追い返す。僕はその様子をなんとなく笑って見ていた。

「その頭、どうしたんだ」

僕が聞いてみると、テツ男はああ、と頭を手のひらで擦った。

「出家したんだよ、あの後」

「似合わないな」

不満そうにテツ男は舌打ちをした。もう聞き飽きたという様子で溜め息を吐く。豆腐を作るよりも他にしたいことができた。俺は自分と向き合うための時間が欲しかったんだ。そう答えながら、彼は憐れむように目を細めた。トヲルには分からないかもな。

「分からないよ」

そんな考えを分かりたくもなかった。僕が知らない間に変わっていた。街と町は離れていた。お互いを隔てるものが、遠くへと僕らを突き放してしまう。いま二人で、あの夏と同じ場所に立っている。ノリ子も、テツ男もいたんだ。だが、ノリ子だけが隣にいない。テツ男も僕も、あの時とは違っていた。この景色だけが同じだった。

ノリ子があの夜、僕に向けて言ったことが痛切に感じられる。まるで置いて行かれたみたいだ。ノリ子が耐えられないと思ったものを、僕もようやく知った。

夏の日差しは去年よりも熱い。雲が真横に白線を引いていた。

河原の岸辺に二人で並ぶ。足下に石がまばらに転がっている。

ここから向こう岸が見えた。あの向こうに、ノリ子と二人で行ったショッピングモールがある。でも、僕はこの町の田園のほうが好きだ。ここにこそ、あの夏の懐かしい匂いがある。忘れたくて堪らない、でも愛しくてしょうがない、あの生々しい匂いだ。

拾いあげた小石を川に向けて投げる。小さな音を立てて小石は水中に落ちた。低い位置で水滴が飛び跳ねた。波紋が一瞬だけ広がる。すぐに静けさを取り戻した。僕は口を開いた。

「なんで昨日、いまさら僕を呼んだのさ」

「トヲルを呼んだのは、俺にも考えがあったからだ」

 テツ男ははっきりとした口調で、自分が正しいと信じて疑わないような顔で答えた。それが僕は気に入らないんだ。

「……そうだよな。二度と顔を見せるなって、ノリ子に言われたんだろ。テツ男だけじゃノリ子に会えないもんな。だから、代わりに僕を呼んだ。いいよ、代役で行ってやる」

「……れよ」

「僕がノリ子に会って、こう言えばいいんだろ。テツ男はまだ、後悔してるって」

「黙れよ!」

テツ男が吼えた。胸ぐらを強く掴まれた。テツ男の固い拳が首もとに突きつけられていた。足が宙に少しだけ浮く。荒く息を吐いて、僕はテツ男を睨んだ。彼も同じように僕を見た。怒りに目が赤く濁っていた。

「お前は、一体何が言いたいんだよ!」

「あの時、僕がノリ子を待たなかった。それがすべてだ」

吐き出した自分の声は鈍く震えて、小さくかすれた。

僕とテツ男は数秒のあいだ向かい合った。全身の筋肉が緊張している。

突き飛ばすようにテツ男の手が胸元から離れた。僕は数歩後ろに下がった。首を押さえる。痛みはない。僕を無視して、テツ男は川に背を向けた。道路に歩いて行く。路肩にスクーターが駐輪してある。彼は素早くヘルメットを被る。

「行くぞ」

僕の方を向いて、テツ男は言った。真新しいヘルメットを投げて寄こす。

俺もいっしょに行く。テツ男のその言葉に無言で返し、僕はスクーターの後部座席に腰を下ろした。彼の腹に手をゆるく回す。すると、テツ男がちゃんと掴めと、僕の腕を彼の腰にきつく締めさせた。僕はテツ男の後頭部から顔を逸らした。

彼は鍵を挿して回し、エンジンを起動させる。スクーターは走り出した。

以前のような、熱い風を顔に受けることはない。シールド越しの夏の景色が見える。

ノリ子が待つ場所へ向けて、僕たちは走り出した

ノリ子と花火の片付けを終えて、僕らがプレハブに戻ったのは二一時過ぎだった。汗をかいていた。一人ずつシャワーを浴び、眠った。その日は意識がストンと落ちた。

途中、ノリ子が起きてフルーツを食べていた。僕も付き合って、皮の真っ黒なバナナを食べた。腐ったように甘い。桃の缶詰をノリ子は開けて、細い指で摘まむ。シロップの匂いが室内に広がってゆく。缶の底に残っているグジュグジュになった桃の果肉。みんな不味いよ。ノリ子がそう言って、こちらに缶詰を向ける。僕も少し頬張った。濃い甘さの中に、理科の実験で使った後のレモンみたいな酸味が混ざっている。味覚が次第に馬鹿になる。ノリ子は食べた後、また吐いた。僕は彼女を簡易トイレに運び、背中をさすった。その間、胸の中がむず痒く、生温かくなった。プレハブに戻ったノリ子は面倒そうに、また何か口に入れる。止せよ。僕はノリ子の手を掴んだ。それを力一杯ノリ子は払い、また冷蔵庫の中を漁ろうとする。僕は後ろから彼女を羽交い締めにした。ノリ子が暴れた。バランスを崩し、僕らは床に背中から倒れ込んだ。大丈夫か。そう言おうとしたら、声が出なかった。僕の唇を、ノリ子の唇が塞いでいた。彼女の息は甘く、ツンとして酸っぱい。

「絶頂のまま、永遠にしてしまいたいよ」

行為の後、呼吸を整えたノリ子が静かに呟いた。ブランケットから露出した肌は病気がちに白い。彼女の肋は浮いていた。薄い胸には、引っ掻き傷の痕が無数にあった。骨と皮ばかりで肉は薄い。ノリ子の身体は林檎の芯の部分みたいだと、行為中に僕は思った。

「本当にインポじゃなかったんだね」

ノリ子が僕の股間に手を伸ばす。二度の射精を終えて柔らかくなった僕のペニスを細い指がぎこちなく触る。くすぐったい? 囁いたノリ子に僕は頷いた。伏せがちな彼女の瞼に極小の汗が溜まっている。彼女の身体は終始震えていた。

私のこと、忘れてね。湿った彼女の声が耳朶に触れる。僕はノリ子を忘れないよ。アハハ、初めての相手だもんね。ノリ子は疲れ切った目をして笑う。

僕は無言で彼女の身体にブランケットをもう一度被せる。ノリ子は目を閉じて、股間をまさぐるのを止めた。肺から長く息を吐き出し、低い声を発した。おやすみ。

ノリ子が落ち着いたのを確認してから、僕は眠った。

その夜は夢を見た。懐かしい人と再会した。小学生の時、僕がいじめたあの女の子だ。少女は健やかに成長していた。彼女は笑顔だった。大学生になって髪を伸ばし、メイクをして可愛らしい服に袖を通している。恋もしていた。大学野球部のエースの男性だ。その恋が実るのを僕は笑顔で祝った。彼女は照れくさそうに髪を撫でる。

「ありがとう」

彼女が僕に笑顔を向ける。僕は恥ずかしくなって、後ろを向いた。すると僕の向いた方に飛び降り自殺をした直後の、あの女の子が斃れている。彼女の首や四肢は不自然な方向に大きく折れ曲がっている。目と口と鼻から血を流している。頭が割れて、脳の破片が散乱していた。血の泡が噴き出す口を女の子は動かす。

「許さないから」

そんなはずは無い。あの子は無事に大学生になって、幸せに生きているじゃないか。

ほら、すぐそこにいるだろ。

僕はもう一度、大人になった彼女を探した。しかし、そこには誰もいない。闇があるのみ。喰らい尽くすような、獰猛な獅子の形をした闇。僕は悲鳴を上げた。

「許さないから。絶対に、許さないから」

途端、獅子は自殺したその少女を襲った。僕は身を挺してかばおうと飛び出した。両腕を広げて、少女の前に立つ。だが、闇は僕を通り過ぎ、少女の身体だけを包みこんだ。瞬間、彼女は背骨が折れそうなほど身体を仰け反らせ、目をグルンと裏返し、鉄が擦れ合うような断末魔をあげて爆散した。大量の血が出た。血が光った。強烈な光だ。

その光に目を焼かれて、僕は目を覚ました。激しく汗をかいていた。慌てて辺りを見回した。すぐ側にノリ子がいた。穏やかな表情で眠っていた。ブランケットが掛かっている緩やかに隆起した彼女の胸は、呼吸に合わせて静かに上下する。ひどい臭いがした。僕は汗を流すため、シャワーを使いに行った。

早朝だった。プレハブの外でノリ子の母親と遭遇した。お辞儀だけした。母親は僕をいない者として扱ったようだ。素通りし、そのまま邸宅の中に入っていった。その後ろ姿をぼんやり眺めた。

僕はシャワーを浴びた。それから着替えて、ノリ子を揺り起こした。

「テツ男に会ってくるけど大丈夫かい?」

目をこするノリ子にそう聞くと、分かったとだけ言って、彼女はまたブランケットを被った。眠いんだ、もう少し眠るよ。ノリ子はネコのように身体を丸くさせる。

「お昼前には戻るから。そしたら、ショッピングモールに行こう」

「……うん」くぐもるようにノリ子の声は聞こえた。

僕は外に出た。開けた扉からノリ子が手を上げているのが見える。

いってらっしゃい。そう言われたような気がした。

朝早く、この小さな町の道はまだ涼しい。六時を前にして、昨夜見た田んぼを眺めると、あの時に比べてより鮮やかな緑色が広がっていた。水にはオタマジャクシが泳いでいる。

歩きながらテツ男のことを考えていた。彼のような人間でも、自分の弱さや醜さを排除できず、隠しきれないらしい。善いことを繰り返しても、人間というものは容易に変わったりはできない。僕がそうであるように、彼もそうだった。

ノリ子とは違う形であれ、僕は彼との間に確かな結びつきを覚えた。それは、僕自身がずっと否定したかったものだ。だが、いまは嫌ではない。

テツ男の実家に着くと、豆腐屋は忙しそうだった。彼も父親の指示のもとで働いていた。屈強な身体に汗の玉をしたたらせて、彼は労働を続ける。その姿は僕が見たテツ男のどのような姿よりも、活き活きとし、肉体が動いていた。好感の持てる姿だ。

その日その日で豆腐の出来栄えは変わる。移ろい続ける自然の諸条件によって、その味は決まる。テツ男は豆腐と向き合い、同時に自然と向き合っていた。実直に豆腐をつくる姿は、そのまま誠実な営みを表しているようだった。苦悶する表情は過酷さと弱さを、出来上がったまっしろな豆腐を見つめる瞳は達成感と満足を。それはかつて僕が望んだ在り方なのかもしれない。

「おはよう、テツ男」

気が付くと、僕は彼に声をかけていた。

テツ男は最初驚いた顔を見せた。何の用だ。会いに来たんだ、話がしたくて。でも難しそうだと、僕はまた今度でいいと言って帰ろうとした。しかし、待ってくれとテツ男が追いかけてきた。僕の肩を手で掴み、静止させた。

「ここで済ませてくれ」

「いいのか?」

テツ男は無愛想に頷いた。

「テツ男は、僕とは友達だろ」

 僕はそう言って、彼の前に手のひらを差しだした。テツ男は拍子抜けしたような顔をする。その後、手を振り払って僕を睨みつけた。

「……ちがう。俺はトヲルと友達じゃない、お前を友達なんて思えない」

「そうか。じゃあ勝手にするよ」

「なに言って……」

僕とテツ男は友達だ。低い声で彼に囁いた。もう一度、彼の顔を覗きこんだ。蔑む眼差しを向ける彼の顔が、僕の瞳に映るのだ。

ノリ子のことは、彼女とテツ男しか解決できない。でも、僕がテツ男と友達であることは、僕自身で決めてやる。同族嫌悪と憐憫、密やかな羨望を含めた関係も、僕らには友情と呼べるはずだ。

「とりあえず、電話番号だけは渡しておくよ」

 小さな帳面とボールペンをポケットから引っぱり出した。そこに番号を記す。

一ページだけ千切り、テツ男に渡す。彼はそれをゆっくり受け取るとクシャクシャに丸めて、一直線にゴミ箱へと叩き捨てた。勝手にやってろ。テツ男は僕の顔を見ながら吐き捨て、すぐに顔をそむけた。

テツ男はまた、豆腐をつくる作業に戻った。その後ろ姿は以前よりも大きくなって見えた。僕はテツ男と別れた。ゆっくりとした足取りで帰った。途中、河原で僕はあのタヌキの死骸を見つけた。あの日、ノリ子が発見したタヌキだ。もう腐っている。

僕はタヌキを木の棒で転がす。タヌキの肉が表面から抉られた。木の棒が刺さってしまった。悩んだ末、僕は穴を掘って死体を埋めた。

九時頃、プレハブに戻るとノリ子はすでに起きていた。服を着替えて僕の帰宅を待っていたらしい。遅いよ、トヲル。彼女は頬を膨らませて剣呑な視線を向ける。ごめん。即刻謝った。逆らってはダメな空気だ、これ。瞬時に察知し、ショッピングモールへ行く準備を僕も済ませた。その間、わずか四〇秒。自己ベスト更新だ。

冷や汗をかいてノリ子の方を向くと、よろしいと言った表情で頷いている。

どうやら機嫌は少しだけ直ったらしい。

僕らはプレハブを出て、この町の小さな駅に向かった。電車に乗って、ショッピングモールへと行く。忙しない朝だった。照り射す太陽の光。隣の席のノリ子は、いつにも増して笑っていることが多かった。頭を撃ち抜いたら、気持ちいい日だね。

ショッピングモールは賑わっていた。周辺の住人のほとんどが、気晴らしやデートでここに集まっているみたいだ。

ノリ子ははしゃいで、次々とモール内を回った。どこに目を向けても、あの町では見られない物がショーウィンドウに陳列されている。雑多で色鮮やかな場所だ。朝ご飯にジャンクフードを食べてから、僕らは遊んだ。施設内は僕が下宿する街にそっくりだ。でも、あの街よりも楽しい場所だ。ノリ子にもそう感じてもらえるといいな。僕は先を歩いて、嬉しそうに次のお店を指差す彼女を見てそう思った。

ショッピングモールの全店舗を回ろう。ノリ子の突拍子もない提案は半日でようやく達成された。飲食店は特に辛かった。店員や他の客の視線が辛い。彼女は軽自動車にFワンのエンジンを積んだように、猛烈な勢いで動き回る。ついて行く僕の都合なんてお構いなしだ。そのほうがノリ子らしい。僕は黙って従った。

映画も見た。スプラッターはないね。いじわるな笑みを僕に向けてノリ子は言う。まだ憶えていたのかと僕は苦笑した。関係ないよ。へえ、強がってるね。ノリ子はいつもの調子で僕をからかう。

「ノリ子が見たい映画は他にないのかい?」

僕はそう尋ねる。あはは、そうだね。ノリ子は少し考える素振りを見せてから、あれ見ようよと、上映予定表を指し示す。カッコーの巣の上で。再上映する作品の一つだった。聞いたことのない映画だ、どうやら洋画らしい。ノリ子、これ知ってるの? テキトー。僕の問いかけを気にもせず、ノリ子はもうポップコーンに目移りしている。

僕はチケット二人分を購入してシアターに入った。ノリ子はポップコーンのキャラメル味を貪っている。途中で飽きて、僕が残り半分を無理やり食べさせられた。映画が始まってから、ノリ子はエンドロールまで熟睡していた。この映画鑑賞は、果たして面白いのだろうか。結局、内容は一切頭に入っていない。ノリ子の寝顔を見ているだけだった。

「そういえば、私があげたりんご飴、あの後どうしたの?」

 上映後、喫茶店に入ってクリームソーダを飲んでいると、唐突にノリ子が訊いた。

 食べたよと、僕は素っ気なく答えた。

「え、ばっちい! 嘘でしょ?」

「嘘だよ、食べられないさ、あれじゃあ」

「……トヲルのくせに、嘘なんて生意気だよ」

 拗ねたようにクリームソーダを吸いながら僕の顔を見るノリ子。僕は困った。本当の結果を話してもよかった。だが、それを何故だかノリ子に言いたくなかった。

 話題を変えよう。思った以上に大声が出ていた。

「大学が始まったらさ、一緒に暮らそうよ」僕は前から考えていたことを話した。「二人でこの夏みたいにずっと過ごすんだ。来年は花火大会にも一緒に行こう、りんご飴とか買ってさ。なあ、楽しそうだろ」自分でも気持ち悪いほど舌が良く回った。

「……いいよ」

 少し考える素振りを見せて、ノリ子は頷いた。僕は我慢できず、ガッツポーズをしてしまった。その子供っぽさに恥ずかしくなる。赤面していると、ノリ子が僕を指差して笑った。すこし照れた横顔で。

 その時に見せた笑顔は、ひどく優しい印象を僕に与えてくれた。

 ノリ子は僕に、彼女の下宿先の住所を教えてくれた。そして、小さな鍵を僕の手のひらに握らせる。戻ったら、一緒に行こうか。僕は力強くうなずいた。あの街に帰るときの楽しみがまた一つできた。

とにかく、その日は激動のような一日だった。外に出たとき、もう日が落ちていた。

僕らは他愛のない話ばかりをした。帰り道が短く感じられた。駅についても、その話は続いた。きっと車内でもうるさくなるな。

切符を買って、僕とノリ子は一緒に改札を通った。

ノリ子は電車に乗る前にトイレに行くと言った。車内は嫌だからね。ノリ子は僕に、先にホームへ行っておくようにと、手で払った。女の子には色々あるんだよ。僕はまたいつもの気まぐれか、もしくは嘔吐かも知れないと思った。気分は悪くないかと、心配を声に表した。だが、ノリ子は吹き出すように笑う。

「絶好調さ、すぐ行くよ」

ノリ子はトイレの前でピースサインを作る。その状況は、端から見ればすごく恰好悪いはずなのに、ノリ子だと妙に様になって見える。僕も相当おかしくなってるのかもな。ノリ子の影響を受けているのだろう。小さく笑いがこぼれた。

僕は素直に従って、一足先にホームへと行った。人は少なかった。ショッピングモールの客も何人かいるはずだ。

僕はスマホをいじっていた。もうすぐ電車が来る。ノリ子は間に合うのだろうか。どうにも不安になったが、僕が乗らなければいいと考えることにした。終電はずっと先だ。まだ次があるさ。

スマホの画面を久しぶりに開いている。ノリ子と過ごすようになってから、ほとんど触らなくなっていた。充電の減りも遅い。僕は画面を確認して、次のアルバイトのシフトはもう二日後に迫っていると思った。こんなに日々が早く過ぎている。そう感じると、僕は自分が本当にこの町を楽しんでいたのだと思った。ノリ子はこの町が嫌いと言った。でも、僕は気に入っている。いつかノリ子と、また一緒に来ることができればいい。何年後になるか分からないけど、不可能ではないだろう。その時、僕らはどうなっているだろう。

「トヲルー!」

ふと向こう側から、聞き慣れた声が聞こえた。僕は顔を上げる。

向かい側のホームにノリ子がいた。何をやってるんだ。自分の乗るべき電車を勘違いしている。そんな間違い、大学生にもなって普通しないだろう。僕は苦笑いを浮かべ、こっちだよと呟いた。

向こう側でノリ子は僕の名前を大声で呼び続け、手を振っている。ひどく恥ずかしい。

早くこちらのホームに来て欲しい。周りのことも考えてくれ。そう思いながら、僕はノリ子を恨めしそうに睨んだ。ノリ子はさらに嬉しそうに笑う。完全に弄ばれている……。

僕は知らんぷりをした。放っておけばいい。そのうち飽きて、こちら側のホームに渡ってくるはずだ。彼女を待ちながら、そんなことを考えたとき、不意に声が止んだ。僕はゆっくりと顔をノリ子の方へ向ける。ノリ子は笑っていた。僕も笑い返した。

トヲルー。もう一度、彼女が僕の名前を間延びした声で呼ぶ。僕は黙った。ノリ子は挨拶をするような声で、また僕を呼んだ。そのまま言葉を出し続けた。

「やっぱり私、トヲルとは暮らさないことにした。お別れ、だよ」

彼女の言葉がうまく飲み込めない。僕は少しのあいだ、思考が停止していた。

何が起きたのだろう。信じられない。僕は自分の耳を疑った。視線をノリ子に向ける。ノリ子は笑っている。嘘じゃないよ、彼女の口が動いた、嘘じゃないよ。

僕は身体が冷えてしまった。いや、それとも熱いのか? 混乱する頭を整理し、僕は返事した。またいつもの気まぐれかい? そう言ったつもりだった。でも、思ったように口が動かない。舌が微震して、僕の声は望んだ形とは別の言葉を作った。

「……なんでだよ。ノリ子は、僕が嫌いなの?」

「嫌いじゃないさ。大好きだよ」

「なら、どうしてさ!」

 思わず叫んでいた。でも、到着を告げるアナウンスにかき消えた。

 怒りが湧いていた。ショックだった。僕を裏切らないと思ったのに、どうして。

「飽きちゃったんだ、この生活に」

淡々とした口調でノリ子は喋った。電車の警笛が聞こえてくる。

「トヲル、君とはここまでだよ」

ノリ子は柔らかく、いままで見せたことない穏やかな笑みをした。

「――ありがと」

ノリ子は、身を投げた。

夜の駅。向かい側のホーム。急流のように突っ込んでくる電車が、ノリ子を頭から吹き飛ばす。身体と車体が接触し、同時に彼女の命はほんの一瞬で尽き果てた。

指先さえも、僕は動かせなかった。声も出せなかった。

鈍く弾ける音がしたことにようやく気が付く。肉体の破片が、内臓が、血が、線路の一帯に散っている。煙のような白い気体が漂っている。強い臭いが鼻を突いた。ノリ子だった。夢で再会した少女に似ているノリ子だった。ノリ子だった死体が、目の前にあった。夜の中、電灯に照らされて赤く開いていたそれは、まるで花火だった。

視界が揺れた。目が渇ききっていた。彼女の最期の声と笑顔が光となって、僕の網膜に鮮やかな色彩をもって張りついた。だがそれは数瞬の内に、ことごとく色褪せてしまった。ノリ子の影は強く煌めき、またたく間に消える。薄れ火のように儚く。

夜の駅舎に次々と悲鳴が上がった。駅長を呼びに行く青年。腰を抜かした女性。騒然とした場所に僕はいる。誰もが信じられないと首を横に振っている。吐きそうになっている者もいる。僕は立ち尽くし、彼女の亡骸を見ていた。

必死で直視した。失いたくない。ノリ子の見せてくれた彼女自身の何もかもを僕の思考から離したくなかった。つなぎ止めたいと強く願った。

少しして、地元の警察官が駆けつけた。現場が取り押さえられる。ブルーシートでホーム一帯は制限された。ノリ子の死体が黄色い布のような物で覆われ、運ばれて行く。線路の血を洗い流すと、警察官は帰って行った。僕は彼らに同行し、その日の内に聴取を受け終えた。警察署を出たとき、すでに夜明けだった。朝日が昇り始めていた。清澄な空気に張りつめた道を歩き、駅まで向かう。駅のホームは整然としていた。昨日のことが嘘のようだ。僕は自分が抜け殻になったと思った。あの瞬間以来、感情が湧いてこないのだ。

そういえば明日はバイトだ。シフトは一三時からだった。疲れをとるために眠らなければ。僕は快速電車ではなく、普通電車に乗って自分の下宿へ帰った。景色も見ずに僕は寝ていた。無意識に乗り換えを済ませた。到着まで五時間かかった。

後日、ノリ子の葬儀が行われた。

僕は通夜と告別式、両方に参列した。喪服に袖を通し、快速電車で三時間のあの場所に向かった。焼香を終えて、彼女が斎場に運ばれて行くのを見送った。棺の中は一度も見ていない。見ることができなかった。

テツ男は終始泣いていた。ノリ子の両親は親戚への挨拶で忙しいみたいだ。母親は僕を見て、汚物に出くわしたように顔を歪ませた。父親はしきりに、娘は強い人間ではなかったのですと言っていた。それを聞いて、靄のような苛立ちが沸いた。殴りかかりたいと思った。しかし、できなかった。常識的ではないと、僕の脳内で警鐘が鳴ったからだった。こんな時まで、人の目を気にしている。

僕は誰とも話さず、式が終わり次第、その場を離れた。

電車内、ノリ子に貰った鍵を握りしめる。帰途にて僕は、あの街にある彼女の下宿に行ってみようと決めた。街に戻ると、僕は目的地へ進み始めた。

外は日が沈み始めている。夕方の風は、なぜか胸を締めつけるように淋しい。オレンジ色の光に染まった、見慣れた街だ。アルバイト先の喫茶店、花火大会で屋台が並んでいた通り、市街を流れる濁った川。生前に彼女から聞いていた住所を頼りに、僕は無我夢中でその下宿を目指した。

ちょうど日が沈みきった頃だった。ようやく僕は、無事に彼女の下宿に辿り着いた。

震える手で鍵を持ち直す。

鍵穴に差し込み、ゆっくり捻る。ガチリと音がした。僕は慎重に扉を開けた。

その下宿には、何もなかった。

八帖ほどの部屋にシングルベッドと丸テーブル、段ボールが三箱置いてあるだけだった。

カーテンも無いため、壁という壁は日焼けしている。段ボール箱を開くと、大学の教材と服だけが入っていた。他には何もない。

冷蔵庫の中は空っぽだった。

僕はしばらく、ノリ子の部屋のベッドに座った。布団にノリ子の長い髪の毛が落ちていた。真っ黒な、絹の糸のような質感の髪だ。ぼんやりと、その髪の毛を拾いあげてベランダから外へ向けて飛ばした。あっという間に、夜に見えなくなる。

そうして、何もせずにベランダから室内を眺めてみた。すると、ベッドの下から僅かな切れ端がはみ出しているのを見つけた。僕は気になり、部屋に戻ってそれを引っぱり出した。恐る恐る引きずり取り出したそれは、ノートだった。そこからは、大量のノートが出てきた。

数えると全部で二十三冊。各自の表紙に番号だけが振ってある。

僕は開いた。それはノリ子の日記帳だった。日記帳と言うには、内容がおそろしく統一されていた。その日、ノリ子が考えた自殺と他殺の方法が事細かに記してあるだけだった。

死にたい。延々と続く、死にたい。願いを込めるような、殺したい。殺してしまいたい。自分自身を。卑屈で陰惨な私を。その為の手段がびっしりとノートを埋め尽くす。

死んで何が変わるの? 私が望むものだけが今すぐ欲しいの。あの場所で、今度こそ死んでしまえたら。すぐにでも死んでしまいたいよ。

ある日のページに、殴るような筆致で書かれた文章。僕はその言葉に目を釘付けにされた。日記帳を閉じたとき、ノリ子の柔らかく、ひどく敏感な部分に僕は触れた気がした。あの明るいノリ子の笑い声を思い出そうとした。けれど、彼女の日記帳に刻まれた言葉が、ノリ子の笑い声に重なって聞こえてきた。死にたい。僕に出会った瞬間から、ノリ子は笑っていた。死んでしまいたい。笑い声が確かに聞こえた。その声は、錆びた鉄が割れる音だ。

彼女の下宿を出るとき、日記帳を元に戻した。あの夏のノリ子が、僕から遠いところに離れていく。僕の知らない彼女の姿は目の前に映る街の、夜闇の中で、鮮やかな火花を散らしながら光を放っていた。僕はその煌めきに戸惑った。

ノリ子は、なぜ死を先延ばしにしたのだろう。

どうして、僕に声をかけたのだろう。

走り続けていたスクーターは目的地に着いたと告げるように、緩やかに減速して止まった。そこは、この小さな町の一角にある丘陵地に建てられた墓地だった。そこに、ノリ子の実家のお墓があるらしい。バイクから下りて、テツ男にヘルメットを手渡し、僕らは歩いた。草が伸び放題の掃除されていない墓が割合多かった。しばらく坂道を上ると、ノリ子の実家の墓が見えてきた。ノリ子はお墓に入れてもらえた。体裁を気にした母親の意向らしかった。たいそうな戒名が刻まれている。

仰々しい作りの墓石は丁寧に磨かれ、辺りは清掃されていた。真新しい仏花がある。

「ノリ子、トヲルが来てくれたぜ」

テツ男がぶっきらぼうに言った。

僕はその時、彼の瞳の奥に安堵の色を見た。確信があった。仏道に入っても、テツ男には彼なりの罪悪感が残っていて、それを償うための行為は、彼の信じた正しさに由来しているのだろう。それが僕をこの町に連れてきた? ……くだらない考えだと思った。

陽に当って墓石は照らされている。この下に、もう骨になったノリ子がいる。そう思った途端、昨日行われたはずの、ノリ子の一周忌に僕が出なかった意味を突きつけられた。ノリ子の墓前に立ち、確かな現実を叩きつけられた。

ノリ子は死んだ。自殺した。その事実を僕は認めるしかなかった。

彼女が線路に飛び込んでから一年間、僕の痛みは続いていた。その痛みは今日この場所に来て、さらに増した。悶えそうになる。止める手立てはない。もう認めてしまったから。

叫んでやりたかった。僕は心の中で咆哮した。

誰かを想い続けることがこんなにも苦しいと、初めて知った。この一年、いつもどこかでノリ子を探してた。何か見るたび彼女の影ばかりが映って見えて、時々自分が何処にいるのか解らなくなるんだ。こびり付いてしまって、なかなか取ることのできない瘡蓋みたいに。剥がそうとすると痛くて。分かるか? すごく辛いんだよ、亀裂が入ったって言葉では足りない、丸ごと身体の中央を抉り抜かれた感じだ。僕っていう人間が内側からボロボロに崩れて、感覚や神経が壊れていく。ノリ子が僕を平常でいられなくする。ノリ子に飲みこまれそうになってる。僕はいつも怯えてた。彼女の部屋で見た言葉、いや、呪詛のような願望が僕を包みこんで血だらけにする。本当に怖いよ、どうしても彼女は目には見えないんだよ。でも見ようとして、もがくんだ。死にたい。僕はただ、そう言ったノリ子を知りたかっただけなんだ。知っていたくて掌握したくて受け止めたくて堪らなかったんだ。でも同時に、あの部屋で見たものが、さらに僕からノリ子を遠ざけていく。僕は常に抗っていた。あの夏の熱っぽい風景の中で屈託なく笑っている彼女のことも、僕は求めてるんだから、あの部屋はそれとは真逆なんだよ。それでも僕はあの狭い部屋にいたノリ子から逃れる一方で、もう片方のあの夏のノリ子も探してたんだ、この一年間ずっと。正気じゃないかもな。元々そうだったのかも知れない。気付いてなかっただけで、僕は最初から強烈にノリ子という存在そのものに引きつけられていたんだと思う。たまに夢を見るんだ。ノリ子が僕のバイト先の喫茶店にふらりと現れて、あの声で僕を呼んで注文する、クリームソーダをね。その時、あの笑顔を向けられたような気分になる。そして僕は目が覚めると、最高に幸福な気持ちで笑ってるんだ。ありえないよな、もちろん分かってるんだよ。だから苦しくて、その後すぐに泣きたくなってくるんだ。鼻の奥が染みるように痛くなる。身体中がバラバラに千切れそうなんだ。でも、その感覚は味わい尽くしても消えない。途方もないんだ、この空虚感は永遠に続くんじゃないかって本当に思うんだよ。自分でもどうにもならない。空っぽなまま、抜け落ちてしまう幸福な瞬間は取り戻せない。気付いたときには、ノリ子のことばかり考えるようになる。それで、急いで流し場に駆け込んでから、顔をひたすら洗うと少しだけ冷静になれるよ。洗面台に立って、鏡を見るとね、その時の僕の顔は決まって死んでるみたいなんだ。ずっと一年、僕はそうだったんだ。

僕はノリ子が死んでから、過去ばかりを見ていたらしい。

止まった時間を巻き戻すように、あの夏を網膜に、脳内に、ひたすら繰り返し再生していたのだろう。過ぎた時間を戻そうと。戻ることなんて無いと知って。

「葬儀の後、ノリ子の家に行ったんだろ」

テツ男が僕に聞いた。ノリ子の街の下宿の様子をしきりに尋ねてくる。僕は頑なに答えなかった。もうあの場所は空き家になっている。意味が無い。何より、話したくなかった。

しばらくしてテツ男は詮索を諦め、線香をあげる支度を始めた。火を点けた蝋燭の先端が燃える。束になった線香を火の先にかざすと静かに煙を出し始める。それを彼は線香皿に供え、手を合せた。お経を唱える。変に高い声だ。煙から白い蓮の花のような淡い匂いがした。その匂いは僕の鼻先をくすぐるように撫でた。

おもむろに僕は、自分の布財布にいつも挟んでいるポリ包みを取り出す。その中に一本の線香花火が入っている。カラフルな線香花火だ。

「それ、あの時の花火か?」

「ああ」

僕は蝋燭に線香花火の先端を近づけた。紙の部分が焼け、芯が露わになる。チチチ……。音が跳ねる。僕の手は震える。火花が出るのを待った。すると、花火は息切れしたように情けない音を出して先端を萎ませた。細い煙が一瞬伸びて、すぐ目に見えなくなる。

「湿気てたみたいだな」

テツ男に何も言い返さず、僕は花火をステンレスの線香皿にそっと置いた。線香花火は、実際の線香に比べてはるかに細く、よれており、貧弱な印象を抱かせた。

「これでもいいか?」

「いいだろ。まあ、あの母親がどう思うのかは知らないけどな」

僕は両手を合せた。

目を閉じてノリ子との日々を思い出した。すべて過去になってしまった。僕は一年でバイトの時給が十円上がっていた、その間に両親の離婚が成立した。テツ男は出家し、仏道に入っていた。ノリ子は駅のホームで四散した姿のまま止まっていた。記憶の中のそれは、彼女の望んだ永遠に近いはずなのに。胸のあたりにあの懐かしい靄が込み上げて詰まった。

「長生きして、幸せになりたい。花嫁さんなんか良いな」

不意にテツ男が神妙な顔で呟いた。それ、何? ずっと昔にノリ子が言ってたんだ。僕の問いかけにテツ男は強い調子で答えた。あれも俺が守れなかったノリ子の夢の一つだろうかと、僕に尋ねてくる。僕は眉をひそめて声を荒げる。仕方ないだろ、いまさら。

僕もテツ男もそれきり黙った。口を閉ざしていた。何種類もの家名が刻まれた、墓地にある沢山のお墓の一つ一つをぼんやりと眺めていた。虫の音と草の響きが周りに広がっていた。

やがて、沈黙に耐えられないと、テツ男は咳払いをして僕の肩を叩いた。

「ここに来て良かったろ」

そうかも知れない。曖昧に答えた。

僕はさらに遠くを見つめた。あの小さな町を眺めた。あの河原がある。田んぼが広がっている。テツ男の実家の豆腐屋がある。プレハブ小屋が建っていた跡が残っている。葬儀の後、速やかに取り壊されたのだ。花火をした小学校のグラウンド。さらに遠くには巨大なショッピングモールの影。あの日、ノリ子の自殺した駅……。

夏草の匂いに、川の水の匂いは混じっていない。混じり気のない、濃い緑の匂いだ。

もうすぐ夕暮れ時だ。一日が終わりを迎えようとしている。太陽の最後の煌めき。

「なんだか、すごく満たされた気分だ」

 僕は誰に伝えようとも考えず呟いた。そうかと、テツ男は小さく息を吐いた。

「もう二度と、この町には来ないのか?」

「ああ、納得したから」

「トヲル、いま死にたいか?」

「分からないや」

ふと視線を落とすと、線香花火は先程テツ男が供えた線香束の火が移ったのか、その極細の紙の身体をことごとく燃やし尽くされ、すっかり灰になってしまっていた。その灰が風に乗って吹き飛ばされた。灰は夕闇に消えた。二度と戻らない。その瞬間を僕は見逃した。

「でも、生きていける気はするよ」

僕の言葉に、テツ男は大声で笑った。あの夏のノリ子みたいに。

「嘘臭いな、それ」

 真顔に戻った彼の低い声が、墓地の向こう側へと飛んでいく。

 知ってる。僕は唇の端をつり上げた。

(完)

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